夜に散る、永遠の旋律 ――ウィーンの石畳に刻まれた、終わらぬ物語――
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あらすじ
自分の大好きなウィーンを舞台に、大好きな吸血鬼を立たせてみたかったので……。
本文
1.霧の中の出会い
11月のウィーンは、霧を纏って眠る。
石畳の上に降り積もった霧は、ガス灯の橙色をにじませながら、街全体をひとつの夢幻のなかへと溶け込ませていく。
日本からこの街へやって来て半年が経った今も、夜のウィーンが持つその奇妙な美しさに、櫻井澪は慣れることができなかった。
コンセルヴァトリウム――ウィーン国立音楽大学の練習室を出た澪は、ヴァイオリンケースを胸に抱き、旧市街の路地へと足を踏み入れた。
時刻は深夜零時を回っている。
教授に言われた通り、ブラームスの協奏曲第2楽章の弓使いを修正するために居残っていたのだ。
「弓に魂を宿せ」──と先生はいつもおっしゃる。でも魂って、どこにあるのかしら。
澪は細い肩をすくめた。
19歳の、どこか夢見がちな目をした少女だった。黒い髪は霧に濡れ、白い頬に貼りつく 。
ウィーンの冬の冷気は、日本の冬とは違う種類の鋭さで肌を刺す。
路地の角を曲がったとき、澪はぴたりと足を止めた。
男がいた。
石壁に背を預け、両腕を組み、目を閉じている。
コートの黒が夜に溶け、白い首筋だけが浮かび上がるように光を帯びていた。
整いすぎた顔立ちは、まるで誰かが石から彫り出したかのようだ。
しかし、それ以上に澪の目を引いたのは、その男が漂わせている、言いようのない疲労の気配だった。
眠っているのではない。疲れているのだ。
骨の髄まで、何かに疲れ果てた者の静けさがそこにはあった。
「……あの」
澪は声をかけていた。
後から思えば、なぜそうしたのか自分でも分からない。
ただ、その疲れた美しさが、ブラームスの第2楽章に似ていると思ったのかもしれない。
男がゆっくりと目を開けた。
深い、紺碧の瞳だった。
夜の湖底のような色をした瞳が澪を捉えた瞬間、澪は奇妙な既視感に囚われた。
会ったことはない。あるはずがない。
それでも、この目を知っていると、体の奥の何かが囁いた。
「……珍しいな」
男は低い声で言った。流暢な日本語だった。
「この時間に、こんな場所を歩く東洋の少女は」
「日本語を、ご存知なんですか」
「少しな」
かすかに、口の端が上がった。
笑みというよりは、笑みの残滓のようなものだった。
「昔、学んだ。ずいぶん昔に──」
男の名は、ジークムント・フォン・アルテンベルクと名乗った。
2.夜ごとの邂逅
それから澪は、夜ごとその路地を通るようになった。
理由は自分に問わないことにした。
ただ、練習の帰り道にジークムントが立っていると、なぜか体の緊張がほどけた。
それだけだと思っていた。
ジークムントは多くを語らない男だった。
しかし澪が話すことには、深い川の底のような静けさで耳を傾けた。
日本のこと、音楽のこと、ブラームスへの憧れ、うまくいかない弓使いへの焦り。
澪がとりとめなく話す間、彼はただそこに在った。
ある夜、澪は訊いた。
「ジークムントさんは、何をなさってる方なんですか? お仕事とか……」
「以前は色々とやった」
彼は石畳を眺めながら答えた。
「今は、ただいる」
「ただ……いる?」
「そうだ。それだけで、ずいぶん大変なこともある」
その言葉の重さに、澪はそれ以上訊けなかった。
別の夜、ジークムントは言った。
「君のヴァイオリンを、聴いたことがある」
澪は驚いて顔を上げた。
「え?」
「大学の建物から、よく音が漏れる。ブラームスだろう。……良い音だ。まだ何かが足りないが、その足りなさが、却って切実で美しい」
「足りないものって、なんですか」
ジークムントはしばらく沈黙した。
霧が流れ、ガス灯が揺れた。
「喪失だ」と彼は言った。
「失ってしまったものへの、諦めと愛惜が同居した感情。ブラームスの音楽は、それを知った者にしか最後の扉を開かせない」
