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感情の時差

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/4/26 📝 3,339文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

宇宙船の乗組員は、長距離航行のため感情だけを遅延処理する薬を飲んでいる。 恐怖も悲しみも任務後にまとめて訪れる。 主人公は無事に帰還したあと、数年前に失った仲間への悲しみが突然届き、すでに変わってしまった日常の中でそれを受け取る。

本文

 火星航路から帰還した者は、港で泣いてはいけない。

 正確には、泣けない。

 宇宙船しらせの乗組員十二名は、地球周回港の白い通路を、訓練通りの歩幅で進んだ。報道カメラが並び、家族がガラス越しに手を振っている。拍手。歓声。国家宇宙庁長官の笑顔。だが、綾瀬澪の胸は静かだった。

 静かすぎて、まるで他人の帰還式に立ち会っているようだった。

「澪!」

 弟の航が、面会ゲートの向こうで両手を上げた。五年前は高校生だったのに、今は肩幅が広くなっている。澪は笑った。笑う操作はできる。喜びの表情も、声の明るさも、訓練で身につけた。

「ただいま」

 弟に抱きつかれても、心は動かなかった。

 それは異常ではない。長距離航行では、感情遅延薬ラグを服用する。恐怖、怒り、悲嘆、強い歓喜。判断を鈍らせる感情反応を神経内の一時領域に保存し、任務終了後に少しずつ解放する薬だ。

 宇宙では、感情の一秒が命取りになる。

 だから澪たちは、五年間、泣くべきときに泣かなかった。

 笑うべきときにも、本当には笑わなかった。

 帰還後三日目、澪は自宅の洗面台で歯を磨いているとき、突然、爆発音を思い出した。

 いや、思い出したのではない。

 届いた。

 火星軌道投入の七か月前、外殻修理中に微小隕石群が船を叩いた。警報。赤いランプ。通信に混じる誰かの荒い息。船外活動中だった副船長の椎名が、破損したアンテナを手で押さえたまま、澪に叫んだ。

「今、切り離せ!」

 澪は切り離した。

 アンテナごと、椎名を。

 歯ブラシが洗面台に落ちた。

 胸の奥から、遅れてきた恐怖が噴き上がる。膝が崩れ、床の冷たさが頬に触れた。五年前に感じるはずだった恐怖が、今、澪の体を占領した。

 弟が扉を叩いた。

「姉ちゃん、大丈夫?」

 大丈夫ではなかった。

 だが澪の口は、訓練で覚えた言葉を選んだ。

「少し、ラグが来ただけ」

 帰還者外来では、医師が淡々と説明した。

「解放が早いですね。通常は軽い感情から戻ります。懐かしさ、安堵、軽い不満。それから強いものへ移る」

「椎名副船長の件が来ました」

 医師の指が止まった。

「それは、かなり後に来るはずです」

「順番が壊れている?」

「可能性があります。澪さん、帰還前の最終投薬ログに欠損があります」

 澪は眉をひそめた。

「欠損?」

「《しらせ》の医療AIが、最後の三か月分の感情バッファを一部隔離しています。理由は不明。宇宙庁は、機密任務に関わる自動処理だと説明しています」

 機密任務。

 澪は五年間の航路を思い返そうとした。火星へ行き、資源衛星の調査を行い、帰ってきた。それだけのはずだった。だが、帰還前の三か月だけ、記憶の手触りが薄い。日誌はある。映像もある。自分が何をしたかはわかる。

 何を感じなかったのかが、わからない。

 その夜、澪は椎名の遺族を訪ねた。

 椎名の妻、佐和子は、古い団地の一室で澪を迎えた。仏壇には、宇宙服姿の椎名の写真が置かれていた。

「泣けるようになった?」

 佐和子は、茶を出しながら聞いた。

「少しずつ」

「じゃあ、まだ本当には謝れないのね」

 澪は湯飲みを見つめた。

「すみません」

「その言葉、宇宙庁の人も言った。訓練された声で」

 胸の奥で何かが揺れた。怒りだ。だが、それも遅延しているのか、今のものなのかわからない。

 佐和子は仏壇の引き出しから、小さな記録媒体を出した。

「夫から、あなた宛て」

「私に?」

「帰還したら渡してくれって。死ぬ前じゃない。出発前に預けていったの」

 媒体には、椎名の音声が残っていた。

《澪。これを聞いてるなら、俺はたぶん戻らなかったんだろう。まず、謝るな。船外で何かあったら、切り離せと俺は言う。お前は命令に従う。それでいい》

 そこで一度、椎名は笑った。

《問題はそのあとだ。ラグは便利だが、感情を消す薬じゃない。返済を先送りする薬だ。宇宙庁は最近、帰還者の強い罪悪感を管理しようとしている。世論対策だ。英雄が泣き崩れる映像は困るらしい》

