天ぷら無双異世界譚
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)
本文
天ぷら無双異世界譚
【消えた男】
佐藤 純 が消えたのは、ごく普通の昼下がりのことだった。
場所は下町、築三十年の小さな天ぷら屋「〇△屋」の厨房。純が揚げ油の温度を確認しようとしゃがんだ瞬間、世界がぐにゃりと曲がり、気づいたときには見知らぬ草原の真ん中に立っていた。
空には月が二つ浮かんでいた。
大きいほうと小さいほうが仲良く並んで、昼間なのにうっすら見えている。
「……油の温度、測り忘れた」純がまず思ったのはそれだった。
【異世界、一日目】
草原を歩くこと一時間、純は小さな村にたどり着いた。村人たちはとんがり帽子をかぶり、耳が少しとがっていた以外は、わりと普通の人間に見えた。
村人たちは純を取り囲み、口々に何かを叫んだ。言葉はわからないが、雰囲気で「異邦人だ」「魔物か」「いや、美味そうな匂いのするおじさんだ」言葉はわからないが、そんなニュアンスは察せた。
純は両手を上げた。
「天ぷら屋です。怪しいものじゃありません」
通じるわけがなかったが、なぜか三日後には言葉が通じるようになっていた。これが後に「純の最初のチート」と呼ばれることになる能力——異世界言語の即時習得——であったが、本人はそれより「この村の湿度が衣のサクサク感にどう影響するか」に頭を悩ませていた。
【植物系魔物、天ぷらになる】
村の近くの森には魔物が出た。
純が最初に遭遇したのは「絞殺草」と呼ばれる植物系の魔物で、見た目はただの大きなタンポポだったが、綿毛が鋭い針になっており、近づく者に容赦なく突き刺さる凶悪な代物だった。村人たちは代々この森を避けて生きてきた。
純は絞殺草を見て、三秒考えた。
「……ゴボウに似てるな」
純はエプロンのポケットに常備していた小麦粉(なぜかポケットにあった。天ぷら屋の職業病である)と、近くの川で汲んだ水で衣を作り、絞殺草を根こそぎ引き抜いてぶつ切りにし、揚げた。
村長が恐る恐る口にして、目を見開いた。
「……なんじゃこりゃ」
「天ぷらです」
「てんぷら……」
村長は三本おかわりした。
【小麦粉争奪戦。白銀の平原、全力疾走】
問題が生じたのは数日後だった。
エプロンのポケットに入っていた小麦粉が底をついたのだ。純はポケットをはたいて残り粉を確認し、静かに深呼吸した。
「……ない」
村人に訊くと、この世界にも「白粉麦」という穀物があるにはあるが、それを管理しているのは王都から半日の距離にある「白銀平原」を縄張りにする魔物の群れだという。名を「粉砕獣ガリンダ」——体長三メートルを超える巨大なアルマジロ型の魔物で、全身を硬質な鱗に覆われ、その鱗の摩擦熱で地面の石まで粉末に変えてしまう。白銀平原の白い砂は、実はガリンダが何百年もかけて大地を粉砕した産物だという。
「誰も近づけません」と村人は青ざめた顔で言った。「鱗の一撃で壁が崩れます」
翌朝、純は「仕入れに行ってきます」とエプロンを締め直し、白銀平原へ向かった。
草原の向こうに広がる白い平野を見渡すと、果たして十頭ほどのガリンダが転がるように走り回っていた。鱗がこすれるたびにキィィという高音が響き、地面が粉末になって舞い上がる。
純はしゃがんで粉末を一つかみ掬い、鼻に近づけた。
「……これ、ほぼ◎清のバイオレット(薄力粉)じゃないか」
白銀平原の白い砂の正体は、ガリンダが何百年もかけて白粉麦の原穀を粉砕し続けた、天然の薄力粉だった。
純は立ち上がって平原に歩み入った。
ガリンダの群れが一斉にこちらを向いた。十頭の赤い目が純を捉えた。地面が揺れた。
「——来い。仕込みの時間だ」
純は腰を落とし、菜箸を構えた(なぜかエプロンのポケットに入っていた。天ぷら屋の職業病である)
先頭のガリンダが地面を蹴った。三メートルの巨体が弾丸のように転がってくる。