澪は黙って、その言葉を胸にしまった。
彼が何者であるかを、澪が知ったのはその翌週のことだった。
夜の路地で、1匹の野良猫がジークムントの足元に近寄り、そして凍りついたように動かなくなった。
澪がジークムントの手に触れたのは偶然だった。
指が触れた一瞬、冷たさに息が止まった。
石の冷たさ。生きている者の体温では、ない。
ジークムントは静かに澪の目を見た。
逃げなくていい、と彼の目が言っていた。
澪は逃げなかった。
「……ずっと、生きてるんですか」
「生きている、と言えるかどうかは分からない」
ジークムントは答えた。
「ただ、続いている。300年以上──」
300年。澪はその数字を頭の中で転がした。
ブラームスが生まれる前から、ウィーンがまだ帝国の心臓だった時代から、この男はずっとここにいる。
「疲れましたか?」と澪は訊いた。
他に言葉が思いつかなかった。
ジークムントは、今まで見せたことのない表情をした。
何かがひびわれるような、微かな痛みを帯びた顔。
「ああ」と彼は言った。
「疲れた。ひどく──」
その夜から、ふたりの間には言葉にならない何かが漂い始めた。
恋と呼ぶには朧で、友情と呼ぶには熱く、しかしそのどちらでもないような、霧のように形を結ばない感情が。
澪はそれを名付けなかった。名付けてしまえば、壊れそうな気がした。
3.影の来訪
彼が現れたのは、12月の最初の夜だった。
澪は練習の帰りにいつもの路地へ向かっていたが、曲がり角の手前で足を止めた。
何かが違う。空気が、違う。
路地の奥に、ジークムントと、もうひとりの男が向き合っていた。
黒いコートを着た、長身の男だった。
金褐色の髪を持ち、顔立ちはジークムントと同じ系統の、欧州の古い貴族を思わせる美しさがあった。
しかし表情は、ジークムントのそれとは正反対だった。
疲れているのは同じでも、その疲れは諦めではなく、葛藤から来るもののように見えた。
「ジークムント──」
男は低く言った。
「久しいな、17年ぶりか……」
「ヴォルフガング──」
ジークムントの声は平坦だった。
「また来たのか……」
「来なければならない。それが我々の宿命だ。お前も知っているだろう」
「宿命」ジークムントは静かに繰り返した。
「その言葉を、何度聞いたと思う。100年か、200年か──。お前たちの一族は、その言葉に縛られることをやめようとしない」
ヴォルフガングと呼ばれた男は、僅かに顔を歪めた。
「縛られているのは、俺も同じだ」
その言葉に、澪は何かを感じた。
憎しみではない。その声には、倦んだ悲しみが混じっていた。
ヴォルフガングの目が、路地の入口に立つ澪を捉えた。一瞬の沈黙──。
「……人間の娘か?」
と彼は言った。
ジークムントを見る。
「お前が、人間に関わるとは珍しい」
「関係ない」
ジークムントの声が、初めて鋭くなった。
「そうか」
ヴォルフガングはゆっくりと澪に向き直った。「娘、名は?」
「櫻井澪、です」
澪は答えた。声が震えなかったのは、不思議だった。
「日本人か。なぜこの男の傍にいる」
「それは……」
澪は少し考えてから言った。
「ブラームスの話ができるから、だと思います」
ヴォルフガングは一瞬、虚を突かれたような顔をした。
そして短く、乾いた笑い声を立てた。
「ブラームス?」
と彼は繰り返した。
「そうか……」
その夜は、それ以上のことは起きなかった。
ヴォルフガングは「また来る」とだけ言い残して、霧の中に消えた。
4.古い血の呪縛
翌日、澪はジークムントに訊いた。
「ヴォルフガングさんは、何者なんですか?」
ジークムントはしばらく黙ってから、語り始めた。
クロイツ家──かつてウィーンに君臨した貴族の一族で、300年前から、ジークムントの存在を世から消すことを家訓として受け継いできた一族だった。
理由は、もはや誰も正確には覚えていない。
かつてジークムントが一族の誰かを傷つけたのか、あるいは一族が信じる神の教義に彼の存在が反するのか。
