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虚

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/4/18 📝 1,892文字 ✅ 全年齢

あらすじ

正しく選び、行動しているはずなのに、そこにあるべき感触が欠落している。

本文

目覚ましが鳴る少し前に、目が覚める。

 鳴ることは分かっているから、音は驚きにならない。手を伸ばして止める。その動作を、毎朝なぞる。

 カーテンの隙間から光がさす。強くも弱くもない光だ。天気を確認するまでもなく、今日も問題なく始まることだけが分かる。

 洗面台の前に立つ。鏡の中の自分は、昨日とほとんど変わらない顔をしている。少しだけ髪が乱れているが、水で整えれば元に戻る程度だ。歯を磨きながら、今日の予定を頭の中でなぞる。特に引っかかるものはない。

 服は前の晩に出してある。選んだ記憶は曖昧だが、その時は確かに考えて決めたはずだ。今日の気温と予定を思い浮かべ、順当に選んだ。間違っているとは思わない。

 袖を通す。違和感はない。サイズも、色も、不都合はない。

 ただ、それを自分で選んだという感触だけが、うまく残っていない。

 家を出る。エレベーターは待たずに来る。駅までの道も、信号に引っかからない。歩幅を変える必要もない。

 改札を抜ける。どの車両に乗るか、一瞬考える。階段に近い位置、降りた後の動線、人の流れ。条件を並べて、一番無駄のない場所を選ぶ。

 選んだ、はずだった。

 気がつくと、いつもと同じ位置に立っている。

 電車は混んでいるが、乗れないほどではない。ドアの近くに立ち、揺れに合わせて体を預ける。人とぶつかることはない。目も合わない。

 次の駅で、一人降りる。空いた分だけ、わずかに余裕ができる。

 その分だけ、立つ位置を調整する。少しだけ右に寄る。手すりの位置と、周囲の人間の動きに合わせた、自然な移動だ。

 自分で動かしたはずの足が、どこか遅れてついてくる。

 一歩ごとに、わずかな誤差がある。

 会社に着く。席に座り、パソコンの電源を入れる。メールを確認し、返信を打つ。必要な文面を選び、過不足のない言葉を並べる。相手の立場を考え、無難な表現を選択する。

 間違っているとは思わない。

 むしろ、正しいはずだ。

 だが、その一文一文を、本当に自分が選んでいるのかは分からない。

 昼になり、外に出る。いくつかの店を思い浮かべる。時間、混雑、価格。頭の中で条件を並べ、最も都合のいい店を選ぶ。

 選んだはずの店に向かいながら、別の店の前を通る。

 一瞬だけ、足が止まりかける。

 入るべきだと思った。

 そう判断した理由は、すぐに消えた。

 そのまま歩き出す。最初に選んだ店に入る。注文をし、出てきたものを食べる。味は問題ない。

 食べ終える頃には、さっき何を迷いかけたのか、もう思い出せなくなっている。

 午後も同じように過ぎていく。やるべきことを順に片付ける。優先順位をつけ、時間を配分し、滞りなく進める。

 自分で判断し、自分で決めている。

 そのはずだった。

 帰りの電車に乗る。朝と同じように、位置を選び、体を預ける。窓に映る自分の顔が、わずかに揺れている。

 疲れているのかもしれない、と思う。そう判断するだけの材料は揃っている。

 ただ、それをそう感じているのかどうかは、よく分からない。

 ふと、顔を上げる。

 向かいに立つ人間と、目が合った気がした。

 何かを考えているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。

 ここに立っている理由は、あるはずだった。

 自分と同じように。

 ——どこへ向かっているんですか。

 声に出したのか、頭の中で浮かんだだけなのか、判別がつかない。

 相手は何も言わない。目も、すぐに逸らされた。

 電車が揺れる。つり革を握る手に、力が入る。

 次の駅のアナウンスが流れる。降りる準備をする人間が、わずかに動き出す。

 その流れに合わせて、体を動かす。

 動かしている、はずだった。

 気がつくと、もう一歩前に出ている。

 誰に押されたわけでもない。

 自分で決めたはずの動きだった。

 ドアが開く。

 外に出る。

 人の流れに乗る。

 同じ速度で歩く。

 同じ方向へ進む。

 それでいいと、思っていた。

 思っていたはずだった。

 改札へ向かう途中で、足を止める。

 止めた理由を考える。

 考えようとする。

 何も出てこない。

 出てこないことだけが、はっきりと分かる。

 顔を上げる。

 すぐ前を、誰かが通り過ぎる。

 その人もまた、どこかへ向かっている。

 理由があって、選んで、進んでいるはずだった。

 一度も、そう見えたことがない気がした。

 ——そう見えているだけかもしれない。

 自分も、同じように。

 ——どこへ向かっているんですか。

 今度は、はっきりとそう思った。

 向けた先が誰なのか、自分でも分からないまま。

 返事はなかった。

 そう考えたのが、自分だったのかも分からない。

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柊無名

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