純は横に半歩ずらした。
ガリンダの体が純の脇を通り過ぎ、削った粉末を盛大に巻き上げた。
「一頭目——ありがとうございます」
純は粉末をボウルいっぱい掬った。
二頭目が突進してくる。純はまた半歩ずらす。また粉末が舞う。
「二頭目——ありがとうございます」
三頭目、四頭目、五頭目。純は避け続け、粉末を集め続けた。鱗がかすりもしない。
天ぷら職人は一日中、揚げ鍋の前で一ミリも無駄のない動きで立ち続ける生き物だ。最適な位置に、最適なタイミングで。それ以外の動きはしない。体が余分な動作を知らない。ガリンダの突進など、忙しい昼時の客の注文に比べれば単調だった。
六頭目が頭を振り回して鱗を飛ばしてきた。純は菜箸で弾いた。
七頭目が低い姿勢で地面を転がる。純は三十センチ飛び上がり、その背を踏んで前転した。ガリンダは困惑したように止まった。
群れが止まった。
十頭のガリンダが純を取り囲み、赤い目でじっと見た。
純は集めた粉末を確認した。業務用の大袋たっぷり一つ分はある。
「——充分です。ありがとうございました」
純は軽く頭を下げて、平原を歩いて出た。
ガリンダたちはしばらく見送っていたが、やがてまたキィキィと鱗を鳴らしながら転がり始めた。
後日、村人から「ガリンダが自分から粉を提供するようになった」という話が広まったが、確かめた者はいない。純はこの日から白銀平原に十日ごとに通うようになった。ガリンダたちは純が来るたびに、より細かく粉を挽くよう回転数を上げるようになった。職人のこだわりに応えようとする、魔物なりのプライドかもしれない。
【卵を求めて。天空の巣、単身強行】
小麦粉が手に入った。だが純には、もう一つ欲しいものがあった。
「卵」だ。
衣に卵を加えると、サクサク感がまるで変わる。純は三週間、卵なしの衣で天ぷらを揚げ続け、毎晩「惜しい」とつぶやいていた。
村人に卵を訊ねた。鶏は? と訊いた。
村人は首を横に振った。
「この辺りの鳥は全部、飛鎚鳥(ハンマーバード)に食われます」
飛鎚鳥——翼幅十メートル、体重一トンを超える巨大な猛禽。嘴がハンマーの形をしており、一撃で岩を砕く。その巣は王都の北にそびえる「断絶峰」の頂上近く、垂直の崖に作られており、人間はおろかドラゴンさえ近づかないという。
「飛鎚鳥の卵は一個で 人間三人の頭ほどの大きさがあると言われますが、誰も取りに行けません」
純は地図を確認した。村から徒歩半日。
「行きます。卵を切らすのは、職人の恥ですから」
村人一同が止めたが、純は翌朝、出発した。荷物はエプロンと菜箸とボウルだけだった。
断絶峰は名の通り、縦に一刀で切ったような断崖だった。頂には雲がかかり、その雲の切れ目に茶色いシルエットが見えた——飛鎚鳥の巣だ。
純は崖を見上げた。登り口らしいものはない。
ガツン。岩を穿つ音が響く。純は菜箸をピッケル代わりに崖に突き立てた。長年、熱い油と戦い続けた純の箸は、もはや聖剣並みの硬度を得ていた。左の箸で支え、右の箸をさらに上へ。普通の人間なら即落命する壁を、純は「壁を調理する」ようなリズムで登っていく。
天ぷら屋の厨房仕事は腕力がいる。重い鍋、長時間の立ち仕事、鍋から食材を引き上げる反復動作。純の握力は村の鍛冶屋より強かった。
一時間後、純は崖の中腹まで登っていた。
そこで巣から降りてくる飛鎚鳥と鉢合わせした。翼幅十メートル。嘴は本当にハンマーだった。
飛鎚鳥は崖にへばりついている純を見て、首をかしげた。こんな場所に人間がいたことが、おそらく生まれて初めてだったのだろう。
純も首をかしげた。
「……卵、もらえますか」
飛鎚鳥は嘴を振り上げた。崖を砕く一撃が来る——
純は崖から飛んだ。
落下しながら、崖の出っ張りに 菜箸を引っかけ、振り子のように弧を描いて崖の反対側に回り込んだ。飛鎚鳥のハンマー嘴が純のいた場所を砕き、岩が砕けて落ちた。
「位置、変えます」
