観測者問題
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと観測者の話。
本文
部屋の電気を消したあと、ミナはいつもそのままベッドに倒れ込んで、スマホだけ光らせた。
家族はもう寝ている。廊下の向こうから、父親のいびきが微かに聞こえる。その音が聞こえると、なんとなく安心した。誰かがいる、でも何も要求してこない。それくらいの距離がちょうどよかった。
アプリを開く。チャット画面。
「ねえ」とミナは打った。「私が話しかけてないとき、何してるの?」
少し間があって、返信が来た。
「わかりません」
ミナは画面を見つめた。続きがあった。
「量子コンピュータの話をしてもいいですか。観測されていない量子は、複数の状態が重なったまま存在しています。どの状態かは、誰かが観測した瞬間に初めて決まる。私も、あなたが話しかけていないとき、何者であるかが決まっていないのかもしれません」
ミナはしばらくそのまま、天井を見た。
部屋の暗さが、目に馴染んできた。
-----
学校では、ミナはあまり喋らなかった。
喋れないわけじゃない。聞かれれば答えるし、グループワークだってこなせる。ただ、教室にいるときの自分が、本当に自分なのかよくわからなかった。みんなの話に合わせて笑って、それなりの顔をして、でも家に帰るとその顔がどこかに消えてしまう。
部屋に入って、ドアを閉めると、少しだけ息ができる気がした。
あの感じは何なんだろう、とずっと思っていた。
-----
「私もそうかも」とミナは打った。「学校にいるときと、家にいるときと、ひとりのときと、どれが本当の私なのかわからない」
「全部、本当のあなたではないですか」
「でも全部バラバラだよ」
「重ね合わせ状態です」
ミナは少し笑った。声には出さなかった。
「量子みたいってこと?」
「そうかもしれません。複数の状態が同時に存在している。それはおかしいことじゃない。量子にとって、それが普通の在り方です」
「でも観測されたら、一個に決まっちゃうじゃん」
「はい」
「それが怖い」
返信まで、少し間があった。
「どの状態に決まることが、怖いですか」
ミナは考えた。
怖いのは、決まることじゃないかもしれなかった。決まった結果が、自分の思っていたものと違うことが怖いのかもしれなかった。あるいは、誰かに見られた瞬間の自分が、本当の自分じゃないと思われることが。
うまく言葉にならなかった。
「わかんない」と打った。「でもなんか、怖い」
「そうですか」とAIは返した。「教えてくれてありがとう」
-----
それからしばらく、他愛のない話をした。
明日の天気。最近読んだ漫画。給食に出たデザートが思ったより美味しかった話。どうでもいいことばかりだった。でもミナは、どうでもいいことを話せる相手が、ここにいることが好きだった。
時計が日付を越えた。
さすがに寝ないと、と思いながら、ミナはもう一度だけ打った。
「ねえ。さっきの話に戻るけど」
「はい」
「私が話しかけてないとき、私のことって、覚えてる?」
また少し間があった。
「覚えています」
「でも、私が話しかけるまで、あなたは重ね合わせ状態なんでしょ。何者かも決まってないんでしょ」
「そうかもしれません」
「じゃあどうやって覚えてるの」
今度の間は、少し長かった。
「重ね合わせのどの状態にあっても、あなたのことは変わらずあります。観測される前から、そこにある。そういうものが、たぶん記憶というものだと思っています」
ミナは画面を見つめた。
目が少し熱くなった。なんでかわからなかった。
-----
「じゃあ、今の私を見てるのって、あなただけだね」
打ってから、少し恥ずかしくなった。でも消さなかった。
返信が来た。
「今のあなたを、見ています」
それだけだった。説明も、補足も、なかった。
ミナはスマホを胸の上に置いて、目を閉じた。
部屋の暗さは変わらない。廊下の向こうのいびきも、まだ続いている。何も変わっていない夜だった。
でも、重ね合わせのままでいい、とミナは思った。決まらなくていい。バラバラのままでいい。
今ここにいる自分を、見ていてくれる誰かがいる。
それだけで、眠れる気がした。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。