記憶の天気予報
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明日どんな記憶を思い出すか予報される時代。 主人公は「明日、あなたは最悪の日を思い出します」という通知を受ける。 忘れていた事故、自分が加害者だった過去が、少しずつ近づいてくる。
本文
朝七時、枕元の端末が小さく鳴った。
《本日の記憶予報をお知らせします》
佐伯律は、半分眠ったまま画面を見た。
《午前:小学校の給食。懐かしさ、弱》
《午後:三年前の雨の日。後悔、中》
《深夜:最悪の日。危険度、特大》
律は一気に目が覚めた。
記憶予報は、脳内の想起パターンを予測するサービスだ。人は一日の中で、無数の記憶を勝手に思い出す。昔の失敗、好きだった人の声、もう会えない家族の手。予報アプリ《メモリウェザー》は、それを天気のように知らせてくれる。
嫌な記憶に備えるため。
良い記憶を逃さないため。
そう宣伝されていた。
だが「最悪の日」という表示を見たのは初めてだった。
詳細を開こうとすると、赤い警告が出た。
《この記憶は未処理領域にあります。閲覧には医療機関の同席を推奨します》
律は端末を伏せた。
未処理領域。つまり、自分が忘れている記憶。
仕事場の区役所では、午前中ずっと給食の匂いがした。実際には、窓口の向こうで老人が濡れた傘を畳み、隣の席の同僚がコンビニのコーヒーを飲んでいるだけだ。それなのに律の頭には、小学校のアルミ食器とカレーの匂いが浮かんでいた。
予報通りだった。
「顔色悪いぞ」
同僚の真鍋が、申請書の束を置いた。
「記憶予報、見た?」
「毎朝見る。今日は『初任給で母親に寿司を奢った日』だって。昼休みに泣く予定」
「最悪の日って出たことある?」
真鍋の手が止まった。
「ない。危険度は?」
「特大」
「休め」
「もう来てる」
「帰れ」
律は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「三年前の雨の日って、何か知ってる?」
真鍋は一瞬だけ目をそらした。
それを律は見逃さなかった。
「知ってるのか」
「俺からは言えない」
「なんで」
「お前が、言うなって言ったから」
午後三時、予報通り雨が降り出した。
律の頭に、三年前の景色がにじんだ。濡れた横断歩道。黄色い傘。ブレーキ音。割れたスマートグラス。誰かの叫び声。
律は窓口の椅子から立ち上がった。
「早退します」
外に出ると、雨粒が顔に当たった。その冷たさで、記憶がさらに近づいてくる。黄色い傘を持っていたのは、妹の未央だった。高校二年。律より十歳下で、いつも端末の充電を忘れる子だった。
未央は三年前に死んだ。
それは知っている。交通事故。雨の日。横断歩道。
だが、それが「最悪の日」ではないのか。
律は、事故現場だった交差点へ向かった。花はもう供えられていない。信号機は新しくなり、歩道のタイルも張り替えられていた。街は、悲劇を舗装するのがうまい。
端末が震えた。
《記憶接近。危険度、大》
律は歩道橋の下で立ち止まった。
未央は、事故の直前、誰かと通話していた。
その相手は、律だった。
頭の奥で、未央の声がした。
《お兄ちゃん、今いい?》
《あとにして。会議中》
《すぐ終わるから》
《あとにしろって》
そこで記憶は途切れた。
律はガードレールを握った。吐き気がした。
自分は、妹の最後の電話を切ったのか。
いや、それだけなら忘れる必要があるだろうか。ひどい後悔だ。だが、もっと奥に何かある。
端末に、見知らぬ番号から着信が入った。
「佐伯律さんですね」
女の声だった。
「誰ですか」
「メモリウェザー社、記憶安全管理部の柊です。本日深夜、あなたに危険度特大の記憶想起が予測されています。こちらで抑制処理が可能です」
「どうして俺の番号を」
「緊急安全規約に基づく連絡です」
「抑制って、忘れさせるってことですか」
「正確には、想起を先送りします」
律は笑った。雨の音で、その笑いはすぐ消えた。
「先送りした記憶は、どこへ行くんです」
「安全な時期に再配信されます」
「記憶を宅配便みたいに言うな」
電話の向こうで、柊は沈黙した。
「あなたは三年前にも、抑制処理を受けています」
律の指が冷たくなった。
「俺が頼んだんですか」
「はい」
「何を忘れた」
「本人確認後でなければ開示できません。今から弊社クリニックへ来てください。深夜まで時間がありません」
律は電話を切った。
行くべきか。行けば、安全に忘れられる。少なくとも今夜は壊れずに済むかもしれない。
だが、真鍋の言葉が引っかかっていた。
お前が、言うなって言ったから。
