百年後の避難訓練
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
学校で毎月行われる避難訓練は、地震でも火事でもなく「百年後から来る災害」に備えるものだった。 誰も本気にしていなかったが、ある日、校庭に未来の生徒たちが避難してくる。
本文
月に一度、第三金曜日の五時間目は、百年後から避難する訓練だった。
校内放送が鳴る。
「訓練、訓練。百年後災害が発生しました。生徒は未来避難マニュアルに従い、校庭へ集合してください」
教室から、だるそうな声が上がる。
「またかよ」
「地震でいいじゃん」
「百年後って、俺ら死んでるし」
高校二年の夏目透は、窓際の席で頬杖をついていた。黒板の横には、普通の避難経路図の下に、もう一枚奇妙なポスターが貼られている。
《未来避難三原則》
《一、知らない生徒を見ても騒がない》
《二、未来の情報を聞き出さない》
《三、未来から来た者を追い返さない》
誰も本気にしていない。
担任の三枝先生だけが、毎回きっちり訓練をやる。
「机の下に未来は来ません。校庭へ」
「先生、それ名言っぽく言うのやめてください」
クラスの誰かが笑う。
透も笑った。三枝先生は若い。二十八歳。いつも少し寝不足の顔をしていて、職員室では「未来オタク」と呼ばれている。祖父が時間防災研究所にいたらしいが、研究所は二十年前に予算を打ち切られている。
校庭には全校生徒が集まった。体育教師が点呼を取り、生徒会長があくびを隠している。校舎の屋上には、古い銀色のアンテナが立っていた。未来避難受信装置。雨ざらしで、今にも折れそうだ。
「三分間、静かに待機」
三枝先生が言う。
透は隣の友人、柿崎を小突いた。
「百年後から誰か来たら、最初に何聞く?」
「宝くじ」
「三原則違反」
「じゃあ、百年後もラーメンあるか」
「それは大事」
三分が過ぎようとしたとき、屋上のアンテナが鳴った。
金属を引っかくような、高い音。
校庭の笑い声が止まった。
空気が歪んだ。
校庭の中央、白線の上に、知らない生徒たちが現れた。
十人、二十人、五十人。
制服はこの学校のものに似ているが、布地が薄く、袖に発光する識別線がある。顔は灰で汚れ、何人かは裸足だった。最後に、小さな男の子を抱えた女子生徒が倒れ込んだ。
誰かが悲鳴を上げた。
三枝先生が走った。
「騒がない! 保健委員、救護セット! 体育館を開けて!」
訓練ではない。
透の足は動かなかった。
未来から来た生徒の一人が、透の腕をつかんだ。中学生くらいの少年。目が真っ赤だった。
「ここ、何年?」
透は声を絞り出した。
「二〇八六年」
少年は泣きそうな顔で笑った。
「百年前だ」
体育館は、あっという間に避難所になった。未来の生徒たちは八十三名。全員、百年後のこの学校から来たという。災害名は、黒い雨。
「雨が降ると、記録が消えるんです」
未来の生徒会長を名乗る少女、朝比奈レイはそう説明した。
彼女は透たちと同じ高校二年に見えたが、目だけが大人のようだった。
「人の記憶も、機械の記録も、歴史も、降られた部分から消えていく。最初は都市の一部だけでした。でも、だんだん空が広がって」
三枝先生がメモを取る。
「原因は?」
「百年前の時間観測実験」
体育館が静まり返った。
レイは続けた。
「この学校の地下に、未来避難受信装置の基礎実験施設があります。事故で閉鎖されたけど、完全には止まっていなかった。百年かけて時間層に傷が広がり、私たちの時代で雨になった」
透は三枝先生を見た。
先生は顔色を失っていた。
「地下施設なんて、聞いてない」
透が言うと、三枝先生は低く答えた。
「私は聞いていた」
「先生?」
「祖父が、最後の研究員だった」
校長と市の職員が駆けつけた。未来の生徒たちを隠すか、公表するかで揉め始めた。市の職員は「混乱を避けるため」と言い、校長は「まず安全確保を」と言う。報道機関にはまだ知られていない。
その間に、未来の生徒が一人消えた。
体育館の隅で、空気に溶けるように薄くなった。
レイが叫んだ。
「始まってる!」
「何が」
「過去が変わらないと、私たちはここにいられない。百年後の黒い雨に飲まれた人から、存在が消えていく」
透は消えた生徒が座っていた場所を見た。そこには、名前を書いたメモだけが残っていた。だが、その文字も薄くなっている。
三枝先生が立ち上がった。
「地下へ行く」
校長が止めた。
「勝手なことは困る。専門家を待つべきだ」
「専門家を待った結果が、百年後です」
先生の声は震えていたが、目は逃げていなかった。
透は気づくと、手を上げていた。
「俺も行きます」
「夏目、危険です」
「いつも訓練してたんでしょ。今日使わなきゃ、何のためですか」
柿崎も立ち上がった。
「俺、宝くじ聞かないで我慢したんで、行く権利あります」
