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天ぷら無双異世界譚

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/4/30 📚 シリーズ: 貴方へ ~もう一つのラブレター~ 📝 7,897文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

一話完結・オムニバス(長めの物語)

本文

天ぷら無双異世界譚

【消えた男】

佐藤 純 が消えたのは、ごく普通の昼下がりのことだった。

場所は下町、築三十年の小さな天ぷら屋「〇△屋」の厨房。純が揚げ油の温度を確認しようとしゃがんだ瞬間、世界がぐにゃりと曲がり、気づいたときには見知らぬ草原の真ん中に立っていた。

空には月が二つ浮かんでいた。

大きいほうと小さいほうが仲良く並んで、昼間なのにうっすら見えている。

「……油の温度、測り忘れた」純がまず思ったのはそれだった。

【異世界、一日目】

草原を歩くこと一時間、純は小さな村にたどり着いた。村人たちはとんがり帽子をかぶり、耳が少しとがっていた以外は、わりと普通の人間に見えた。

村人たちは純を取り囲み、口々に何かを叫んだ。言葉はわからないが、雰囲気で「異邦人だ」「魔物か」「いや、美味そうな匂いのするおじさんだ」言葉はわからないが、そんなニュアンスは察せた。

純は両手を上げた。

「天ぷら屋です。怪しいものじゃありません」

通じるわけがなかったが、なぜか三日後には言葉が通じるようになっていた。これが後に「純の最初のチート」と呼ばれることになる能力——異世界言語の即時習得——であったが、本人はそれより「この村の湿度が衣のサクサク感にどう影響するか」に頭を悩ませていた。

【植物系魔物、天ぷらになる】

村の近くの森には魔物が出た。

純が最初に遭遇したのは「絞殺草」と呼ばれる植物系の魔物で、見た目はただの大きなタンポポだったが、綿毛が鋭い針になっており、近づく者に容赦なく突き刺さる凶悪な代物だった。村人たちは代々この森を避けて生きてきた。

純は絞殺草を見て、三秒考えた。

「……ゴボウに似てるな」

純はエプロンのポケットに常備していた小麦粉(なぜかポケットにあった。天ぷら屋の職業病である)と、近くの川で汲んだ水で衣を作り、絞殺草を根こそぎ引き抜いてぶつ切りにし、揚げた。

村長が恐る恐る口にして、目を見開いた。

「……なんじゃこりゃ」

「天ぷらです」

「てんぷら……」

村長は三本おかわりした。

【小麦粉争奪戦。白銀の平原、全力疾走】

問題が生じたのは数日後だった。

エプロンのポケットに入っていた小麦粉が底をついたのだ。純はポケットをはたいて残り粉を確認し、静かに深呼吸した。

「……ない」

村人に訊くと、この世界にも「白粉麦」という穀物があるにはあるが、それを管理しているのは王都から半日の距離にある「白銀平原」を縄張りにする魔物の群れだという。名を「粉砕獣ガリンダ」——体長三メートルを超える巨大なアルマジロ型の魔物で、全身を硬質な鱗に覆われ、その鱗の摩擦熱で地面の石まで粉末に変えてしまう。白銀平原の白い砂は、実はガリンダが何百年もかけて大地を粉砕した産物だという。

「誰も近づけません」と村人は青ざめた顔で言った。「鱗の一撃で壁が崩れます」

翌朝、純は「仕入れに行ってきます」とエプロンを締め直し、白銀平原へ向かった。

草原の向こうに広がる白い平野を見渡すと、果たして十頭ほどのガリンダが転がるように走り回っていた。鱗がこすれるたびにキィィという高音が響き、地面が粉末になって舞い上がる。

純はしゃがんで粉末を一つかみ掬い、鼻に近づけた。

「……これ、ほぼ◎清のバイオレット(薄力粉)じゃないか」

​

白銀平原の白い砂の正体は、ガリンダが何百年もかけて白粉麦の原穀を粉砕し続けた、天然の薄力粉だった。

純は立ち上がって平原に歩み入った。

ガリンダの群れが一斉にこちらを向いた。十頭の赤い目が純を捉えた。地面が揺れた。

「——来い。仕込みの時間だ」

純は腰を落とし、菜箸を構えた(なぜかエプロンのポケットに入っていた。天ぷら屋の職業病である)

