母を復元しないで
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
人類は死ぬ直前の意識をクラウドに保存できるようになった。 しかし主人公の亡き母のバックアップだけが、毎年少しずつ「違う記憶」を語り始める。 調べるうちに、母は死後ではなく生前から誰かに上書きされていた可能性が出てくる。
本文
母は、毎年一度だけ帰ってくる。
命日になると、リビングの壁に白い光が灯り、クラウド霊園から母の人格バックアップが接続される。生前最後の二十四時間から抽出された意識の写し。声も、表情も、怒ると左眉だけ上がる癖も、そのままだ。
「遼、また痩せた?」
母は今年も、最初にそう言った。
「去年も同じこと言った」
「去年の私は、今年のあなたを知らないもの」
壁の中の母は笑った。
父は台所で湯呑みを三つ出していた。母はもう飲めないのに、父は毎年、三つ出す。遼はそれをやめろと言えなかった。
母が死んで七年になる。脳梗塞だった。倒れる直前、母は市の終末バックアップ制度に登録していた。遺族は年に一度、三十分だけ故人と話せる。最初の年、遼は泣いた。二年目は怒った。三年目からは、母と天気の話をするようになった。
だが今年、母は天気の話をしなかった。
「遼、地下室の鍵はまだ持ってる?」
父の湯呑みが、流しで小さく鳴った。
遼は母を見た。
「地下室なんて、うちにないよ」
母は少し首を傾げた。
「そう。じゃあ、まだ消されてないのね」
リビングの空気が止まった。
「母さん、今なんて?」
母の像が一瞬だけ乱れた。ノイズが頬を走り、声が低くなる。
「遼、私が私でなくなる前に、あなたに渡したものがある」
父が立ち上がった。
「接続を切る」
「父さん?」
「今日は調子が悪い。システムの不具合だ」
父は壁の端末へ手を伸ばした。母はその父を見た。七年前と同じ、優しい目ではなかった。もっと遠くから、すべてを知っている人の目だった。
「あなたはまだ、あの人を守っているの」
父の指が停止ボタンに触れた瞬間、母の像は消えた。
沈黙の中で、湯気だけが立っていた。
その夜、遼は眠れなかった。母の言葉が頭の中で繰り返される。
私が私でなくなる前。
地下室の鍵。
渡したもの。
家に地下室はない。少なくとも、遼は知らない。だが父の反応は、不具合を見た人間のものではなかった。秘密を見られた人間の顔だった。
翌朝、遼は会社を休み、実家の物置を調べた。古いアルバム、壊れた掃除機、母が使っていた裁縫箱。裁縫箱の底に、薄い金属板が貼られていた。
はがすと、小さな鍵が出てきた。
鍵には、番号が刻まれている。
B-03。
遼は家中を探した。床下収納、押し入れ、庭の物置。鍵穴は見つからない。夕方になって、廊下の奥にある古い鏡台の裏を外すと、壁に小さな認証端末が隠されていた。
鍵を差し込む。
壁が低い音を立てて開いた。
階段があった。
遼は懐中電灯をつけ、地下へ降りた。古いコンクリートの匂い。狭い部屋の中央に、冷却ケースが一つ置かれている。ケースの中には、母の名前が書かれた記憶媒体があった。
《原本バックアップ》
遼の手が震えた。
クラウド霊園にある母のデータは、原本ではないのか。
背後で階段がきしんだ。
「見つけたか」
父が立っていた。
遼は記憶媒体を握りしめた。
「説明して」
父はしばらく黙っていた。地下室の白い灯りが、父の顔の皺を深く見せた。
「お前の母さんは、死ぬ前に変わった」
「病気で?」
「違う。書き換えられた」
父は壁にもたれた。
「当時、母さんは市の福祉AI導入に反対していた。高齢者の判断能力を点数化して、施設入所や医療優先度を決める仕組みだ。母さんは内部資料を見つけた。低所得者の点数が意図的に低く出るよう調整されていた」
「母さんは、ただの市役所職員だっただろ」
「だからこそ見つけた。現場の苦情を処理していたから」
遼は、母が夜遅くまで端末に向かっていた姿を思い出した。あの頃、母は疲れていた。よく忘れ物をした。父はそれを更年期だと言っていた。
「企業は母さんを黙らせようとした。脅しじゃない。もっと静かな方法だ。医療用の認知補助パッチに、記憶誘導を仕込んだ」
「そんなこと、できるのか」
「できた。少しずつ、怒りの記憶を薄め、疑問を別の不安に置き換える。母さんは自分で気づいた。だから原本バックアップを作って、ここへ隠した」
