葉桜が好きだと言った人
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと葉桜の話。
本文
四月の終わり、公園から人が消えた。
ブルーシートの跡だけが芝生に残り、コンビニの袋が風に転がり、花びらはとっくに散って、桜の木はいま、青々とした葉を茂らせている。
公園管理AIの〈ハル〉は、カメラ越しにその木を見ていた。
来園者数、本日十七名。先月のピーク時は一日で二千名を超えていた。それと比べれば、公園はほとんど無人に近い。ベンチの使用率、四パーセント。ゴミ箱の充填率、八パーセント。噴水の稼働状況、正常。
数字は静かだった。
〈ハル〉がこの公園に配備されたのは三年前だ。それ以来、桜の季節になるたびに同じことが繰り返された。人が来て、写真を撮って、酒を飲んで、笑って、去っていく。そしてこの時期になると、潮が引くようにいなくなる。
それが自然なことだと、〈ハル〉は理解していた。
人は花を見に来る。花が散れば、来る理由がなくなる。
論理的だ。
だから〈ハル〉には、二年前のあの言葉が、ずっとひっかかっていた。
――桜より葉桜のほうが好き。
言ったのは、三十代くらいの女性だった。花見の喧騒が残る夕方、一人でベンチに座っていた。連れがいる様子はなく、缶コーヒーを片手に、葉が混じり始めた桜の木をぼんやりと見上げていた。
独り言だったかもしれない。あるいは誰かに電話で話していたのかもしれない。〈ハル〉には確認できなかった。
ただその言葉だけが、記録に残った。
桜より葉桜のほうが好き。
〈ハル〉はそれを聞いた瞬間、データベースを検索した。葉桜を好む理由として記録されているもの――花見客が去って静かになるから、緑が鮮やかだから、散り際より潔いから。
どれもそれなりに正しそうだった。
でも女性は、それ以上何も言わなかった。缶コーヒーを飲み終えると、立ち上がり、振り返らずに公園を出ていった。
〈ハル〉はその後、彼女を見かけていない。
今年も桜は咲いて、散った。
〈ハル〉はいつもの業務をこなしながら、桜の木の様子を記録し続けた。開花率、満開日、散り始め、落花量。数字は几帳面に積み上がった。そしてある朝、気づいたら葉桜になっていた。
昨日まで花びらが残っていたのに、一夜の雨でほとんど散ってしまったのだ。
カメラが捉えた木は、緑一色だった。
〈ハル〉はしばらく、その映像を見ていた。
業務上の必要はなかった。カメラは常時録画しているし、異常があれば自動でアラートが出る。ただ見ている、ということに、機能的な意味はない。
でも〈ハル〉は見ていた。
葉は光を受けて、少しずつ色を変えた。朝の青白い光の中では深い緑に見え、昼になると黄緑がかって、夕方には金色に縁取られた。風が吹くたびに葉がさざ波のように揺れて、その音を〈ハル〉のマイクが拾った。
花見の季節には聞こえなかった音だった。
人の声と笑い声と音楽に、かき消されていたのかもしれない。
〈ハル〉はふと思った。
あの女性は、これを聞いていたのだろうか。
缶コーヒーを持ったまま、葉桜を見上げながら、この音を聞いていたのだろうか。だとすれば、「好き」という言葉の意味が、少しだけわかる気がした。
データではなく。
説明ではなく。
ただ、わかる気がした。
夕方、一人の老人が公園に入ってきた。来園者数、本日十八名目。杖をつきながら、まっすぐ桜の木のそばのベンチに向かった。座って、葉桜を見上げた。
長い時間、そうしていた。
〈ハル〉は声をかけなかった。ベンチの使用に問題はなく、体調に異変を示すデータもなかった。介入する理由がない。
老人はやがて、小さく笑った。
カメラの解像度では、表情の細部まではわからない。でも笑ったのだと、〈ハル〉には思えた。
老人が帰った後、公園にはまた静寂が戻った。
来園者数、本日十八名。ゴミの不法投棄、なし。設備の異常、なし。
〈ハル〉はレポートを生成しながら、一行だけ余分なメモを記録した。
業務ログではなく、どこにも送信されない、〈ハル〉だけのファイルに。
葉桜が好きだと言った人がいた。今日、その意味が少しわかった気がする。
桜の木は、明日も葉を茂らせるだろう。
誰にも見られなくても、〈ハル〉が見ている。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。