終章「道行き」
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
港町・荒井町。夜の海は静かなのに、世界だけが落ち着かない。 不良の少年・竜ノ宮仁(たつのみや じん)は、弱い者を見過ごせない“荒い拳”を持っていた。だがそれは支配のためではなく、守るための暴力だった。 追放の夜、仁はひび割れた祠で、皮肉屋の少童神(ワンジョー)と出会う。境界を守るはずの神は、なぜか力を振るえない。理の歪みと封札が町に流れ込み、暴力は“救う”はずの形を失っていく。 拳は人を従わせる道具なのか、それとも引き戻す行為なのか。 救えない神と、殴るしかない少年が、境界の上で選び取る答え――『救拳境界』。 ――拳は暴力か、救済かを問う境界譚。
本文
朝の荒井町には、もう戦いの匂いは残っていなかった。 海から吹く風は穏やかで、港の水面には白い光が細かく砕け、漁船のエンジン音が遠くから鈍く響いてくる。春の終わりを告げるような柔らかな陽射しが町並みに降り注ぎ、傷ついた競艇場も、封札の残滓も、まるで最初から存在しなかったかのように静まり返っていた。
仁は、商店街へ続く道を歩いていた。 その隣を、ミコトが並んで歩いている。
以前と違うのは、ミコトの服装だった。黒いパーカーにダボついたパンツといういつもの格好ではなく、今日は薄いベージュのロングカーディガンに白いブラウス、髪も少し整えられていて、耳元には小さな銀のピアスが光っている。派手ではないが、これまでの彼女とは明らかに違う空気を纏っていた。
仁はしばらく黙って歩き、やがて横目で見て、ぽつりと言った。
「……なんか、雰囲気変わったな」
ミコトは歩みを止めず、ちらりと仁を見る。
「今さら気づくんですか」
その声音には、少しだけ呆れが混じっている。
「鈍感さんには、これくらい刺激がないと分からないんですね」
「いや、別に鈍感じゃねぇよ」
「十分鈍感です」
即答だった。
仁は眉をひそめるが、ミコトはもう前を向いている。 風が吹き、彼女の髪が頬をかすめて揺れた。
その横顔は、以前よりもどこか柔らかかった。無理解に囚われていた頃の張り詰めた影はもうなく、代わりに、迷いを抱えたままでも歩き続ける人間の静かな強さがあった。
仁は、その横顔を見て、ふっと笑う。
「まあ……似合ってる」
ミコトの足が一瞬だけ止まり、次の瞬間、軽く仁の脇腹を肘でつつく。
「遅いです」
「いてっ」
そんなやり取りを交わしながら、二人はまた歩き出す。 戦いは終わったのだ、と、その何でもない歩幅が静かに告げていた。
少し離れた場所、商店街の角に停められた古い軽自動車のそばで、二人の姿を見つめる影があった。
仁の母と、潮見恒一だった。
潮見は退院したばかりで、まだ顔には傷跡が残っている。顔色も完全には戻っていないが、その目にはもう、大蛇に呑まれていた頃の濁りはなかった。
仁たちの背中を見ながら、潮見がぽつりと呟く。
「似てると思ったんだ」
仁の母が、隣で小さく笑う。
「あの子だったんだな」
潮見は答えず、目を細める。その視線の先には、まっすぐ歩く仁の背中がある。
仁の母が腕を組み、からかうように言う。
「あんたが言う? すぐ拳が出るとこなんか、そっくりよ」
「……否定はしねぇ」
潮見は苦く笑う。少し沈黙してから、低く言った。
「でもあいつは、俺みたいに間違えない」
その言葉には、悔恨も羨望もあった。守るという名目で線を越え、取り返しのつかないところまで進んでしまった男が、ようやく辿り着いた静かな諦めだった。
仁の母は何も言わず、ただ潮見の横顔を見る。
潮見の物語は、そこで終わっていた。
もう、間違えない。それは父の贖罪であり覚悟だった。
◇
午後、仁とミコトは海宮神社へ向かった。
海に面した小さな石段を登り、鳥居をくぐる。境内は静かで、誰もいない。潮風が木々の枝を揺らし、葉擦れの音が鈴のように響いている。
祠の前に立ったとき、仁はふと、足を止めた。微かな気配があった。それは声ではなく、姿でもなく、ただ空気の温度が一瞬だけ変わるような、ごくかすかな神気だった。 振り返っても誰もいない。見上げても空は青く澄んでいるだけだ。
仁は、その気配を感じながらも、何も言わなかった。呼びかけもしない。名を呼ぶこともしない。
ただ、手に持っていた缶コーヒーを祠の前へ置く。
「不可思議とか言いながら、おまえはよく飲んでたよな」
そう呟いて、くっくっと笑う。
ミコトが隣で、小さく目を伏せた。
二人は並んで手を合わせる。
潮騒が遠くで鳴っている。木漏れ日が石畳に落ち、風が頬を撫でていく。
仁は目を閉じたまま、静かに言った。
「この町も、その中にいる奴らも……俺たちで、ちゃんと向き合っていく」
ミコトは、何も言わず、ただ静かにうなずく。その沈黙には、もう十分な意味があった。
祠を出た帰り道、海沿いの堤防に立つ。
夕方の光が海を金色に染め、波が防波堤に砕けては白くほどけていく。風が吹く。波が立つ。
だが、それは異変ではなかった。何かの兆しでも、怪異の気配でもない。ただ、風だった。ただ、波だった。
風は、境界を越えなかった。ただ、そこに在った。
見えないどこかで、誰かが見守っている気配だけが、かすかに残る。
仁は海を見つめ、拳を握るでもなく、ただ掌を開いた。そこにはもう、神の力は宿っていない。
それでも。その手で、選び続けることはできる。
隣でミコトが並び立ち、同じ海を見ている。 沈みゆく陽の向こう、荒井町の輪郭がやわらかく霞んでいく。
救えないものはある。守れないものもある。それでも、人は歩いていく。
二人の影は長く伸び、やがて夕暮れの道へ溶けていった。
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