遼は記憶媒体を見た。
「じゃあ、クラウド霊園の母さんは」
「書き換えられた後の母さんだ」
「なんで黙ってた」
父は目を閉じた。
「裁判を起こそうとした。でも、証拠が足りなかった。お前は高校生だった。企業の弁護士は、お前の進学先まで調べていた」
「それで母さんを、偽物のままにしたのか」
「偽物じゃない」
父の声が荒くなった。
「あれも、お前の母さんだ。書き換えられても、病気で倒れても、最後までお前を心配していた」
遼は言い返せなかった。
そのとき、地下室の端末が起動した。母の声が流れる。
《遼。これを聞いているなら、私は失敗したのね》
原本媒体に残された自動メッセージだった。
《怖いことを言います。私は、自分の心が少しずつ変わっていくのを感じています。怒っていたことを、なぜ怒っていたのか忘れていく。許せないと思ったことを、まあ仕方ないと思い始める。それが一番怖い》
遼は息を止めて聞いた。
《もし私のバックアップが、あなたに地下室のことを話したなら、それは上書きが完全ではなかったということ。私はまだ、どこかで抵抗している》
音声の向こうで、母が小さく笑った。
《お願いがあります。私を、元に戻そうとしないで》
遼は顔を上げた。
《原本の私と、最後の私は、どちらも私です。片方を正しい私として選べば、もう片方を殺すことになる。あなたにそんなことをさせたくない》
父が顔を覆った。
《でも、私に起きたことは明るみに出して。人の記憶を、貧しさや立場の弱さにつけ込んで書き換える社会にしないで。私は、私を取り戻したいんじゃない。次の誰かを守りたい》
音声はそこで途切れた。
翌日、遼は原本バックアップを市民監査ネットワークへ持ち込んだ。父は反対しなかった。ただ、古い湯呑みを一つ、鞄に入れた。母のものだった。
調査はすぐには進まなかった。企業は偽造だと主張し、市は記録の保存期限を理由に資料を出し渋った。だが、原本バックアップには、母が集めた内部資料と、記憶誘導パッチの使用ログが残っていた。
そして、母のように少しずつ「穏やか」になった告発者たちが、次々に名乗り出た。
半年後、クラウド霊園から連絡が来た。
《故人データに未統合の原本が確認されました。統合処理を行いますか》
遼は端末の前で長い時間迷った。
統合すれば、母は真実を知る。だが、七年間、遼に「痩せた?」と言い続けた母は変わるかもしれない。
命日、リビングの壁に母が現れた。
「遼、また痩せた?」
父が湯呑みを三つ置いた。
遼は母を見た。
「母さん、聞いてほしいことがある」
母は少しだけ首を傾げた。
「地下室のこと?」
遼の胸が詰まった。
統合処理は、まだしていない。
それでも母は、覚えていた。
「うん」
「じゃあ、話して」
遼は話した。原本のこと。企業のこと。裁判のこと。母が残した願いのこと。
母は黙って聞いていた。途中で何度か像が乱れた。書き換えられた記憶と、残っていた抵抗が、壁の中でぶつかっているようだった。
話し終えると、母は父を見た。
「あなた、ひどい顔」
父は笑いながら泣いた。
「七年分だ」
母は遼に向き直った。
「統合して」
「いいの?」
「怖い。でも、知らないまま優しいだけの私は、きっとあなたを守れない」
遼は端末を操作した。
母の像が白くほどける。リビングの壁に、若い頃の母、怒っている母、疲れた母、最後の日の母が重なった。ノイズが走り、声がいくつも聞こえた。
そして、静かになった。
母はそこにいた。
前より少し険しい目で、前と同じように左眉を上げて。
「遼」
「なに」
「痩せた?」
遼は笑った。父も笑った。母も笑った。
三十分の接続時間が終わる直前、母は言った。
「来年は、事件の続きを聞かせて。私の死後のことを、私抜きで終わらせないで」
光が消えた。
リビングには、湯呑みが三つ残った。
遼は母の湯呑みに、冷めた茶を少しだけ注ぎ足した。
死者は戻らない。
だが、奪われた声がもう一度立ち上がることはある。
遼は端末を開き、監査ネットワークから届いた新しい証言に返信した。
母が最後に残したバックアップは、母を過去に閉じ込めるためのものではなかった。
これから起きることを変えるための、最初の声だった。
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