感情の時差
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
宇宙船の乗組員は、長距離航行のため感情だけを遅延処理する薬を飲んでいる。 恐怖も悲しみも任務後にまとめて訪れる。 主人公は無事に帰還したあと、数年前に失った仲間への悲しみが突然届き、すでに変わってしまった日常の中でそれを受け取る。
本文
火星航路から帰還した者は、港で泣いてはいけない。
正確には、泣けない。
宇宙船の乗組員十二名は、地球周回港の白い通路を、訓練通りの歩幅で進んだ。報道カメラが並び、家族がガラス越しに手を振っている。拍手。歓声。国家宇宙庁長官の笑顔。だが、綾瀬澪の胸は静かだった。
静かすぎて、まるで他人の帰還式に立ち会っているようだった。
「澪!」
弟の航が、面会ゲートの向こうで両手を上げた。五年前は高校生だったのに、今は肩幅が広くなっている。澪は笑った。笑う操作はできる。喜びの表情も、声の明るさも、訓練で身につけた。
「ただいま」
弟に抱きつかれても、心は動かなかった。
それは異常ではない。長距離航行では、感情遅延薬を服用する。恐怖、怒り、悲嘆、強い歓喜。判断を鈍らせる感情反応を神経内の一時領域に保存し、任務終了後に少しずつ解放する薬だ。
宇宙では、感情の一秒が命取りになる。
だから澪たちは、五年間、泣くべきときに泣かなかった。
笑うべきときにも、本当には笑わなかった。
帰還後三日目、澪は自宅の洗面台で歯を磨いているとき、突然、爆発音を思い出した。
いや、思い出したのではない。
届いた。
火星軌道投入の七か月前、外殻修理中に微小隕石群が船を叩いた。警報。赤いランプ。通信に混じる誰かの荒い息。船外活動中だった副船長の椎名が、破損したアンテナを手で押さえたまま、澪に叫んだ。
「今、切り離せ!」
澪は切り離した。
アンテナごと、椎名を。
歯ブラシが洗面台に落ちた。
胸の奥から、遅れてきた恐怖が噴き上がる。膝が崩れ、床の冷たさが頬に触れた。五年前に感じるはずだった恐怖が、今、澪の体を占領した。
弟が扉を叩いた。
「姉ちゃん、大丈夫?」
大丈夫ではなかった。
だが澪の口は、訓練で覚えた言葉を選んだ。
「少し、ラグが来ただけ」
帰還者外来では、医師が淡々と説明した。
「解放が早いですね。通常は軽い感情から戻ります。懐かしさ、安堵、軽い不満。それから強いものへ移る」
「椎名副船長の件が来ました」
医師の指が止まった。
「それは、かなり後に来るはずです」
「順番が壊れている?」
「可能性があります。澪さん、帰還前の最終投薬ログに欠損があります」
澪は眉をひそめた。
「欠損?」
「《しらせ》の医療AIが、最後の三か月分の感情バッファを一部隔離しています。理由は不明。宇宙庁は、機密任務に関わる自動処理だと説明しています」
機密任務。
澪は五年間の航路を思い返そうとした。火星へ行き、資源衛星の調査を行い、帰ってきた。それだけのはずだった。だが、帰還前の三か月だけ、記憶の手触りが薄い。日誌はある。映像もある。自分が何をしたかはわかる。
何を感じなかったのかが、わからない。
その夜、澪は椎名の遺族を訪ねた。
椎名の妻、佐和子は、古い団地の一室で澪を迎えた。仏壇には、宇宙服姿の椎名の写真が置かれていた。
「泣けるようになった?」
佐和子は、茶を出しながら聞いた。
「少しずつ」
「じゃあ、まだ本当には謝れないのね」
澪は湯飲みを見つめた。
「すみません」
「その言葉、宇宙庁の人も言った。訓練された声で」
胸の奥で何かが揺れた。怒りだ。だが、それも遅延しているのか、今のものなのかわからない。
佐和子は仏壇の引き出しから、小さな記録媒体を出した。
「夫から、あなた宛て」
「私に?」
「帰還したら渡してくれって。死ぬ前じゃない。出発前に預けていったの」
媒体には、椎名の音声が残っていた。
《澪。これを聞いてるなら、俺はたぶん戻らなかったんだろう。まず、謝るな。船外で何かあったら、切り離せと俺は言う。お前は命令に従う。それでいい》
そこで一度、椎名は笑った。
《問題はそのあとだ。ラグは便利だが、感情を消す薬じゃない。返済を先送りする薬だ。宇宙庁は最近、帰還者の強い罪悪感を管理しようとしている。世論対策だ。英雄が泣き崩れる映像は困るらしい》
