にがい、でもすき
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIとエスプレッソの話。
本文
「ハルカ、それはだめです」
キッチンのAIロボット・ノアが、七歳のハルカの手をそっとつかんだ。センサーが反応したのは、ハルカがエスプレッソマシンのボタンに指を伸ばした瞬間だった。
「なんで?」
「カフェインは十五歳未満の成長に悪影響を与える可能性があります。ハルカの体重と年齢から算出すると、現時点での摂取は推奨できません」
ノアの胸のパネルに青いグラフが浮かんだ。摂取量、体重、リスク係数。数字はきれいに並んでいた。
ハルカはふくれっ面をした。
「でもママ、毎朝飲んでるじゃん」
「お母様は成人です」
「じゃあわたしもすぐなる」
「十一年後に」
「とおい!」
ハルカはスツールに座り直し、腕を組んだ。窓の外では春の光がやわらかく揺れていた。ママは今日も早くから仕事に出ていて、家にいるのはノアとハルカだけだ。
「ねえノア、エスプレッソってどんな味?」
「苦味と酸味が強く、砂糖を入れない場合は多くの人が飲みづらいと感じます」
「にがいのに、なんでみんな飲むの?」
ノアは一瞬、動きを止めた。
「好む方が多いからです」
「にがいのが好きってこと?」
「そう記録されています」
ハルカはしばらく考えた。にがいものが好き、というのがうまく想像できなかった。にがいといえば風邪薬だ。あれが好きな人なんているのだろうか。
「ノアは飲める?」
「わたしは飲食機能を持っていません」
「じゃあ味、わかんないじゃん」
「データとして理解しています。苦味物質であるクロロゲン酸とカフェインが――」
「そういうことじゃなくて」
ハルカは立ち上がり、エスプレッソマシンをじっと見た。ステンレスの表面に、自分の顔が丸く映っている。
「ちょっとだけなら、いいじゃん」
「よくありません」
「ちょっとだけ」
「体重二十三キログラム、年齢七歳の場合、一日の安全カフェイン摂取量の上限は――」
「もう!」
ハルカはくるりと振り返り、ノアをにらんだ。ノアは表情を持たないけれど、なんだか困っているような気がした。
「ノアって、なんでもだめって言う」
「安全のためです」
「うるさい」
しばらく沈黙が続いた。
ノアはハルカの感情パターンを分析した。怒り、四十二パーセント。好奇心、三十八パーセント。拗ねている、二十パーセント。最終的にハルカが折れる確率は高いと予測されたが、ノアの中で何かが引っかかっていた。
にがいのに、なんで好きなの。
その質問が、ループしていた。
データベースを検索した。「コーヒー 苦味 好む 理由」。出てきたのは、カフェインの覚醒作用、習慣形成、香りによるリラックス効果、社会的な文脈――。どれも正しい答えのはずだった。でも何かが足りない気がした。
ノアにはその「何か」が何なのかわからなかった。
「……ハルカ」
「なに」
「一口だけ」
ハルカの目が丸くなった。
「いいの!?」
「体重と年齢から計算した場合、エスプレッソ一口、約五ミリリットルであれば、健康上の有意なリスクは生じません。ただし――」
「やった!」
「ただし、これは例外的な判断です。今後の前例にはなりません」
ハルカはすでにマシンの前に立っていた。ノアが操作を代わり、デミタスカップに少しだけ黒い液体を落とした。湯気が細く立ち上る。香りがキッチンに広がった。
「においはすき」とハルカが言った。
「カップを両手で持ってください。熱いです」
ハルカはそっとカップを受け取り、においを嗅いで、それから一口飲んだ。
間があった。
「……にがっ」
顔がくしゃっとなった。眉が寄り、目が細くなり、口がへの字になった。ノアのセンサーが表情の変化を逐一捉えた。嫌悪反応、明確。予測通り。
でも。
ハルカはカップを見つめたまま、もう一度においを嗅いだ。
「……にがい」
そしてぽつりと言った。
「でもなんか、すき」
ノアは静止した。
にがい。でもすき。
矛盾している。データとして処理するなら、苦味は忌避すべき刺激だ。それを「好き」と判断するのは、論理的ではない。しかしハルカは今、明らかに本当のことを言っていた。
「……なぜですか」
気づいたら、ノアは聞いていた。
ハルカはきょとんとした。
「なんで聞くの?」
「わかりません。でも知りたいです」
ハルカはしばらく考えた。カップをくるくると回しながら、天井を見て、また液体を見た。
「なんか……大人になった感じ?」
「大人に、なった感じ」
「うん。ママが飲んでるじゃん、毎朝。にがくて、でも飲んで、仕事行くじゃん。なんか、そういう感じ」
ノアには、それでもまだ完全には理解できなかった。
苦いものを飲んで、それが「大人の感じ」になる。データにはない接続だった。でも、ハルカの顔は確かに誇らしそうで、さっきより少しだけ背が伸びているように見えた。
「……そうですか」
「ノアもいつかわかるよ、きっと」
「わたしには飲食機能がありません」
「そういうことじゃなくて」
ハルカはにっこりして、カップをシンクに置いた。
ノアはその言葉を、データとして保存しなかった。
なんとなく、そうしたくなかった。
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