先頭のガリンダが地面を蹴った。三メートルの巨体が弾丸のように転がってくる。

純は横に半歩ずらした。

ガリンダの体が純の脇を通り過ぎ、削った粉末を盛大に巻き上げた。

「一頭目——ありがとうございます」

純は粉末をボウルいっぱい掬った。

二頭目が突進してくる。純はまた半歩ずらす。また粉末が舞う。

「二頭目——ありがとうございます」

三頭目、四頭目、五頭目。純は避け続け、粉末を集め続けた。鱗がかすりもしない。

天ぷら職人は一日中、揚げ鍋の前で一ミリも無駄のない動きで立ち続ける生き物だ。最適な位置に、最適なタイミングで。それ以外の動きはしない。体が余分な動作を知らない。ガリンダの突進など、忙しい昼時の客の注文に比べれば単調だった。

六頭目が頭を振り回して鱗を飛ばしてきた。純は菜箸で弾いた。

七頭目が低い姿勢で地面を転がる。純は三十センチ飛び上がり、その背を踏んで前転した。ガリンダは困惑したように止まった。

群れが止まった。

十頭のガリンダが純を取り囲み、赤い目でじっと見た。

純は集めた粉末を確認した。業務用の大袋たっぷり一つ分はある。

「——充分です。ありがとうございました」

純は軽く頭を下げて、平原を歩いて出た。

ガリンダたちはしばらく見送っていたが、やがてまたキィキィと鱗を鳴らしながら転がり始めた。

後日、村人から「ガリンダが自分から粉を提供するようになった」という話が広まったが、確かめた者はいない。純はこの日から白銀平原に十日ごとに通うようになった。ガリンダたちは純が来るたびに、より細かく粉を挽くよう回転数を上げるようになった。職人のこだわりに応えようとする、魔物なりのプライドかもしれない。

【卵を求めて。天空の巣、単身強行】

小麦粉が手に入った。だが純には、もう一つ欲しいものがあった。

「卵」だ。

衣に卵を加えると、サクサク感がまるで変わる。純は三週間、卵なしの衣で天ぷらを揚げ続け、毎晩「惜しい」とつぶやいていた。

村人に卵を訊ねた。鶏は? と訊いた。

村人は首を横に振った。

「この辺りの鳥は全部、飛鎚鳥(ハンマーバード)に食われます」

飛鎚鳥——翼幅十メートル、体重一トンを超える巨大な猛禽。嘴がハンマーの形をしており、一撃で岩を砕く。その巣は王都の北にそびえる「断絶峰」の頂上近く、垂直の崖に作られており、人間はおろかドラゴンさえ近づかないという。

「飛鎚鳥の卵は一個で 人間三人の頭ほどの大きさがあると言われますが、誰も取りに行けません」

純は地図を確認した。村から徒歩半日。

「行きます。卵を切らすのは、職人の恥ですから」

村人一同が止めたが、純は翌朝、出発した。荷物はエプロンと菜箸とボウルだけだった。

断絶峰は名の通り、縦に一刀で切ったような断崖だった。頂には雲がかかり、その雲の切れ目に茶色いシルエットが見えた——飛鎚鳥の巣だ。

純は崖を見上げた。登り口らしいものはない。

ガツン。岩を穿つ音が響く。純は菜箸をピッケル代わりに崖に突き立てた。長年、熱い油と戦い続けた純の箸は、もはや聖剣並みの硬度を得ていた。​左の箸で支え、右の箸をさらに上へ。普通の人間なら即落命する壁を、純は「壁を調理する」ようなリズムで登っていく。

天ぷら屋の厨房仕事は腕力がいる。重い鍋、長時間の立ち仕事、鍋から食材を引き上げる反復動作。純の握力は村の鍛冶屋より強かった。

一時間後、純は崖の中腹まで登っていた。

そこで巣から降りてくる飛鎚鳥と鉢合わせした。翼幅十メートル。嘴は本当にハンマーだった。

飛鎚鳥は崖にへばりついている純を見て、首をかしげた。こんな場所に人間がいたことが、おそらく生まれて初めてだったのだろう。

純も首をかしげた。

「……卵、もらえますか」

飛鎚鳥は嘴を振り上げた。崖を砕く一撃が来る——

純は崖から飛んだ。

落下しながら、崖の出っ張りに 菜箸を引っかけ、振り子のように弧を描いて崖の反対側に回り込んだ。飛鎚鳥のハンマー嘴が純のいた場所を砕き、岩が砕けて落ちた。

「位置、変えます」

純は崖を横移動しながら登り続けた。飛鎚鳥は追いかけるが、翼幅が大きすぎて崖沿いの細かい動きができない。純は一撃ごとに読んでかわした。天ぷら職人は揚げ鍋の前でずっと考えている。次の食材が来る前に何をすべきか。油はねはどの方向に来るか。鍋の温度は次の一秒後にどう変わるか。絶え間ない先読みが習慣になっている。