純は崖を横移動しながら登り続けた。飛鎚鳥は追いかけるが、翼幅が大きすぎて崖沿いの細かい動きができない。純は一撃ごとに読んでかわした。天ぷら職人は揚げ鍋の前でずっと考えている。次の食材が来る前に何をすべきか。油はねはどの方向に来るか。鍋の温度は次の一秒後にどう変わるか。絶え間ない先読みが習慣になっている。
さらに、一時間後、純は巣に到達した。
巣の中には卵が五個あった。一個は純の腹ほどの大きさがある。純はボウルを出した——もちろん入らない。
「これは持ち帰れないな」
純は巣の縁に座って考えた。飛鎚鳥は巣の下で旋回している。
純はエプロンのポケットを探った。白銀平原の薄力粉が、ある程度残っていた。
「……ここで揚げるか」
純は巣の素材の乾燥した枝に火を起こし(火打ち石は村を出るときに拾っていた)石を組んで簡易かまどを作り、飛鎚鳥の卵を一個、その場で割った。
山頂の風の中、純は卵液をボウルで溶いた。 もう一つのボウルに入れた白銀平原の薄力粉と合わせ、衣を作った。
ポケットの中に、村長からもらっていた「爆裂茸の乾燥スライス」があった。
純は爆裂茸に衣をつけ、巣の底に溜まっていた天然石油で揚げた。(飛鎚鳥が光る石を集める習性があり、その石から滲み出た油が巣底に溜まっていた)
しばらくして、飛鎚鳥が巣の縁に降り立った。
村長からもらった「爆裂茸」をその場で揚げた。
断絶峰の山頂に天ぷらの香りが漂う。
飛鎚鳥に一切れ差し出すと、鳥は悶絶し、自ら卵を一つ差し出した。
取引成立だった。
純はその後、飛鎚鳥の卵を月に二度もらう契約を結んだ。対価は毎回、現地で揚げる天ぷら一盛り。
飛鎚鳥は純が来るたびに羽を広げてタクシー代わりになり、周辺の魔物を追い払う、過保護なボディーガードになった。
「……気を遣われてる気がする」純は複雑な顔でそう思ったが、ありがたく受け取ることにした。
村に帰って (エプロンで包んで背負って きた) 卵入りの衣で揚げた天ぷらを出したとき、村長は「昨日までのと何が違う」と言った。「全然、違います」と純は言った。
村長は食べ比べて、黙って七本おかわりした。
【天つゆへの道】
純の最大の悩みは、醤油がないことだった。この世界に醤油はなかった。発酵文化はあったが、大豆を長期熟成させる技術がなく、調味料といえば岩塩と謎のハーブ程度だった。
純は諦めなかった。
森の奥の沼に生息する「闇魚」——全身真っ黒で、捕まえようとすると「やめてくれ」という顔をする不思議な魚——を干して細かくすりつぶし、地中深くに埋まっている「発酵根」という魔物の根っこ(これも立派な植物系魔物である)を煮出して旨味を抽出し、岩塩と合わせること三ヶ月。
純はついに、天つゆもどきを完成させた。試食した村の子どもが「甘い!」と叫んだ。純は「みりんもどきが強すぎたか」とつぶやいてレシピを修正した。
さらに二ヶ月後、完璧な天つゆが完成した。村長が泣いた。なぜ泣いているのかは誰にもわからなかったが、とにかく泣いた。
【「〇△屋」異世界店、開業】
評判は広まるのが早かった。
隣村から人が来た。隣の町から来た。そのうち「絞殺草の天ぷらが食べられる店がある」という噂が国中に広まり、純の店の前には連日行列ができた。メニューは純が毎日考えた。
森の凶悪な魔物「爆裂茸」(触れると爆発するキノコ)は、揚げる前に一時間水に晒すと爆発成分が抜け、香り高いキノコ天になった。「石化蓮根」(食べると一時間石になる根野菜)は高温で揚げることで石化成分が消え、サクサクのれんこん天になった。「叫び玉ねぎ」(切ると断末魔の叫び声を上げる玉ねぎ)はかき揚げにすると甘みが増して絶品だった。ただし調理中の叫び声がうるさいので、純は耳栓をするようになった。
天ぷらにできない魔物は今のところ一種類もなかった。これが「純の二つ目のチート」だと村人たちはうやうやしく語り合ったが、純本人は「揚げればだいたい食えるんですよ」と言うだけだった。
