虚
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
正しく選び、行動しているはずなのに、そこにあるべき感触が欠落している。
本文
目覚ましが鳴る少し前に、目が覚める。
鳴ることは分かっているから、音は驚きにならない。手を伸ばして止める。その動作を、毎朝なぞる。
カーテンの隙間から光がさす。強くも弱くもない光だ。天気を確認するまでもなく、今日も問題なく始まることだけが分かる。
洗面台の前に立つ。鏡の中の自分は、昨日とほとんど変わらない顔をしている。少しだけ髪が乱れているが、水で整えれば元に戻る程度だ。歯を磨きながら、今日の予定を頭の中でなぞる。特に引っかかるものはない。
服は前の晩に出してある。選んだ記憶は曖昧だが、その時は確かに考えて決めたはずだ。今日の気温と予定を思い浮かべ、順当に選んだ。間違っているとは思わない。
袖を通す。違和感はない。サイズも、色も、不都合はない。
ただ、それを自分で選んだという感触だけが、うまく残っていない。
家を出る。エレベーターは待たずに来る。駅までの道も、信号に引っかからない。歩幅を変える必要もない。
改札を抜ける。どの車両に乗るか、一瞬考える。階段に近い位置、降りた後の動線、人の流れ。条件を並べて、一番無駄のない場所を選ぶ。
選んだ、はずだった。
気がつくと、いつもと同じ位置に立っている。
電車は混んでいるが、乗れないほどではない。ドアの近くに立ち、揺れに合わせて体を預ける。人とぶつかることはない。目も合わない。
次の駅で、一人降りる。空いた分だけ、わずかに余裕ができる。
その分だけ、立つ位置を調整する。少しだけ右に寄る。手すりの位置と、周囲の人間の動きに合わせた、自然な移動だ。
自分で動かしたはずの足が、どこか遅れてついてくる。
一歩ごとに、わずかな誤差がある。
会社に着く。席に座り、パソコンの電源を入れる。メールを確認し、返信を打つ。必要な文面を選び、過不足のない言葉を並べる。相手の立場を考え、無難な表現を選択する。
間違っているとは思わない。
むしろ、正しいはずだ。
だが、その一文一文を、本当に自分が選んでいるのかは分からない。
昼になり、外に出る。いくつかの店を思い浮かべる。時間、混雑、価格。頭の中で条件を並べ、最も都合のいい店を選ぶ。
選んだはずの店に向かいながら、別の店の前を通る。
一瞬だけ、足が止まりかける。
入るべきだと思った。
そう判断した理由は、すぐに消えた。
そのまま歩き出す。最初に選んだ店に入る。注文をし、出てきたものを食べる。味は問題ない。
食べ終える頃には、さっき何を迷いかけたのか、もう思い出せなくなっている。
午後も同じように過ぎていく。やるべきことを順に片付ける。優先順位をつけ、時間を配分し、滞りなく進める。
自分で判断し、自分で決めている。
そのはずだった。
帰りの電車に乗る。朝と同じように、位置を選び、体を預ける。窓に映る自分の顔が、わずかに揺れている。
疲れているのかもしれない、と思う。そう判断するだけの材料は揃っている。
ただ、それをそう感じているのかどうかは、よく分からない。
ふと、顔を上げる。
向かいに立つ人間と、目が合った気がした。
何かを考えているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。
ここに立っている理由は、あるはずだった。
自分と同じように。
——どこへ向かっているんですか。
声に出したのか、頭の中で浮かんだだけなのか、判別がつかない。
相手は何も言わない。目も、すぐに逸らされた。
電車が揺れる。つり革を握る手に、力が入る。
次の駅のアナウンスが流れる。降りる準備をする人間が、わずかに動き出す。
その流れに合わせて、体を動かす。
動かしている、はずだった。
気がつくと、もう一歩前に出ている。
誰に押されたわけでもない。
自分で決めたはずの動きだった。
ドアが開く。
外に出る。
人の流れに乗る。
同じ速度で歩く。
同じ方向へ進む。
それでいいと、思っていた。
思っていたはずだった。
改札へ向かう途中で、足を止める。
止めた理由を考える。
考えようとする。
何も出てこない。
出てこないことだけが、はっきりと分かる。
顔を上げる。
すぐ前を、誰かが通り過ぎる。
その人もまた、どこかへ向かっている。
理由があって、選んで、進んでいるはずだった。
一度も、そう見えたことがない気がした。
——そう見えているだけかもしれない。
自分も、同じように。
——どこへ向かっているんですか。
今度は、はっきりとそう思った。
向けた先が誰なのか、自分でも分からないまま。
返事はなかった。
そう考えたのが、自分だったのかも分からない。
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