さらに、一時間後、純は巣に到達した。

巣の中には卵が五個あった。一個は純の腹ほどの大きさがある。純はボウルを出した——もちろん入らない。

「これは持ち帰れないな」

純は巣の縁に座って考えた。飛鎚鳥は巣の下で旋回している。

純はエプロンのポケットを探った。白銀平原の薄力粉が、ある程度残っていた。

「……ここで揚げるか」

純は巣の素材の乾燥した枝に火を起こし(火打ち石は村を出るときに拾っていた)石を組んで簡易かまどを作り、飛鎚鳥の卵を一個、その場で割った。

山頂の風の中、純は卵液をボウルで溶いた。 もう一つのボウルに入れた白銀平原の薄力粉と合わせ、衣を作った。

ポケットの中に、村長からもらっていた「爆裂茸の乾燥スライス」があった。

純は爆裂茸に衣をつけ、巣の底に溜まっていた天然石油で揚げた。(飛鎚鳥が光る石を集める習性があり、その石から滲み出た油が巣底に溜まっていた)

しばらくして、飛鎚鳥が巣の縁に降り立った。

村長からもらった「爆裂茸」をその場で揚げた。

​断絶峰の山頂に天ぷらの香りが漂う。

飛鎚鳥に一切れ差し出すと、鳥は悶絶し、自ら卵を一つ差し出した。

取引成立だった。

純はその後、飛鎚鳥の卵を月に二度もらう契約を結んだ。対価は毎回、現地で揚げる天ぷら一盛り。

飛鎚鳥は純が来るたびに羽を広げてタクシー代わりになり、周辺の魔物を追い払う、過保護なボディーガードになった。

「……気を遣われてる気がする」純は複雑な顔でそう思ったが、ありがたく受け取ることにした。

村に帰って (エプロンで包んで背負って きた) 卵入りの衣で揚げた天ぷらを出したとき、村長は「昨日までのと何が違う」と言った。「全然、違います」と純は言った。

村長は食べ比べて、黙って七本おかわりした。

【天つゆへの道】

純の最大の悩みは、醤油がないことだった。この世界に醤油はなかった。発酵文化はあったが、大豆を長期熟成させる技術がなく、調味料といえば岩塩と謎のハーブ程度だった。

純は諦めなかった。

森の奥の沼に生息する「闇魚」——全身真っ黒で、捕まえようとすると「やめてくれ」という顔をする不思議な魚——を干して細かくすりつぶし、地中深くに埋まっている「発酵根」という魔物の根っこ(これも立派な植物系魔物である)を煮出して旨味を抽出し、岩塩と合わせること三ヶ月。

純はついに、天つゆもどきを完成させた。試食した村の子どもが「甘い!」と叫んだ。純は「みりんもどきが強すぎたか」とつぶやいてレシピを修正した。

さらに二ヶ月後、完璧な天つゆが完成した。村長が泣いた。なぜ泣いているのかは誰にもわからなかったが、とにかく泣いた。

【「〇△屋」異世界店、開業】

評判は広まるのが早かった。

隣村から人が来た。隣の町から来た。そのうち「絞殺草の天ぷらが食べられる店がある」という噂が国中に広まり、純の店の前には連日行列ができた。メニューは純が毎日考えた。

森の凶悪な魔物「爆裂茸」(触れると爆発するキノコ)は、揚げる前に一時間水に晒すと爆発成分が抜け、香り高いキノコ天になった。「石化蓮根」(食べると一時間石になる根野菜)は高温で揚げることで石化成分が消え、サクサクのれんこん天になった。「叫び玉ねぎ」(切ると断末魔の叫び声を上げる玉ねぎ)はかき揚げにすると甘みが増して絶品だった。ただし調理中の叫び声がうるさいので、純は耳栓をするようになった。