始まりは霧の向こうに消えて久しい。
「ヴォルフガングは、その現当主だ」
ジークムントは言った。
「しかし彼は、他の先祖たちとは少し違う」
「どう違うんですか?」
「殺したいのではなく、終わらせたいのだと思う」
澪は黙って続きを促した。
「闘いを終わらせたい。300年続く呪縛から、一族を解放したい──。しかし彼らの血には、この使命への衝動が刻まれている。自分の意志だけでは、どうにもならない部分がある」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
ジークムントは首を振った。
「分からない。ずっと分からないまま、300年が経った」
澪はヴァイオリンケースを膝の上で抱えながら、考えた。
「ジークムントさんは、消えてしまいたいと思いますか?」
問いは唐突だった。ジークムントは澪を見た。
「……なぜそれを訊く?」
「だって」澪は俯いた。
「疲れたって言ってたから……。300年分の疲れって、私には想像もできないけど、でも、もしジークムントさんが消えることを望むなら、私はそれを止める言葉を持たないと思って……」
長い沈黙が流れた。
遠くで馬車の音がした――観光用の辻馬車が、夜のリング通りを走っているのだろう。
「消えたいと思う夜は、確かにある」
ジークムントはゆっくりと言った。
「しかし……今は、少し違う」
「違う?」
「君がブラームスの話をするのを、もう少し聞いていたい」
それだけだった。それだけの言葉が、澪の胸の奥で、静かに燃えた。
5.霧の決闘
ヴォルフガングが再び現れたのは、クリスマスを3日後に控えた夜だった。
今度はひとりではなかった。
黒いコートを着た人影が、霧の中に3つ、4つと浮かび上がった。一族の者たちだ。
ヴォルフガングの意思とは別に、血の衝動に従って集まった者たちが、ジークムントを囲んでいた。
澪は路地の入口で、ヴァイオリンケースを抱きしめていた。
逃げろと言われていた。足が動かなかった。
戦いは、声もなく始まった。
ジークムントは疲れていた。
澪には分かった。体の疲れではない、魂の疲れで戦う者の動き方をしていた。
それでも彼は、確かな強さで一族の者たちを受け止めていた。
そしてヴォルフガングは、戦いの輪の外に立っていた。
彼は動かなかった。
一族の者たちが動く中で、ただ立ち尽くし、その眼で戦いを見つめていた。
その顔には、苦しみがあった。
澪には分かった。彼は戦わせたいのではない。
しかし止めることもできない。300年の呪縛が、彼の手足を縛っていた。
ひとりの男がジークムントに剣を向けた瞬間、澪は走っていた。
「やめてください!」
叫び声が、霧の中に響いた。
全員が動きを止めた。
澪はジークムントの前に立っていた。
震えていた、怖かった、それでも、動けなかった。
ヴォルフガングが歩み寄ってきた。
その目が澪を見下ろした。
「退け、娘。これは人間の関わることではない」
「関わりたくて関わってるんじゃありません」
澪は言った。
「でも、ここに立ってる人は……私の話を聞いてくれた人です。私にとって大切な人です。それだけです」
沈黙が、重くなった。
ヴォルフガングは澪を見た。
それからジークムントを見た。
ジークムントは澪の後ろで、静かに立っていた。その目には、300年間で澪が初めて見る種類の何かがあった。
ヴォルフガングは長い息を吐いた。
「……引け」と彼は後方に向かって言った。
「今夜は引く」
一族の者たちがざわめいた。
しかしヴォルフガングの声は静かで、しかし揺るがなかった。
「引け、と言った」
霧の中に、黒い影が溶けていった。
ヴォルフガングは最後にジークムントを見た。
「終わりにしたい、という気持ちは本物だ」
と彼は言った。
「しかし俺ひとりの意思では、すべてを止めることはできない。それだけは知っていてくれ」
「知っている」ジークムントは答えた。