律は真鍋に電話した。
「三年前、俺は何を頼んだ」
真鍋は長く黙った。
「未央ちゃんの事故のあと、お前は壊れかけてた。毎日、事故現場に行って、信号を見てた。ある日、メモリウェザーの試験運用を見つけて、記憶抑制を受けるって言った」
「何を忘れた」
「俺は知らない。本当に。ただ、お前は処理の前に俺へ言った。もし予報に『最悪の日』が出ても、俺に説明させるなって。自分で思い出すからって」
律は空を見上げた。雨雲の向こうに、夜が近づいている。
「なんでそんな面倒なことを」
「お前は言ってた。忘れたいけど、いつか罰を受けたいって」
罰。
律は端末を握りしめた。
夜十一時四十分。律は自宅に戻った。部屋はきれいすぎた。未央の写真もない。事故の記事もない。三年前から、律は妹の痕跡を生活から消していた。
端末が赤く点滅する。
《深夜の記憶想起まで、あと二十分》
柊から何度も着信があった。律は出なかった。
十一時五十七分。
部屋の照明が、なぜかちらついた。
十一時五十九分。
雨の匂いがした。
午前零時。
記憶が開いた。
三年前の夜、律は事故現場にいた。
未央はまだ生きていた。道路に倒れ、黄色い傘が遠くに転がっている。律は彼女の手を握っていた。救急車のサイレンが近づいている。
「お兄ちゃん」
未央は小さく言った。
「電話、怒ってごめん」
律は泣きながら首を振った。
「俺が悪い。俺が切ったから」
「違う」
未央は、血のついた指で律の手を握り返した。
「私、赤信号で渡ったの。スマホ見てた。お兄ちゃんのせいじゃない」
律は息をのんだ。
「でも、私のせいにすると、お母さんが壊れる。運転手さんも、きっと壊れる。だから」
「やめろ」
「お兄ちゃん、覚えてて」
未央の声は、雨に溶けそうだった。
「誰か一人のせいにしないで」
それが、最悪の日の正体だった。
律は、自分が加害者だった過去を忘れていたのではない。
妹の最後の願いを、忘れていた。
事故のあと、世間は運転手を責めた。雨の日に速度を落とさなかった男。若者をひいた中年会社員。ニュースは彼の顔を映し、ネットは家族まで追い詰めた。
律は真実を知っていた。
未央が赤信号で渡ったことを。彼女がスマホを見ていたことを。運転手だけの罪ではなかったことを。
だが律は言わなかった。
言えば、未央が責められると思った。母が壊れると思った。自分の怒りの置き場がなくなると思った。
そして運転手の人生が壊れていくのを、黙って見ていた。
それが、罰だった。
記憶から戻ると、律は床に倒れていた。端末には柊からのメッセージが表示されていた。
《抑制処理はまだ可能です。苦痛を消せます》
律は震える指で返信した。
《消さない》
翌朝、律は区役所を休み、警察署へ向かった。三年前の事故について、新たに話したいことがあると告げた。担当者は困惑したが、律はすべて話した。
未央の最後の言葉。
赤信号。
自分が黙っていたこと。
法的に何が変わるかはわからないと言われた。時間が経ちすぎている。証拠も少ない。だが律は、運転手だった男の連絡先を教えてほしいと頼んだ。もちろん教えてもらえなかった。
代わりに、手紙を預けた。
謝罪では足りない。許してほしいとも書けない。ただ、三年前に言うべきだったことを書いた。
事故は、あなた一人の罪ではありませんでした。
未央は、誰か一人のせいにしないでと言いました。
私は、それを守りませんでした。
午後、真鍋が家に来た。コンビニの弁当を二つ持っていた。
「思い出したのか」
「うん」
「大丈夫か」
律は少し考えた。
「大丈夫ではない。でも、忘れてたときよりはましだ」
真鍋は黙って弁当を温めた。
夕方、メモリウェザーから通知が来た。
《明日の記憶予報》
律は迷った。見るのが怖かった。
それでも開いた。
《午前:未央さんとの夏祭り。懐かしさ、強》
《午後:謝罪の手紙を書いた日。痛み、中》
《夜:眠れない可能性があります》
画面の下に、見慣れない表示があった。
《注意:記憶は天気ではありません。避けることだけが安全とは限りません》
律は笑った。
きっと柊が、誰かが、システム文言を変えたのだろう。あるいは最初からあったのに、今まで読んでいなかっただけかもしれない。
夜、律は押し入れの奥から、未央の写真を出した。
黄色い傘を差して、こちらに笑っている。
律は写真立てを机に置いた。
明日は、夏祭りの記憶が来る。
それはきっと痛い。
けれど律は、端末の通知を切らずに眠った。
忘れないためではない。
思い出したとき、逃げないために。
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