月面の忘れ物係
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
月面観光が一般化した未来。主人公は月に置き去りにされた遺失物を回収する仕事をしている。ある日、まだ建設されていないはずの基地の鍵と、未来の日付が入った子どもの靴を見つける。
本文
月で一番多い忘れ物は、手袋だ。
観光客は地球を背景に写真を撮るとき、分厚い外装手袋を外したがる。もちろん素手ではない。内側には薄い圧力グローブがある。それでも規則違反だ。係員が注意し、客は慌てて手袋を戻す。そのとき一つ、月面に落としていく。
忘れ物係の相沢ユナは、そういう手袋を毎日拾っている。
月面観光港アルテミス東区。透明ドームの外には、白い砂と黒い影がどこまでも続く。ユナの仕事は、観光客が残した物を回収し、分類し、地球へ返送することだ。手袋、記念メダル、婚約指輪、子どものぬいぐるみ。たまに、酸素残量を知らせる警告タグ。
「忘れ物は、その人の油断の形だ」
先輩の牧野はよくそう言った。
ユナはそれを聞くたび、少し嫌な気分になった。忘れ物には、油断だけでなく未練もある。月に置いていきたいものと、置いていくつもりのなかったものは、似ているようで違う。
その日、ユナは東区外縁の未整備エリアで、子どもの靴を見つけた。
小さな赤い靴だった。
月面用ではない。地球の公園で履くような布のスニーカー。真空と低温にさらされているはずなのに、劣化していない。靴底には、乾いた泥がついていた。
ユナは回収アームで靴をつかみ、識別タグを探した。
内側に名前が書かれていた。
《相沢ミナ》
ユナは呼吸を忘れた。
ミナは、ユナの妹だ。
ただし、まだ六歳で、地球の千葉にいる。月に来たことは一度もない。
靴の横には、小さな金属鍵が落ちていた。刻印は、LUNA-NORTH HAB 07。
北居住棟七番。
そんな施設は存在しない。少なくとも現在の月面都市計画では、北区はまだ予算審議中だ。建設開始予定は二年後。
ユナは靴と鍵を回収箱に入れ、基地へ戻った。
遺失物管理AIは、淡々と結果を出した。
「該当なし。存在しない施設の鍵です」
「靴は?」
「登録なし。素材年代測定を推奨します」
「名前は」
「相沢ミナ。地球居住者一名と一致」
ユナは端末を握った。
「私の妹」
AIは沈黙した。人間なら気まずそうにする場面だが、AIはただ次の処理を待っている。
ユナはすぐに地球へ通信をつないだ。往復で三秒の遅延がある。画面に母が映る。
「ユナ? こんな時間にどうしたの」
「ミナは?」
「寝てるけど」
「靴、なくしてない?」
母は怪訝な顔をした。画面が少し遅れて揺れる。
「靴?」
「赤いやつ」
「この前、サイズが小さくなって捨てたわよ」
「いつ」
「先週。どうしたの」
ユナは答えられなかった。
背後から牧野の声がした。
「その靴、俺にも見せろ」
通信を切ると、牧野は回収箱をのぞき込んだ。普段は冗談ばかり言う男だが、その顔は硬かった。
「また出たか」
「また?」
牧野は管理室の扉を閉めた。
「忘れ物係には、昔から変なものが回ってくる。まだ建ってない売店のレシート。閉鎖されてないはずの区画の避難カード。来年発売の端末」
「なんで黙ってたんですか」
「言っても、上は観光客のいたずらで処理する。月面都市で時間異常なんて発表したら、保険会社が逃げる」
「時間異常?」
牧野は鍵を持ち上げた。
「月は、地球より時間の流れが少し違う。普通は計算で補正できる程度だ。だが地下のヘリウム3採掘孔で、重力波実験の残骸が見つかったことがある。誰が作ったかは公表されてない」
「未来から落ちてきたってことですか」
「未来で誰かが、過去へ捨てたのかもしれない」
ユナは靴を見た。
捨てた?
ミナの靴を?
