椿
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
変化を拒み、現状を望む
本文
椿
何を言われているのかは分かっているはずなのに、言葉としてはほとんど残らなかった。目の前で口が動いている。音が続いている。断片だけが引っかかる。遅い、とか、何度目だ、とか。意味としては理解できるが、それ以上には広がらない。
頷く。適当なところで、もう一度頷く。それで終わる。何かを返した記憶はあるが、内容までは思い出せない。
席に戻ると、さっきまでの音はすでに遠くなっている。画面に向かい、手を動かす。やるべきことを処理していく。ひとつ終われば次に移る。それを繰り返す。考えているようで、ほとんど考えていない。何も残らないまま、時間だけが進んでいく。
昼になり、外に出る。空気は少しだけ暖かい。建物の脇にある小さな木に目がいった。赤い花がいくつか咲いている。名前は出てこないが、知っている気がした。
しばらく見ていると、ひとつ、花が落ちた。音はしない。ただ、落ちたという事実だけが残る。
ほんのわずかに、違和感が残った気がしたが、それが何なのかは分からない。
視線を外す。戻ると、また同じ作業が続く。指示が来て、それに従う。終われば次が来る。止まる理由は特にない。
気づくと、メッセージが来ていた。昔からの友人からだった。久しぶりに会おう、という短い文面。断る理由も思い浮かばず、そのまま了承する。
仕事を終え、店に向かう。時間通りに着くと、彼はすでに席にいた。軽く手を上げる。その動きは昔と変わらない。
向かいに座る。適当に注文を済ませる。
会話は自然に始まる。最近のこと、仕事のこと、共通の知り合いのこと。どれも特別ではないが、途切れることはない。
言葉は特に選ばなくても続いた。間が空くこともなく、話題も自然に移り変わる。どこで笑ったのかも曖昧なまま、それでも笑っていた記憶だけは残る。時間は思っていたよりも軽く進んでいた。
ただ、言葉を口に出す前に、一瞬だけ選んでいる自分に気づく。どこまで言うか、どう言うか。考えるほどのことでもないのに、わずかな間が生まれる。
その間は、相手には見えていない。それでも、その一瞬だけは確かにあった。
「変わらないよな」
彼が言う。
頷く。たしかに、変わっていないように見える。こうしていると、昔と同じ時間の中にいる気がする。
それでも、どこかで少しだけ外れている。その感覚は、さっきの一瞬と同じ形をしている気がした。
会話の中にいながら、その外側に立っているような位置にいる。居心地は悪くない。むしろ落ち着いている。それでも、そのズレは消えない。
店を出て、別れる。軽く手を振る。それで終わる。
帰り道、昼に見た木の前を通る。赤い花が増えている気がした。落ちているだけで、散らばってはいない。形を保ったまま、地面にある。
ひとつ、少しだけ踏みかけて、避けた。理由は分からない。そのまま通り過ぎる。
部屋に戻る。静けさがそのまま残っている。服を脱ぎ、手を洗い、ベッドに座る。特別に疲れているわけではない。ただ、一日が終わるという感覚だけがある。
考えようとすれば、理由はいくらでも浮かびそうだった。あの言葉も、この会話も。けれど、それを確かめる前に、やめた。
照明を消す。
暗闇の中で、赤い花の形だけが、残る。それが何なのかは、もう考えない。
眠りに落ちる。
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