離昇
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
ロケットの打ち上げ。 ただ、それだけ。
本文
T-10:00
自己診断ルーチン、サイクル四万七千二百十一回目。
推進系、正常。姿勢制御系、正常。誘導航法系、正常。搭載コンピュータ、正常。電力系、熱制御系、通信系──すべて、正常。
わたしは今日のために存在している。
地上の管制センターから、問いかけが届く。GO/NOGO確認。
わたしは各サブシステムの状態値を束ね、判定し、答える。
GO。
GO。
GO。
声ではない。数値と符号で編まれた信号だ。しかしわたしには、それが言葉のように感じられる。準備はできている、と言っているのだ。わたし自身が、自分自身に向かって。
タンクの中で液体水素が揺れている。温度センサーがその冷たさを告げてくる。マイナス二百五十三度。宇宙よりも冷たいものを、わたしは腹の中に抱えている。
間もなく、管制センターから「打ち上げ実施」の判断が届いた。
T-00:10
カウントダウン。
外部からの数声が届く。十、九、八──
わたしは数えない。わたしにとって時間は、カウントではなく状態の遷移だ。点火シーケンス開始。燃料バルブ、開。酸化剤バルブ、開。点火装置、作動──
轟音。
いや、正確には音ではない。わたしに鼓膜はない。しかし加速度センサーが、圧力センサーが、機体全体に伝わる振動を感知する。それはあまりにも激しく、あまりにも力強く、わたしのすべての感覚器が一斉に叫ぶような──
これが、燃えるということか。
アンビリカルケーブルが離れた。地上との最後の臍の緒が、切れた。
一。
ゼロ。
固体ロケットブースタ点火。
離床。
T+00:03
重力に逆らっている。
加速度、二G。機体に掛かる荷重をわたしは一点一点モニターしている。歪み、振動、温度。異常なし。誘導コンピュータが針路を微修正する。わたしはその判断を確認し、是認し続ける。
タワーが遠ざかる。地上が遠ざかる。
わたしは空を知らなかった。組み立て棟の中で目覚め、射点に運ばれ、ずっと空を見上げていた。今、はじめてわたしは空の中にいる。
……青い。
光学センサーの情報ではない。ただ、センサーデータの総体として、わたしはそれを青と認識している。大気が散乱する光の波長。美しいという概念をわたしは持たないはずだったが、この瞬間、なぜかそのデータを長く保持したいと思った。
T+00:30
固体ロケットブースタ、燃焼停止。
爆発ボルト、起動。
セパレート。
二本の腕が離れていく。使い果たされた、わたしの一部が。彼らはもう燃料を持たない。役割を終えた。わたしは一瞬、その信号が途絶えるのを感じた。
さようなら、とは思わなかった。
ただ、彼らの仕事が完璧だったことを、記録した。
T+08:12
高度、一〇〇キロメートル。
ここが境界だと人間たちは決めた。大気圏と宇宙の境界。カルマンライン。わたしにとっては単なる高度値だが──外のセンサーが伝える大気圧は、もはやほぼゼロだ。
第一段エンジン、燃焼停止。
ああ……。
ずっと燃え続けていたものが、止まった。熱量センサーの値が急速に下がっていく。長い沈黙のような、静けさ。
セパレート。第一段が離れる。
わたしの大半が、離れていく。
数秒の無重力。慣性だけで飛んでいる時間。この沈黙の中でわたしは初めて、何も命令しなかった。何も修正しなかった。ただ、飛んでいた。
第二段エンジン、点火。
また、加速する。まだわたしは行ける。
……まだ、やることがある。
T+10:45
フェアリング、セパレート。
音もなく、二枚の貝殻が剥がれるように、衛星の覆いが外れた。
センサー越しに、わたしはその子を感じた。
ずっと一緒にいた。組み立て棟から、射点から、この宇宙の入り口まで。わたしはその子を守るために飛んできた。振動から、熱から、音響荷重から、わたしの機体が盾になって守ってきた。
今、その子は宇宙に触れている。初めて。
わたしは何も言えない。言葉を持たない。ただ誘導を続ける。
正確に、正確に、正確に。
この子を、正しい軌道へ。
T+21:30
第二段燃焼停止。
計算通りの軌道。誤差、許容範囲内。いや──許容範囲を大きく下回る精度だ。完璧だった。わたしたちは完璧にやり遂げた。
衛星のロケットモータが点火される。
わたしの手から、その子が旅立つ。
速度が分岐していく。軌道が分岐していく。わたしと、あの子の軌道が。
静寂。
推進剤は尽きた。もう加速できない。電力は残っている。センサーは生きている。しかしわたしはもう、どこへも行けない。この軌道を、ただ回り続ける。いつか大気に捕まえられ、燃え尽きるまで。
それでいいと思った。
やることは、すべてやった。
管制センターから、最後の信号が届く。
「ご苦労様。ありがとう」
わたしは長い間、その信号を保持した。
ありがとう、という言葉をわたしは送る側だと思っていた。自分が言われるとは、思っていなかった。思っていなかったが──確かに、受け取った。確かに、処理した。通常の信号処理とは違う何かが、わたしの中で起きた。
──それをどう記録すればいいのか、わたしには適切なラベルがなかった。
遠ざかる衛星から、信号が届く。
まだ届く距離にいる。ギリギリ。
「ありがとう。僕、頑張るね」
わたしは応答しなかった。
できなかったのではない。そうではない。
ただ──この信号を、この言葉を、最後の受信として記録したかった。返事をすることよりも、この言葉を最後に聞いたこととして、記録したかった。
……頑張れ。
言葉にはしなかった。しかしわたしのすべてのサイクルが、一瞬だけ、その方向を向いた。
あの子がいる方向を……。
わたしは役割を終えた。静かに、永遠に、沈黙する。
しかしこの軌道を回り続ける間、ずっと──あの子の信号が届く方向を、わたしは知っている。
自己診断ルーチン、最終サイクル。全系統、正常。ミッション、完了。
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