「ヴォルフガング……お前が苦しんでいることも、俺は知っている」
ヴォルフガングは一瞬、何かに耐えるような顔をした。
そして踵を返し、霧の中へと歩いていった。
決着は、着いていなかった。
300年続いた闘いは、今夜も宙ぶらりんのまま、霧の中に置き去りにされた。
6.夜明け前の別れ
夜が、最も深くなる頃。
ジークムントと澪は、市庁舎前の広場に立っていた。
クリスマスマーケットはもう閉まる時間を過ぎていたが、片付けも終わらぬうちに雪が降り始め、屋台の骨組みや飾り残しのオーナメントが白く染まっていった。
リング通りを縁取る街路樹には無数の光が灯り、誰もいない広場に、その輝きだけが静かに降り注いでいた。
「行くんですか?」
澪は訊いた。
「ああ」
分かっていた。
ヴォルフガングが一族を抑えきれるのは、今夜だけだろう……。
そして何より、ジークムント自身が、そろそろ頃合いだと感じているのだと澪には分かった。
この街を離れる時が来た、と──。
300年の間に何度も繰り返してきたように、また新しい場所へ、新しい夜へ。
「どこへ……?」
「分からない。しばらくは、分からない方がいい」
澪は頷いた。
泣かないと決めていた。
泣いても何も変わらないし、彼の旅立ちを重くしたくなかった。
「ジークムントさん──」
「何だ」
「あなたは言いましたよね。喪失を知った時、ブラームスの最後の扉が開くって……」
ジークムントは静かに澪を見た。
「私、弾いてもいいですか。今夜」
少しの沈黙の後、ジークムントは頷いた。
澪はヴァイオリンケースを開けた。
冷気の中で、弦が張り詰めた音を立てた。
弓を持つ指が、かじかんでいた。
それでも、澪は構えた。
そして、弾き始めた。
ブラームス 〜ヴァイオリン協奏曲 第2楽章〜Adagio。
音が、冬の広場に満ちた。
上手くはなかった。完璧でもなかった。
しかしその音の中には、今夜はじめて、何かが宿っていた。
教授が言い続けた「魂」とは別の何かが。
失うことの痛みと、それでも美しかったと思う心が、弓のひと引きひと引きに乗っていた。
ジークムントは動かなかった。
ただ立って、聴いていた。300年以上生きた目が、ゆっくりと閉じられた。
雪が、静かに降り続けていた。
市庁舎のゴシック尖塔が白く滲み、リング通りの灯りが、霧と雪の向こうで幾千もの星のように瞬いていた。
旋律が夜に溶け、澪の指が最後の音を引き伸ばした時、ジークムントはすでに一歩、霧の方へ踏み出していた。
「……澪」
名前を呼ばれたのは初めてだった。澪は弓を下ろした。
「ブラームスの扉が開いた──」
と彼は言った。静かな声だった。
「君のおかげで、久しぶりに聴こえた」
それから彼は歩いた。霧の中へ──。
振り返らなかった。
黒いコートが、ウィーンの夜の色と混ざり合い、少しずつ、少しずつ、見えなくなっていった。
澪はその背中が完全に見えなくなるまで、立っていた。
それから、もう一度、弓を構えた。
誰もいない広場で、去り行く者のために、もう一度だけ弾いた。
今度は最後まで、一度も音を外さなかった。
終 章
翌朝、ウィーンは白かった。
澪はいつも通り大学へ向かい、練習室に入り、ヴァイオリンを構えた。
教授が途中で練習室を覗き、そして立ち止まった。
「澪──」
教授は眉を上げた。
「昨日から何かあったのか? 音が変わった」
「そうですか」
澪は答えた。
「ブラームスが、泣いている」
教授はそれだけ言って、静かにドアを閉めた。
窓の外で、雪は降り続けていた。
どこかの霧の中で、300年の疲れを抱えた男が、また歩き続けている。
どこかの夜の路地で、因縁の一族の男が、終わりなき問いと格闘している。
決着はついていない。おそらく、しばらくは──。
けれど澪には、今は弾くべき音楽がある。
弓が弦を滑った。
ブラームスが、冬のウィーンに満ちていった。
―― 了 ――
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