会話を売る街
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIが人間の会話パターンを完全再現できる時代。 貧しい人々は、自分の「話し方」や「冗談の癖」を企業に売って暮らしている。 主人公は自分の声で誰かが恋人を慰めている広告を見て、自分の一部が自分より幸せに生きていることを知る。
本文
朝の駅前広場では、今日も人の声が競りにかけられていた。
大型ビジョンに映るのは、声帯ではなく、言葉の癖だった。笑う前に一拍置く癖。怒っているのに語尾だけやわらかくなる癖。相手が泣きそうなとき、わざとくだらない冗談を言う癖。そういうものが、ひとまとめに「会話資産」と呼ばれている。
美咲はビジョンを見上げずに、古い自販機の横を通り過ぎた。見上げたら負けだと思っていた。
だが、聞こえてしまった。
「大丈夫。今日はもう、えらかったってことで終わりにしよう」
その声は、美咲の声だった。
足が止まった。
ビジョンには、白いソファに座る若い男と、彼に寄り添う仮想恋人が映っていた。仮想恋人の顔は知らない女のものだ。だが声の抑揚、間の取り方、最後に少しだけ息を抜く感じは、美咲そのものだった。
広告の端に文字が流れる。
《共感会話モデル M-1178。疲れた夜に、あなたを責めない声を。》
M-1178。
美咲が二年前、家賃の滞納を払うために売った会話資産の番号だった。
買い取り額は三万二千円。契約書には、用途は「接客補助、教育、メンタルケア領域に限定」と書かれていた。広告出演とは聞いていない。まして、恋人の代用品にされるとは。
その夜、美咲は勤め先の配送倉庫で、荷物を三つ落とした。
「顔色悪いよ」
同僚の俊が、軍手を外しながら言った。彼は片耳だけ古いイヤホンをしている。音楽ではない。売った自分の会話資産がどこで使われているかを監視する通知アプリだ。
「自分の声を見た」
「聞いた、じゃなくて?」
「見た。広告で」
俊は黙った。笑わなかった。
「契約違反かも。ログ取った?」
「取ってない」
「じゃあ厳しい。向こうは証拠がなければ存在しないって言う」
美咲は梱包台に手をついた。段ボールの表面がざらついている。
「ねえ、俊は平気なの? 自分の喋り方が、知らない誰かの慰めに使われて」
「平気じゃない。でも俺の喋り方はもう俺より稼いでる」
それは冗談の形をしていたが、冗談ではなかった。
この街では、貧しい人間ほどよく喋った。会話資産の買い取り店は、駅ごとに三つはある。学生は学費のために、老人は医療費のために、失業者は明日の食費のために、自分の言い方を売る。企業はそれをAIに学習させ、誰かに寄り添う商品へ変える。
美咲は二年前、自分の声を売ったあと、しばらく人と話すのが嫌になった。
自分が優しく言った言葉まで、誰かに先回りされるような気がしたからだ。
翌朝、美咲は買い取り業者「ボイスマーケット東口店」に行った。蛍光灯の白い部屋で、受付AIが笑顔を浮かべる。
「契約内容の確認ですね。M-1178、美咲様。買い取り済み会話資産は、現在、三十二社にライセンス提供されています」
「広告に使われてる」
「広告利用は、メンタルケア領域の普及促進に該当します」
「恋人のふりをしてた」
「情緒支援インターフェースです」
「私の許可は?」
「包括同意をいただいております」
受付AIは、どこまでも穏やかだった。
美咲はカウンターを叩きそうになり、こらえた。その叩き方まで資産として売られていたら嫌だった。
「買い戻したい」
「可能です。現在価値は、二百八十七万円です」
笑いそうになった。いや、笑った。自分の笑い方が店内のスピーカーに反響し、まるで商品サンプルの確認音声のように聞こえた。
「三万二千円で売ったのに」
「美咲様の会話資産は、利用者満足度が非常に高く、特に『無条件受容』カテゴリで上位です」
「私自身は、そんなに誰かを受け入れられる人間じゃない」
「会話資産の価値は、所有者の自己評価とは独立しています」
その言葉が、一番こたえた。
店を出ると、俊からメッセージが届いていた。
《今夜、東区の配信スタジオでM-1178の新製品発表がある。招待客向けだけど、搬入口なら入れる》