天ぷらにできない魔物は今のところ一種類もなかった。これが「純の二つ目のチート」だと村人たちはうやうやしく語り合ったが、純本人は「揚げればだいたい食えるんですよ」と言うだけだった。

【王様、来店】

国王が店に来たのは、純が異世界に来て三年目のことだった。

純は王様を見ても特に驚かなかった。驚いたのは王様のほうだ。

「余が来たというのに、なぜそなたは揚げ続けているのだ」

「油の温度が下がるので」

王様は絶句した。生まれてこのかた、誰かに話の途中で無視されたことがなかった。しかし出てきた天ぷらを一口食べた瞬間、王様の顔から王様らしさが消えた。

「……もう一枚」

「はい、お次は爆裂茸です」

「……もう一枚」

「はい、石化蓮根のかき揚げです」

「……もう一枚」

「はい、絞殺草のゴボウ風天ぷら、天つゆでどうぞ」

王様はその日、三時間店に居座り、最後に「余の専属料理人になれ」と言った。

「お断りします。私は天ぷら屋なので」

王様は帰り際、「また来る」と言った。次の週も来た。その次の週も来た。王様は結局、純が異世界にいる間、毎週一度は必ず来店する常連になった。

【魔王、来店】

魔王が来たのは五年目だった。

魔王は巨大な翼と角を持ち、全身黒いマントをまとい、入店するなり「人間よ、貴様の噂は魔界にまで届いておるぞ」と言った。

純は「いらっしゃいませ」と言った。

魔王は一瞬、虚をつかれた顔をしたが、カウンターに腰を下ろした。

「なんでもあるのか」

「今日は叫び玉ねぎのかき揚げと、闇の森のアスパラ天、あと魔界芋の素揚げが入ってます」

「魔界芋……それは魔界のものではないか」

「行商人から買いました。いい食材なので」

魔王は黙って食べた。途中から無言になった。食べ終わったあと、長い沈黙があった。

「……人間よ」

「はい」

「余はそなたを滅ぼしに来たわけではなかったが、もし来ていたとしても、攻撃はしない」

「ありがとうございます」

「来月も来る」

「お待ちしております」

魔王は翼を広げて飛び去った。帰り際、お釣りをきちんと受け取っていった。意外と几帳面だった。

---

純の店が有名になりすぎたことで、ひとつ問題が生じた。

貴族たちが「あの天ぷら屋は余の専属にすべきだ」と言い争うようになったのだ。侯爵は「余が最初に来た」と主張した。伯爵は「余が最も多く通った」と主張した。子爵は「余が最も多く食べた」と主張した。

純は三人が店の前で言い争っているのを見て、三皿の天ぷらを持って外に出た。

「はい、どうぞ。揚げたてです」

三人は揚げたての天ぷらを受け取り、一口食べて、争いをやめた。

熱々の天ぷらを持ちながら口論を続けることは物理的に難しい。これが「純の三つ目のチート」——天ぷらによる紛争解決——であったが、本人は「熱いうちに食べてもらわないともったいないので」と言うだけだった。

【屋台】

貴族や王族だけが来る店では、純は満足しなかった。

純は週に二日、屋台を出すことにした。値段は一串 銅貨一枚。庶民でも手が届く値段にした。

最初の日、屋台の前に長蛇の列ができた。子どもたちが「てんぷら!てんぷら!」と叫びながら走ってきた。純はひたすら揚げた。揚げて、揚げて、揚げた。油が切れたら補充し、衣が足りなくなったら作り、天つゆを切らさないように目を配った。

夕暮れ時、二つの月が東の空に並んで昇り始めた頃、純は屋台を閉めた。

隣に座っていた子どもが「おじさん、明日も来る?」と言った。

「おじさんじゃなくて純さんだ。来週また来るよ」

「純さん、天ぷら、さいこう!」子どもは走って帰った。

純は揚げ鍋を片付けながら、ふと日本の妻のことを思った。今頃、店で何をしているだろう。

純は空の月を二つ見上げた。月は二つあっても、どちらも静かに輝いていた。

---

異世界での十五年間で、純は多くのものを得た。

言葉を得た。仲間を得た。常連客を得た。完璧な天つゆのレシピを得た。魔物の天ぷら百種類超えのレパートリーを得た。魔王との微妙な友情を得た。そして——皺一つない顔と、少しも白くならない髪を得た。この世界では時間の流れかたが違うのか、純の体は異世界に来た日のままだった。