 澪は顔を上げた。

《もし俺が死んで、お前が何も感じないなら、疑え。感じないことを疑え。悲しみは故障じゃない。持って帰るべき荷物だ》

 音声はそこで終わっていた。

 翌朝、澪は宇宙庁の帰還者報告会に出席した。会場には記者が集まり、長官が誇らしげに成果を語っていた。

「《しらせ》は、人類の未来を切り開く象徴です。乗組員は極限環境下で冷静な判断を下し、任務を完遂しました」

 澪の端末に、警告が出た。

 《感情バッファ異常解放。医療室へ移動してください。》

 無視した。

 次の瞬間、椎名を切り離した直後の感情が来た。

 音が消えた。

 冷たい操縦桿。震える指。通信が途切れる寸前、椎名が言った最後の言葉。

「よくやった」

 澪は壇上の椅子から立ち上がった。

 記者たちのカメラが向く。

「私は、冷静だったのではありません」

 長官が目を細めた。

「綾瀬飛行士、質疑は後ほど」

「薬で、恐怖を後回しにしていただけです。悲しみも、罪悪感も」

 会場がざわつく。

「帰還前の三か月分の感情ログが隔離されています。私たちは何を感じないようにされたんですか」

 長官の顔から笑みが消えた。

 そのとき、会場後方で別の乗組員が倒れた。機関士の宇田だった。彼は床に膝をつき、頭を抱えながら叫んだ。

「子どもたちの声だ! 火星衛星の中継基地に、救難信号があった!」

 澪の血が冷えた。

 帰還前の三か月。薄い記憶。機密任務。

 宇田の叫びに呼応するように、澪の中で隔離されていた感情が裂けた。

 暗い管制室。火星衛星フォボスの裏側。通信ノイズに混じる、細い声。

《こちら民間移民船ハルカ。子どもが四名。酸素残量、六時間》

 宇宙庁からの命令。

《任務優先。救助は不可能。記録を封鎖せよ》

 澪はそのとき、反対した。椎名なら助けに行ったと言った。だが感情は遅延され、怒りも恐怖も正義感も薄い膜の向こうに押し込まれていた。計算結果だけが残った。

 燃料不足。救助成功率十八パーセント。地球帰還成功率低下。

 彼女たちは、救難信号を置いて帰った。

 澪は壇上のマイクをつかんだ。

「フォボス裏側で、民間船の救難信号を受信しました。宇宙庁は記録を封鎖し、乗組員の感情ログを隔離しました」

 長官が叫んだ。

「その発言は国家機密に抵触する!」

「子どもたちは、機密じゃない」

 会場の空気が変わった。

 記者の一人が立ち上がる。

「救難信号の記録はありますか?」

 澪は首を振った。ない。記憶だけだ。遅れて届いた感情だけだ。

 そのとき、佐和子が会場に入ってきた。手には椎名の古い端末があった。

「あります」

 椎名は出発前から宇宙庁を疑っていた。船内AIの裏に、独立記録領域を仕込んでいた。死んだあとも、彼の端末は《しらせ》の封鎖ログを受信し続けていた。

 救難信号が、会場に流れた。

 子どもの声がした。

 澪はその場で泣いた。

 港で泣いてはいけない。帰還者は冷静でなければならない。英雄は顔を上げていなければならない。

 そんな規則は、もうどうでもよかった。

 報告会は中止され、宇宙庁は調査委員会を設置した。世論は荒れ、長官は辞任した。フォボス裏側の民間船は、すでに沈黙していた。生存者はいなかった。

 それでも、救難信号の最後には、子どもの声で歌が残っていた。

 澪は何度も聞いた。聞くたびに、遅れていた悲しみが少しずつ現在に追いついた。

 一か月後、帰還者外来で医師が言った。

「感情解放は安定してきました。ただ、完全に元通りにはなりません」

「元通りって、どこですか」

 医師は答えられなかった。

 澪は宇宙庁を辞めた。代わりに、帰還者とその家族のための相談窓口で働き始めた。泣けない人。急に怒り出す人。何年も前の歓喜に突然笑い出す人。感情の時差に取り残された人たちが、そこへ来た。

 澪は彼らに、急がなくていいと言った。

 遅れた感情は、遅れてでも届く。

 届いたものを、なかったことにしなくていい。

 ある日、佐和子が相談所を訪ねてきた。仏壇にあった椎名の写真を一枚、澪に渡した。

「夫が、あなたに持っていてほしいって」

 写真の裏には、椎名の字で短く書かれていた。

 《帰ったら、泣け。》

 澪は写真を胸に当てた。

 その悲しみは、もう五年前のものではなかった。

 今ここにある、自分のものだった。

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