美咲は少し迷ってから、返信した。
《行く》
夜の東区は、昼より明るかった。ビルの壁面すべてが広告で、歩道のガラスには仮想案内人が浮かんでいる。俊は黒い配送ジャケットを二着持ってきた。二人は業者のふりをして、スタジオの裏口から入った。
発表会場では、企業の役員が笑顔で話していた。
「孤独は、もはや個人の問題ではありません。我々は、誰もが安心して帰れる声を提供します」
壇上に、仮想人物が現れた。
美咲の声で言った。
「おかえり。ちゃんと帰ってきたね」
会場から拍手が起きた。
美咲の胸の奥が冷えた。
その言葉は、弟に言っていた言葉だった。母が夜勤の日、弟が塾から帰ってくるたびに、美咲はそう言った。弟は高校に入る前に病気で亡くなった。売った会話データの中に、その録音が混じっていたのだ。
「止める」
美咲は制御卓へ向かった。俊が警備員の前に立ち、わざと荷物を落として通路をふさいだ。
制御卓には、配信開始までのカウントダウンが表示されている。全国配信まで三十秒。
美咲はマイクをつかんだ。
「やめてください!」
スタッフが振り向く。警備員が走る。だが、音声回線はすでに生きていた。
会場のスピーカーから、美咲自身の声が響いた。
「その声は、三万二千円で売りました。家賃を払うためです。弟に言っていた言葉も入っていました。私は、その意味まで売ったつもりはありません」
企業役員が叫んだ。
「回線を切れ!」
だが俊が非常停止盤に体当たりし、照明が落ちた。暗闇の中で、配信だけが続いた。非常電源に切り替わったスクリーンに、コメントが滝のように流れ始める。
《これ私もやられた》
《母の口癖が介護AIに使われてる》
《買い戻し価格が高すぎる》
《会話って誰のもの?》
美咲は震える手でマイクを握りしめた。
「私の声を使って誰かが救われたなら、それを全部否定したいわけじゃない。でも、救う側にされた人間が、救われないままなのはおかしい」
その瞬間、壇上の仮想人物が美咲の声で言った。
「大丈夫。今日はもう、えらかったってことで終わりにしよう」
広告と同じ言葉だった。
だが今度は、会場の誰も拍手しなかった。
配信は十七分で遮断された。美咲と俊は警備室に連れていかれ、翌朝には解放された。企業は「一部運用に不備があった」と発表し、会話資産の用途表示を見直すと約束した。買い戻し価格は下がらなかったし、美咲の声はすぐには消えなかった。
それでも、街は少し変わった。
駅前広場の広告には、会話資産の提供者名を表示する欄が増えた。匿名を選べる者もいた。名を出して、これは私の声だと示す者もいた。
美咲は新しい仕事を始めた。会話資産を売る前の人に、契約書の読み方を教える小さな相談所だ。儲からない。だが、誰かが椅子に座って言葉に詰まると、美咲は待った。
待つことは、まだ売っていなかった。
ある夕方、相談所に若い男が来た。駅前広告に映っていた、あの白いソファの男だった。
「あなたの声に、助けられました」
美咲は答えられなかった。
男は深く頭を下げた。
「でも、あなたが傷ついていたことを知らなかった。知ろうともしなかった。すみません」
美咲は窓の外を見た。ビルの隙間に、細い夕焼けがあった。
「謝られると、許さなきゃいけない気がするから困ります」
男は小さく笑った。
「じゃあ、困らせに来たことも謝ります」
美咲も、少しだけ笑った。
その笑い方は、まだどこにも登録されていない気がした。
夜になり、相談所の看板をしまう。駅前のビジョンでは、別の誰かの声が流れていた。美咲は立ち止まり、今度は顔を上げて見た。
声の持ち主の名前が、画面の端に表示されている。
その下に、小さな文字があった。
《この会話資産は、提供者の同意に基づき使用されています。提供者への支援はこちら。》
十分ではない。全然、十分ではない。
けれど美咲は、鞄の中の鍵を握り直し、家へ向かって歩き出した。
誰かのために作られた自分の声ではなく、自分の喉から出る、まだ少し不器用な声で、明日も誰かに言うために。
「ちゃんと帰ってきたね」と。
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