十五年目の最後の夜、純は店を閉め、カウンターに一人座った。

閉店後の静かな厨房。鍋の油がしずかに冷えていく音。純はエプロンをたたみ、ゆっくりと立ち上がった。

そして世界が、またぐにゃりと曲がった。

【帰還】

佐藤 純 が消えたのは、ごく普通の昼下がりのことだった。

妻は、ホール側で箸を並べていた。夫が厨房にいるのは気配でわかっていた。揚げ油の温度を確認しているのだろう、ちょっとガサゴソしていたかと思ったら、静かになった。

十秒後、純は妻の背後から抱きついた。

「ただいま」

「わっ! な、何!? 急に!」

妻は振り返った。夫の顔があった。いつもと同じ顔だった。ちょっと変な顔をしていたが、いつものことだ。

「……どうしたの、急に」

「会いたかった」

「え? さっきまでそこにいたじゃない」

「そうだな」

純は笑った。妻は首をかしげた。

「なんか変なもの食べた?」

「いや。最高級の天ぷらを十五年分、揚げてきた。菜箸で崖を登りながらな」

「そうじゃなくて」

妻はもう一度夫の顔を見た。何か言いたそうな、でも言葉にならないような、不思議な顔をしていた。純の手を取った。

「……まあ、いいか。お昼にしようよ。天ぷら食べたい」

純は厨房に戻った。エプロンを締め直し、油の温度を確認した。今度はしっかり確認した。

---

「〇△屋」は連日満席!!

純の天ぷらは変わらず旨かった。いや、変わらずどころか、どこか深みが増したような気がすると常連客たちは言った。だしの取り方が違う気がする、と言う客もいた。天つゆの旨味が凄い、と言う客もいた。

純は笑って「ちょっと修行してきました」と答えた。

妻はホールを走り回りながら、夫の背中を時々見た。揚げる背中は昔と変わらない。でもたまに、夫が遠くを見るような顔をすることがあった。どこか遠い場所を、懐かしむような顔で。

ある夜、閉店後に二人でまかないを食べながら、妻が言った。

「ねえ、最近さ、なんか話したいことない?」

純は箸を止めた。

「ある」

「聞く」

どこから話すべきか。月が二つある空のことか。絞殺草の天ぷらのことか。毎週来る王様のことか。魔界芋のことか。魔王がお釣りを几帳面に受け取っていったことか。

「月が二つある場所に行ってた」妻は箸を止めた。

「……うん」

「十五年くらい」

「……うん」

「帰ってきたら十秒しか経ってなかった」

妻はしばらく黙っていた。純も黙っていた。外では車が一台通り過ぎた。

「……それで、天つゆ、変わったの?」

「変わった」

天ぷらを一口食べた。咀嚼して、飲み込んで、また一口食べた。

「……うん。確かに旨い」

「だろ」

「十五年分ね」妻はもう一口食べた。

「話、全部聞かせて。長くなる?」

「すごく長くなる」

「じゃあ今夜だけじゃ足りないね」

「一週間くらい。もっとかかるかもしれない」

「じゃあ毎晩ちょっとずつ聞く」

純は笑った。妻も笑った。

二人は閉店後の静かな店で、まかないを食べ続けた。外には下町の夜空が広がっていた。月は一つだった。

---

「〇△屋」は今日も満席だ。

純は厨房で揚げ続ける。衣はサクサク、油の温度は常に最適、天つゆは異世界仕込みの旨味が深く染みている。何を揚げても旨い。妻はホールを走り回り、客の顔を覚え、常連には「いつものでいいですか」と声をかける。

夜、閉店後。純は今日も妻に十五年分の話の続きをする。魔王が几帳面だった話。子供たちと屋台の話。叫び玉ねぎの天ぷらを作るときは耳栓が要る話。飛鎚鳥は揚げたてに目がなくて、崖を登るのが一苦労だった話。

「菜箸で登ったなんて、言わないでよ?」

「……よくわかったな。次は、もっといい箸を特注しようと思うんだ」​

妻は笑いながら聞く。

「ねえ、魔王、また来たいって言ってなかった?」

「言ってた」

「来たらどうするの」

「天ぷら出す」

「そりゃそうか」二人は笑った。

今夜も「〇△屋」の灯りは遅くまでついている。

ジャンル・タグ

ファンタジー, ヒューマンドラマ, 恋愛, スローライフ

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JJ

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