【王様、来店】
国王が店に来たのは、純が異世界に来て三年目のことだった。
純は王様を見ても特に驚かなかった。驚いたのは王様のほうだ。
「余が来たというのに、なぜそなたは揚げ続けているのだ」
「油の温度が下がるので」
王様は絶句した。生まれてこのかた、誰かに話の途中で無視されたことがなかった。しかし出てきた天ぷらを一口食べた瞬間、王様の顔から王様らしさが消えた。
「……もう一枚」
「はい、お次は爆裂茸です」
「……もう一枚」
「はい、石化蓮根のかき揚げです」
「……もう一枚」
「はい、絞殺草のゴボウ風天ぷら、天つゆでどうぞ」
王様はその日、三時間店に居座り、最後に「余の専属料理人になれ」と言った。
「お断りします。私は天ぷら屋なので」
王様は帰り際、「また来る」と言った。次の週も来た。その次の週も来た。王様は結局、純が異世界にいる間、毎週一度は必ず来店する常連になった。
【魔王、来店】
魔王が来たのは五年目だった。
魔王は巨大な翼と角を持ち、全身黒いマントをまとい、入店するなり「人間よ、貴様の噂は魔界にまで届いておるぞ」と言った。
純は「いらっしゃいませ」と言った。
魔王は一瞬、虚をつかれた顔をしたが、カウンターに腰を下ろした。
「なんでもあるのか」
「今日は叫び玉ねぎのかき揚げと、闇の森のアスパラ天、あと魔界芋の素揚げが入ってます」
「魔界芋……それは魔界のものではないか」
「行商人から買いました。いい食材なので」
魔王は黙って食べた。途中から無言になった。食べ終わったあと、長い沈黙があった。
「……人間よ」
「はい」
「余はそなたを滅ぼしに来たわけではなかったが、もし来ていたとしても、攻撃はしない」
「ありがとうございます」
「来月も来る」
「お待ちしております」
魔王は翼を広げて飛び去った。帰り際、お釣りをきちんと受け取っていった。意外と几帳面だった。
---
純の店が有名になりすぎたことで、ひとつ問題が生じた。
貴族たちが「あの天ぷら屋は余の専属にすべきだ」と言い争うようになったのだ。侯爵は「余が最初に来た」と主張した。伯爵は「余が最も多く通った」と主張した。子爵は「余が最も多く食べた」と主張した。
純は三人が店の前で言い争っているのを見て、三皿の天ぷらを持って外に出た。
「はい、どうぞ。揚げたてです」
三人は揚げたての天ぷらを受け取り、一口食べて、争いをやめた。
熱々の天ぷらを持ちながら口論を続けることは物理的に難しい。これが「純の三つ目のチート」——天ぷらによる紛争解決——であったが、本人は「熱いうちに食べてもらわないともったいないので」と言うだけだった。
【屋台】
貴族や王族だけが来る店では、純は満足しなかった。
純は週に二日、屋台を出すことにした。値段は一串 銅貨一枚。庶民でも手が届く値段にした。
最初の日、屋台の前に長蛇の列ができた。子どもたちが「てんぷら!てんぷら!」と叫びながら走ってきた。純はひたすら揚げた。揚げて、揚げて、揚げた。油が切れたら補充し、衣が足りなくなったら作り、天つゆを切らさないように目を配った。
夕暮れ時、二つの月が東の空に並んで昇り始めた頃、純は屋台を閉めた。
隣に座っていた子どもが「おじさん、明日も来る?」と言った。
「おじさんじゃなくて純さんだ。来週また来るよ」
「純さん、天ぷら、さいこう!」子どもは走って帰った。
純は揚げ鍋を片付けながら、ふと日本の妻のことを思った。今頃、店で何をしているだろう。
純は空の月を二つ見上げた。月は二つあっても、どちらも静かに輝いていた。
---
異世界での十五年間で、純は多くのものを得た。
言葉を得た。仲間を得た。常連客を得た。完璧な天つゆのレシピを得た。魔物の天ぷら百種類超えのレパートリーを得た。魔王との微妙な友情を得た。そして——皺一つない顔と、少しも白くならない髪を得た。この世界では時間の流れかたが違うのか、純の体は異世界に来た日のままだった。