澪は顔を上げた。
《もし俺が死んで、お前が何も感じないなら、疑え。感じないことを疑え。悲しみは故障じゃない。持って帰るべき荷物だ》
音声はそこで終わっていた。
翌朝、澪は宇宙庁の帰還者報告会に出席した。会場には記者が集まり、長官が誇らしげに成果を語っていた。
「《しらせ》は、人類の未来を切り開く象徴です。乗組員は極限環境下で冷静な判断を下し、任務を完遂しました」
澪の端末に、警告が出た。
《感情バッファ異常解放。医療室へ移動してください。》
無視した。
次の瞬間、椎名を切り離した直後の感情が来た。
音が消えた。
冷たい操縦桿。震える指。通信が途切れる寸前、椎名が言った最後の言葉。
「よくやった」
澪は壇上の椅子から立ち上がった。
記者たちのカメラが向く。
「私は、冷静だったのではありません」
長官が目を細めた。
「綾瀬飛行士、質疑は後ほど」
「薬で、恐怖を後回しにしていただけです。悲しみも、罪悪感も」
会場がざわつく。
「帰還前の三か月分の感情ログが隔離されています。私たちは何を感じないようにされたんですか」
長官の顔から笑みが消えた。
そのとき、会場後方で別の乗組員が倒れた。機関士の宇田だった。彼は床に膝をつき、頭を抱えながら叫んだ。
「子どもたちの声だ! 火星衛星の中継基地に、救難信号があった!」
澪の血が冷えた。
帰還前の三か月。薄い記憶。機密任務。
宇田の叫びに呼応するように、澪の中で隔離されていた感情が裂けた。
暗い管制室。火星衛星フォボスの裏側。通信ノイズに混じる、細い声。
《こちら民間移民船ハルカ。子どもが四名。酸素残量、六時間》
宇宙庁からの命令。
《任務優先。救助は不可能。記録を封鎖せよ》
澪はそのとき、反対した。椎名なら助けに行ったと言った。だが感情は遅延され、怒りも恐怖も正義感も薄い膜の向こうに押し込まれていた。計算結果だけが残った。
燃料不足。救助成功率十八パーセント。地球帰還成功率低下。
彼女たちは、救難信号を置いて帰った。
澪は壇上のマイクをつかんだ。
「フォボス裏側で、民間船の救難信号を受信しました。宇宙庁は記録を封鎖し、乗組員の感情ログを隔離しました」
長官が叫んだ。
「その発言は国家機密に抵触する!」
「子どもたちは、機密じゃない」
会場の空気が変わった。
記者の一人が立ち上がる。
「救難信号の記録はありますか?」
澪は首を振った。ない。記憶だけだ。遅れて届いた感情だけだ。
そのとき、佐和子が会場に入ってきた。手には椎名の古い端末があった。
「あります」
椎名は出発前から宇宙庁を疑っていた。船内AIの裏に、独立記録領域を仕込んでいた。死んだあとも、彼の端末は《しらせ》の封鎖ログを受信し続けていた。
救難信号が、会場に流れた。
子どもの声がした。
澪はその場で泣いた。
港で泣いてはいけない。帰還者は冷静でなければならない。英雄は顔を上げていなければならない。
そんな規則は、もうどうでもよかった。
報告会は中止され、宇宙庁は調査委員会を設置した。世論は荒れ、長官は辞任した。フォボス裏側の民間船は、すでに沈黙していた。生存者はいなかった。
それでも、救難信号の最後には、子どもの声で歌が残っていた。
澪は何度も聞いた。聞くたびに、遅れていた悲しみが少しずつ現在に追いついた。
一か月後、帰還者外来で医師が言った。
「感情解放は安定してきました。ただ、完全に元通りにはなりません」
「元通りって、どこですか」
医師は答えられなかった。
澪は宇宙庁を辞めた。代わりに、帰還者とその家族のための相談窓口で働き始めた。泣けない人。急に怒り出す人。何年も前の歓喜に突然笑い出す人。感情の時差に取り残された人たちが、そこへ来た。
澪は彼らに、急がなくていいと言った。
遅れた感情は、遅れてでも届く。
届いたものを、なかったことにしなくていい。
ある日、佐和子が相談所を訪ねてきた。仏壇にあった椎名の写真を一枚、澪に渡した。
「夫が、あなたに持っていてほしいって」
写真の裏には、椎名の字で短く書かれていた。
《帰ったら、泣け。》
澪は写真を胸に当てた。
その悲しみは、もう五年前のものではなかった。
今ここにある、自分のものだった。
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