調剤薬局
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 一話完結・オムニバス
本文
自動ドアが左右に割れるように開き、かすかな機械音が鳴った。
佐藤 純 の鼻腔を刺したのは、十五年間、片時も忘れられなかった匂い。清潔で、無機質で、少しだけ人の不安を鎮める、消毒液と薬品の混じった空気。
「……あ」
純は自分の手を見た。
さっきまで握っていたはずの、竜の鱗を断つための無骨な銀の剣はない。代わりにあるのは、一包化された錠剤の束と、角の擦れたお薬手帳。
異世界では剣だこで割れ、血と泥にまみれていたはずの指先。
だが視界にあるそれは、記憶の中のまま――薬剤師、佐藤 純 の、白く整った手だった。
「純さん? どうかしたの。急に立ち止まって」
背後からかけられた声に、心臓がどくりと跳ねた。
振り返る。勢いがつきすぎて、少し乱暴なくらいに。
そこには、純白の白衣を着た妻がいた。カウンターの向こうで処方箋を揃えながら、不思議そうにこちらを見ている。目元には、十五年前――いや、つい十秒前と同じ、穏やかな光が宿っていた。
純は思わず見惚れた。
戦場では女神だの聖女だのと持ち上げられる女も見た。王侯貴族の姫君に酒へ誘われた夜もある。だが、そんなもの全部まとめて霞む。
この女には、敵わない。
「……なんでもない。ただ、少し」
「少し?」
「帰ってきたんだなって、思って」
声が掠れた。情けないほどに。
妻は小首を傾げ、それからふっと笑った。
「変なの。ずっとここにいたじゃない。お昼休みのコーヒー飲み終わって、さあ午後の部って立ち上がった瞬間に固まるんだもの。ついに電池切れ?」
「電池切れなら、交換してくれ」
「高いわよ、純さんの部品は」
「払うさ。分割で一生」
妻は一瞬きょとんとし、それから呆れたように肩をすくめた。
「なに、その急な口説き文句」
十秒。
この世界では、彼が椅子から立ち上がり、一歩踏み出すまでの空白にすぎない。
だが純の中では違う。嵐の海を越え、魔物の腹を裂き、仲間を埋め、裏切られ、王に利用され、また立ち上がった十五年だった。
泥も血も酒も涙も、全部飲み込んできた。
だからこそ、今ここにあるLEDの白さが眩しい。
分包機の規則的な音が、美しい。
純は深く息を吸った。
肺に満ちるのは、乾いた異世界の砂塵ではない。湿り気を帯びた、日本の午後の空気だった。
「……長い夢を見てたみたいだ」
「なら、夢見の悪い薬剤師さんに特効薬ね」
妻はそう言って、処方箋を一枚、彼の胸元へ軽く叩きつけた。
「働いて、現実に戻ってください」
「手荒い治療だな」
「うちは結果重視です」
病院前の調剤薬局。午後の診療が始まり、患者がぽつりぽつりと流れ込んでくる時間だ。
純は調剤室へ入った。
棚に並ぶ薬品。整然とした器具。使い慣れた分包機。
どれも異世界なら王家が争って奪い合う秘宝だ。ここでは保険点数つきで当たり前の顔をして並んでいる。文明ってやつは、とんでもなく強い。
「純さん、そっちは高血圧のお薬。胃薬じゃないわよ」
横から妻の手が伸び、さりげなく彼の取り違えを正した。指先が白衣の袖に触れる。
たったそれだけで、胸の奥に残っていたひびが静かに塞がっていく。
「助かる」
「今日は素直ね」
「普段はひねくれてるみたいな言い方だな」
「だってそうじゃない」
純は笑った。少し悪そうに。
「君にだけだよ」
妻の耳がわずかに赤くなる。
それを見て、十五年分まとめて勝った気がした。
窓の外には駅前の景色。バスが通り、若者がスマートフォンを見ながら歩いていく。何も変わらない日常。
だが純には、城壁都市より尊く見えた。
「純さん、三番の番号札の方お願い」
「ああ。任せろ」
カウンターへ向かう。
待っていたのは近所の顔なじみの老人だった。
「お待たせしました、佐藤です。今日は少しお通じがよろしくないとか」
「そうなんだよ、三日ほど敵に包囲されててねえ」
「それは重症だ。こちらの援軍を出しておきます」
老人がけらけら笑う。
言葉は自然に出た。知識も技術も、人を安心させる勘も、体が覚えている。
剣より、こっちの方が向いているのかもしれない。少し癪だが。
夕刻。薬局の灯りを落とし、シャッターを下ろす。
「今日はやけに人気だったわね。女性の患者さんに」
妻が何気なく言う。
「嫉妬してるのか」
「してない」
「してくれたら嬉しい」
「図々しい」
駅へ向かう道すがら、純は妻の手を取った。少し強引に。
彼女は驚いた顔をしたが、すぐに握り返してくる。そこがまた敵わない。
「十五年、待たせたかな」
「なにそれ」
「いや……ただいま」
妻は歩きながら、ちらりと彼を見る。
「おかえりなさい、純さん。今日は煮物の予定だったけど」
「けど?」
「そんな顔してるなら、もう少し酒の出る献立に変えてあげる」
純は吹き出した。
「やっぱり君が一番の魔王だ」
「今さら気づいたの?」
十五年の冒険譚は、たぶん誰にも話さない。
だがあの世界で覚えた、命を守る覚悟も、誰かの痛みに気づく目も、これから一錠ずつ、この街で使えばいい。
十秒の空白を埋めるのは、果てしなく続く日常だ。
純は妻の手を握ったまま、少し不敵に笑い、日本の街路を踏みしめて歩き出した。
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