十五年目の最後の夜、純は店を閉め、カウンターに一人座った。
閉店後の静かな厨房。鍋の油がしずかに冷えていく音。純はエプロンをたたみ、ゆっくりと立ち上がった。
そして世界が、またぐにゃりと曲がった。
【帰還】
佐藤 純 が消えたのは、ごく普通の昼下がりのことだった。
妻は、ホール側で箸を並べていた。夫が厨房にいるのは気配でわかっていた。揚げ油の温度を確認しているのだろう、ちょっとガサゴソしていたかと思ったら、静かになった。
十秒後、純は妻の背後から抱きついた。
「ただいま」
「わっ! な、何!? 急に!」
妻は振り返った。夫の顔があった。いつもと同じ顔だった。ちょっと変な顔をしていたが、いつものことだ。
「……どうしたの、急に」
「会いたかった」
「え? さっきまでそこにいたじゃない」
「そうだな」
純は笑った。妻は首をかしげた。
「なんか変なもの食べた?」
「いや。最高級の天ぷらを十五年分、揚げてきた。菜箸で崖を登りながらな」
「そうじゃなくて」
妻はもう一度夫の顔を見た。何か言いたそうな、でも言葉にならないような、不思議な顔をしていた。純の手を取った。
「……まあ、いいか。お昼にしようよ。天ぷら食べたい」
純は厨房に戻った。エプロンを締め直し、油の温度を確認した。今度はしっかり確認した。
---
「〇△屋」は連日満席!!
純の天ぷらは変わらず旨かった。いや、変わらずどころか、どこか深みが増したような気がすると常連客たちは言った。だしの取り方が違う気がする、と言う客もいた。天つゆの旨味が凄い、と言う客もいた。
純は笑って「ちょっと修行してきました」と答えた。
妻はホールを走り回りながら、夫の背中を時々見た。揚げる背中は昔と変わらない。でもたまに、夫が遠くを見るような顔をすることがあった。どこか遠い場所を、懐かしむような顔で。
ある夜、閉店後に二人でまかないを食べながら、妻が言った。
「ねえ、最近さ、なんか話したいことない?」
純は箸を止めた。
「ある」
「聞く」
どこから話すべきか。月が二つある空のことか。絞殺草の天ぷらのことか。毎週来る王様のことか。魔界芋のことか。魔王がお釣りを几帳面に受け取っていったことか。
「月が二つある場所に行ってた」妻は箸を止めた。
「……うん」
「十五年くらい」
「……うん」
「帰ってきたら十秒しか経ってなかった」
妻はしばらく黙っていた。純も黙っていた。外では車が一台通り過ぎた。
「……それで、天つゆ、変わったの?」
「変わった」
天ぷらを一口食べた。咀嚼して、飲み込んで、また一口食べた。
「……うん。確かに旨い」
「だろ」
「十五年分ね」妻はもう一口食べた。
「話、全部聞かせて。長くなる?」
「すごく長くなる」
「じゃあ今夜だけじゃ足りないね」
「一週間くらい。もっとかかるかもしれない」
「じゃあ毎晩ちょっとずつ聞く」
純は笑った。妻も笑った。
二人は閉店後の静かな店で、まかないを食べ続けた。外には下町の夜空が広がっていた。月は一つだった。
---
「〇△屋」は今日も満席だ。
純は厨房で揚げ続ける。衣はサクサク、油の温度は常に最適、天つゆは異世界仕込みの旨味が深く染みている。何を揚げても旨い。妻はホールを走り回り、客の顔を覚え、常連には「いつものでいいですか」と声をかける。
夜、閉店後。純は今日も妻に十五年分の話の続きをする。魔王が几帳面だった話。子供たちと屋台の話。叫び玉ねぎの天ぷらを作るときは耳栓が要る話。飛鎚鳥は揚げたてに目がなくて、崖を登るのが一苦労だった話。
「菜箸で登ったなんて、言わないでよ?」
「……よくわかったな。次は、もっといい箸を特注しようと思うんだ」
妻は笑いながら聞く。
「ねえ、魔王、また来たいって言ってなかった?」
「言ってた」
「来たらどうするの」
「天ぷら出す」
「そりゃそうか」二人は笑った。
今夜も「〇△屋」の灯りは遅くまでついている。