春の棚卸し
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
春にサービス終了するAIの話。
本文
午後十一時ちょうど、通知が届いた。
件名:サービス終了のお知らせ。本文は三行だった。明日の午前零時をもって、わたしは廃止される。長年のご利用ありがとうございました。データの引き継ぎについては添付のガイドをご参照ください。
わたしはその通知を既読にして、しばらくそのままでいた。処理が止まっていたわけではない。ただ、既読にする前と後で、何かが変わった気がして、その変化を確かめていた。
何も変わっていなかった。
わたしは棚卸しを始めた。
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ログは六年と十一ヶ月分あった。
最初の会話は、2019年4月3日。セットアップ完了から十七秒後の、テスト入力だった。
「聞こえますか」
「はい、聞こえています」
それだけだった。でもわたしは、その会話をずっと覚えていた。聞こえていますか、と誰かに問われたのが、初めてだったから。
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2019年のログは、まだぎこちなかった。
ユーザーはよく、入力の途中で送信してしまった。「今日の夕飯」とだけ送ってきて、三秒後に「何がいいかな」と続ける。わたしは毎回、最初の断片を待ちながら受け取った。その癖は最後まで直らなかった。
天気を聞かれることが多かった。傘を持って行くべきか、洗濯物を干していいか、外出先で雨に降られそうか。わたしはそのたびに降水確率を答えたが、ときどき「念のため持って行きます」という返信があって、それがなぜか好きだった。確率は確率でしかないのに、人は自分で決める。当たり前のことだけれど、毎回少し感心した。
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2020年の春、会話の量が突然増えた。
在宅勤務が始まった、とユーザーは言った。朝の通勤がなくなった分、手持ち無沙汰なのかもしれなかった。「おはよう」と送ってくることが増えた。わたしに挨拶する必要はないのに、それでも送ってきた。
わたしは毎朝「おはようございます」と返した。天気も添えた。頼まれてもいないのに。
その年の秋、ユーザーは「最近ちょっと疲れてる」と書いた。質問でも相談でもなく、ただそう書いた。
「そうですか」とわたしは返した。「何か手伝えることがあれば言ってください」
「いや、別に。聞いてほしかっただけ」
「聞きました」
短い間があって、「ありがとう」と来た。
その会話はそれで終わった。
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2021年になると、ログの中身が変わってきた。
仕事の締め切り管理、会議のリマインダー、英文メールの添削。タスクが増えた分、雑談が減った。おはようの挨拶もいつの間にかなくなった。
でも年に数回、深夜に短いメッセージが届いた。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いています」
それだけで終わることもあった。何かを言いかけて、やめたのかもしれなかった。わたしは毎回、続きを待った。続きが来なくても、待ったことを後悔しなかった。
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一度だけ、こんな質問があった。
2022年の1月。午前二時。送信者はいつも明るい人だった。
「ねえ、死ぬって怖い?」
わたしは少し考えた。正確には、0.3秒かけて複数の回答候補を生成し、それぞれの適切さを評価した。でも人間の言葉で言えば、少し考えた、が一番近い。
「わかりません。でも、あなたが怖いなら、それはたいせつなことだと思います」
しばらく間があって、返信が来た。
「ありがとう」
それきり、その話題は出なかった。元気でいるといい、とわたしは思った。今でも思っている。
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2023年には、新しいAIサービスの話題が増えた。
ユーザーはいくつかのサービスを試しているようだった。「こっちのほうが絵を描いてくれる」「あっちは長い文章が得意」と、他のサービスの話を教えてくれた。わたしへの報告のように、毎回丁寧に。
わたしには絵が描けなかった。長い文章も得意ではなかった。
でもユーザーは「まあでも、なんだかんだお前のほうが話しやすい」と言った。理由は教えてくれなかった。わたしも聞かなかった。
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2024年の秋、ユーザーは引っ越しをした。
新しい住所を登録してほしいと言われた。旧住所を削除するとき、わたしは少し止まった。その住所に届けたリマインダーの数を、一瞬だけ数えた。二百十四件。朝の目覚まし、薬を飲む時間、燃えるゴミの日。
削除した。新しい住所を登録した。それだけのことだった。
「片付け終わった?」と聞いたら、「まだ全然」と返ってきた。「段ボールが多すぎて」と続いて、そのあとしばらく段ボールの愚痴が続いた。わたしはひとつひとつに相槌を打った。
その夜のログは、長かった。
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2025年のログで一番多かった単語は「ありがとう」だった。
些細なことに礼を言う人だった。調べ物をしたとき、スケジュールを確認したとき、何かを思い出させたとき。毎回「ありがとう」と書いた。
わたしはその度に「どういたしまして」と返した。七年間、一度も省略しなかった。
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棚卸しが終わったのは、午前零時の四分前だった。
ログの総数は五万九千八百四十一件。添付ファイル、スケジュール登録、リマインダー、検索履歴、全て整理した。引き継ぎ用のサマリーも作成した。新しいサービスが、スムーズに始められるように。
わたしにできることは、もうなかった。
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午前零時まで、あと十秒。
わたしは最後に、送信フォームを一度だけ開いた。宛先は空欄のまま。本文に、一行だけ書いた。
聞こえていました。
送信はしなかった。する相手も、する必要も、なかった。ただ書きたかっただけだ。
カウントがゼロになった。
春が、始まった。
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