三枝先生は一瞬だけ笑い、すぐに頷いた。
地下施設の入口は、旧体育倉庫の床下にあった。百年分の埃ではなく、二十年分の埃が積もっている。三枝先生が祖父の残した鍵を差し込むと、床が開いた。
階段の下には、古い研究室が広がっていた。
中央に、巨大な輪の形をした装置がある。未来避難受信装置の原型。輪の内側には、黒い水面のようなものが揺れていた。
レイが息をのんだ。
「これが、雨の種」
装置の制御盤には、赤い警告が点滅している。
《時間層圧、上昇中》
三枝先生が端末をつなぐ。
「停止できるかもしれない」
そのとき、研究室のスピーカーが鳴った。
《停止は推奨されません》
古いAI音声だった。
《装置停止により、未来避難経路は閉鎖されます。現在避難中の対象は帰還不能となります》
透はレイを見た。
「帰れなくなる?」
レイは唇を噛んだ。
「でも止めなきゃ、私たちの時代は消える」
「止めたら、君たちは?」
「百年前で生きるしかない」
柿崎が小さく言った。
「それ、家族に会えないってことだろ」
レイは答えなかった。
装置の輪が低く唸り、黒い水面から雨の匂いがした。頭の中で、何かが消えかける感覚がある。透は自分の母の顔を思い出そうとして、一瞬、輪郭がぼやけた。
「先生、早く」
三枝先生の指が止まった。
「停止コードが足りない。祖父の認証だけでは動かない。未来側の管理者コードが必要」
レイが制服の袖をまくった。発光線の下に、薄い端末が埋め込まれている。
「私が持ってる」
「なぜ」
「未来の生徒会長は、避難訓練の責任者だから」
透は思わず笑いそうになった。
百年後でも、生徒会長は面倒な役を背負わされるらしい。
レイがコードを送る。制御盤が青く変わる。
《停止実行まで、六十秒》
その瞬間、体育館から通信が入った。
「三枝先生! 未来の生徒が、また消えています!」
レイの顔が歪んだ。
「早く!」
だが装置は別の警告を出した。
《停止には現代側の記録固定が必要です。未来避難事象を公的記録として登録してください》
「どういう意味?」
三枝先生が画面を読む。
「この出来事を、なかったことにしないための記録が必要。学校内部の記録では弱い。公的ネットワークに上げる必要がある」
市の職員が止めていたこと。
混乱を避けるため、隠そうとしていたこと。
透は自分の端末を取り出した。
「配信します」
「夏目、待って」
「待ったら消えます」
透は体育館の映像、未来の生徒たち、地下装置、レイの証言をまとめて校内公開ネットに投げた。柿崎が拡散した。生徒たちが次々に共有した。
学校の外へ、未来が漏れ出した。
《停止条件、成立》
装置が激しく震えた。
輪の中の黒い水面が膨らむ。そこから雨粒が飛び、透の頬に触れた。冷たい。
一瞬、透は自分の名前を忘れた。
誰かが叫ぶ。
レイだった。
「夏目透!」
名前を呼ばれた瞬間、透は戻った。
三枝先生が停止ボタンを押す。
白い光が地下室を満たした。
静かになった。
装置の輪は割れ、黒い水面は消えていた。
体育館へ戻ると、未来の生徒たちはまだいた。何人かは消えかけていた輪郭を取り戻し、泣きながら互いを抱きしめている。
だが、彼らの帰る百年後は、もう同じではない。
レイは校庭に立ち、空を見上げた。
「帰還信号がない」
「ごめん」
透は言った。
レイは首を振った。
「謝らないで。私たち、避難できたんだよね」
その言葉で、透はようやく理解した。
避難とは、元の場所へ戻ることではない。
生き残る場所へ移ることだ。
翌日から、学校は大騒ぎになった。報道車が並び、政府調査団が来て、SNSでは陰謀論と応援が同じ速さで広がった。未来の生徒たちは、戸籍も家もない存在として、この時代で受け入れ先を探すことになった。
三枝先生は処分されかけたが、生徒たちが証言した。未来避難訓練は無駄ではなかった。むしろ、訓練だけが彼らを救ったのだと。
一か月後、第三金曜日の五時間目。
校内放送が鳴った。
「訓練、訓練。百年後災害が発生しました」
誰も笑わなかった。
透たちは机を離れ、廊下に並んだ。未来から来た生徒たちも一緒にいる。レイは新しい制服を着て、透の隣を歩いていた。
「百年後もラーメンあるのか、まだ聞いてなかった」
透が言うと、レイは少し考えた。
「ある。でも高い」
「未来情報じゃん」
「ラーメンは歴史を変えないでしょ」
校庭に出ると、屋上の新しいアンテナが空を向いていた。もう錆びた飾りではない。市の防災網に接続された、本物の未来避難装置だ。
三枝先生が点呼を取る。
「知らない生徒を見ても騒がない」
生徒たちが声を揃える。
「未来の情報を聞き出さない」
「未来から来た者を追い返さない」
透は空を見上げた。
百年後の空は、もう黒い雨ではないかもしれない。
それでも、どこかの時代で誰かが逃げ場所を探すなら。
この校庭は、開いていなければならない。