その夜、ユナは規則を破った。北区予定地へ向かう月面ローバーを、点検名目で持ち出した。牧野は止めなかった。代わりに、古い紙の地図を渡した。
「七番居住棟が建つ予定地だ。何かあったら、通信を切るな」
「一緒に来ないんですか」
「俺が行くと、君を止めなきゃならなくなる」
ローバーは、月の夜を進んだ。地球が空に青く浮かんでいる。ユナは子どもの頃、ミナに月の写真をよく送った。ミナはいつも、月にはうさぎがいるのかと聞いた。ユナはそのたび、いるよ、忘れ物を拾ってる、と答えた。
北区予定地には、まだ何もないはずだった。
だが、クレーターの縁に扉があった。
金属の扉。半分だけ砂に埋もれ、表面にはLUNA-NORTH HAB 07と刻まれている。
ユナは鍵を差し込んだ。
扉が開いた。
中は、未来の廊下だった。
壁には非常灯が点滅し、空気が薄く漏れている。床に、まだ乾いていない足跡がある。小さな靴の跡。赤い靴と同じサイズ。
通信が乱れた。
「ユナ、聞こえるか。そこは存在しない区画だ。位置情報が飛んでる」
「牧野さん、廊下があります」
「戻れ」
ユナは戻らなかった。
廊下の奥で、子どもの泣き声がした。
走る。低重力で足が浮き、壁に肩をぶつける。角を曲がると、展望室のような部屋に出た。割れた窓の向こうに、月面が見える。非常シールドが半分だけ閉じ、空気の漏出を抑えている。
部屋の中央に、女の子がいた。
十歳くらい。宇宙服のヘルメットを抱え、片足だけ靴を履いていない。
「ミナ」
女の子が振り向いた。
六歳の妹より少し背が高い。だが目は同じだった。
「お姉ちゃん?」
ユナの喉が詰まった。
「どうしてここに」
「わかんない。避難してたら、床が光って、靴が消えて、それから」
未来のミナ。
四年後か、五年後か。北区居住棟が完成し、ミナが月に来て、事故に遭う。
部屋の奥で警報が鳴った。
《酸素残量、八分》
ユナはミナにヘルメットをかぶせた。
「出口へ行くよ」
「だめ。みんながまだいる」
「みんな?」
ミナは隣の扉を指した。
居住区の保育室だった。中には、子どもが三人と保育士が一人、倒れた棚に閉じ込められていた。シールド扉が歪み、手動では開かない。
ユナは工具を取り出した。忘れ物係の装備は、観光客の落とし物を拾うためのものだ。重い扉を開けるためのものではない。それでも、鍵をこじ開け、アームを差し込み、力をかける。
通信に牧野の声が割り込んだ。
「ユナ、そこの事故記録を見つけた。未来のログだ。北居住棟七番、開業初日にシールド不具合。死者五名」
「今、五人います」
「聞け。ログでは、事故原因は建材の微細亀裂だ。だが、今なら変えられるかもしれない。そこにある制御盤の黒い箱を抜け」
「抜いたら?」
「未来の事故原因が消える。たぶん、その区画も消える」
ユナは扉を見た。中で子どもが泣いている。ミナがユナの袖をつかんだ。
「消えたら、私は?」
ユナは答えられなかった。
未来のミナがここで消えれば、今のミナは助かるのか。それとも、このミナは別の可能性として失われるのか。
忘れ物は、その人の油断の形。
違う。
忘れ物は、戻れる場所を信じた証拠だ。
ユナは制御盤へ走り、黒い箱をつかんだ。
「ミナ、聞いて」
「なに」
「地球に帰ったら、赤い靴は捨てないで。お姉ちゃんに送って」
「なんで」
「私が、あなたを見つける目印になる」
ミナは泣きながら頷いた。
ユナは黒い箱を引き抜いた。
光が爆ぜた。
次の瞬間、ユナは月面に倒れていた。目の前には、何もないクレーターが広がっている。扉も廊下もない。手には、焦げた黒い箱だけが残っていた。
通信が戻る。
「ユナ! 返事しろ!」
「生きてます」
「そこに施設は?」
「ありません」
「子どもは」
ユナは目を閉じた。
「いません」
基地へ戻ると、牧野が待っていた。ユナは黒い箱を渡した。箱には、まだ製造されていない企業のロゴと、四年後の日付が刻まれていた。
「これで止められる」
牧野は言った。
「北区計画を?」
「少なくとも、この部品は使わせない」
ユナは回収箱を見た。
赤い靴は、まだそこにあった。
翌日、地球から小包が届いた。差出人は母。中には、先週捨てたはずの赤い靴が入っていた。
メモが添えられている。
《ミナが、やっぱり捨てないでって泣いたので送ります。お姉ちゃんにあげるそうです》
ユナは靴を抱きしめた。
四年後のミナが覚えているのか、今のミナが偶然そう言ったのかはわからない。未来は完全には消えなかったのかもしれない。あるいは、消えたからこそ靴だけが残ったのかもしれない。
数週間後、北区居住棟計画は見直しになった。建材メーカーの不正検査が発覚し、開業は無期限延期された。発表資料の片隅に、ユナが提出した黒い箱の分析結果が小さく載っていた。
忘れ物係の仕事は変わらない。
ユナは今日も月面で手袋を拾う。婚約指輪を拾う。子どものぬいぐるみを拾う。観光客は相変わらず油断し、月は相変わらず何も言わない。
ただ、ユナのロッカーには赤い靴が置いてある。
タグには、こう書いた。
《相沢ミナ。返却不要。未来からの預かり物》
夕方、ユナは地球へ通信をつないだ。
画面の向こうで、六歳のミナが手を振る。
「お姉ちゃん、月にうさぎいた?」
ユナは少し考えた。
「いたよ」
「何してた?」
「忘れ物を拾ってた」
「誰の?」
ユナはロッカーの赤い靴を見た。
「これから来る人の」