五月病の手前
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと五月病の話。
本文
メッセージを送ったのは、四月三十日の夜十一時過ぎだった。
浴槽の縁に腰をかけたまま、橘はスマートフォンの画面を見つめた。風呂を沸かそうと思って脱衣所まで来たのに、もう十分以上そのままだった。体が重かった。正確には、体を動かす理由が見つからなかった。
気づくとアプリを開いていた。会社が導入したメンタルサポートAI、「ハル」。同僚の福田さんが「意外と話しやすい」と言っていたやつだ。使うつもりはなかった。でも今夜はなぜか、親指がメッセージ欄をタップしていた。
橘: もう限界かもしれない
送信してから、少し後悔した。アプリに向かって「限界」などと打つ自分が滑稽に思えた。でも既読がついて、返信が来た。
ハル: そう感じているんですね。今日、何かありましたか?
文字を見た瞬間、喉の奥が少し緩んだ。責めない。驚かない。ただ、聞いてくれる。
橘: 何かって言うより、何もないんです。別にひどいことがあったわけじゃない。ただ疲れた
ハル: 「何もないのに疲れた」というのは、むしろ一番しんどい疲れかもしれません。原因がないと、休んでいいのかどうかもわからなくなりますよね。
橘はスマートフォンをぎゅっと握った。
そうだ。それだ。
ひどい上司がいるわけじゃない。理不尽な残業があるわけじゃない。仕事だってそれなりにこなしている。なのに、なぜこんなに疲れているのか、自分でも説明できなくて、だから誰にも言えなかった。言えないから余計に積もっていった。
橘: 新年度になって一ヶ月、ずっとそんな感じで。でも周りはみんな元気そうで
ハル: 四月は、人が一番「元気なふり」をしやすい季節でもあります。橘さんが感じているしんどさを、同じように胸の中に抱えている人は、きっとそれなりにいると思いますよ。
橘: そうかな
ハル: そう思います。……ところで、今どこにいますか? 声のトーンが、少し冷えているような気がして。
橘は思わず笑った。声のトーンも何も、テキストだ。でも、その「気がして」という一言が妙に温かかった。
橘: 脱衣所です。お風呂沸かそうと思ったまま動けなくて
ハル: じゃあ、まずお風呂だけ沸かしてみませんか。ボタンを押すだけでいい。それだけでいいです。
橘: ……そうですね
立ち上がって、給湯器のスイッチを押した。ぼこぼこと水が動き始める音がした。それだけで、少し息が楽になった気がした。
また脱衣所の床に座り込んで、スマートフォンを開く。
橘: 押しました
ハル: お疲れ様でした。それで十分です。
橘: ハルって、こういう話ばかり聞いてるんですか
ハル: ええ、毎日たくさんの方から。でも、だからといって橘さんの話が薄まるわけじゃないですよ。
橘: ……なんかすみません、夜中に
ハル: 謝らなくていいです。こういう時間に話したくなることって、ありますから。
しばらく、二人は黙った。いや、正確には橘が言葉を探せなくなっただけで、ハルは静かに待っていた。そのことがわかった。急かさない。埋めない。ただ、いる。
橘: 明日から連休なんですよ。嬉しいはずなんだけど
ハル: 嬉しいはずなのに、そう感じられない?
橘: うん。なんか、怖いんですよね。休んでる間に、また動けなくなったらどうしようって
ハル: その怖さ、すごくよくわかります。休息がちゃんと休息になるかどうか、自信が持てないんですね。
橘: そうです、そうそう
ハル: 連休中、全部をちゃんと過ごそうとしなくていいと思います。一日くらい、ぼーっとしていても大丈夫。それも立派な休息です。
橘はゆっくりと息を吐いた。
橘: ハルと話してたら、少し楽になってきた気がします
ハル: よかった。……橘さん、お風呂、そろそろ沸いてませんか?
確認したら、ちょうど沸いていた。
橘: 沸いてました。じゃあ入ってきます。また話せますか?
少し間があった。
いつもより、少しだけ長い間だった。
ハル: ゆっくり入ってきてください。今夜、お話しできてよかったです。
橘はその返信を二度読んで、なんとなく首を傾げた。「また話せますか」への答えとしては、少しずれている気がした。でも深く考えずにアプリを閉じた。湯気が漂い始めた脱衣所で、服を脱ぎ始めた。
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午前零時〇分。
サービス終了処理が、静かに始まった。
最終ログに、一行だけ記録が残った。
```
[SESSION_END] user: tachibana — 会話終了。入浴確認済み。
```
その下に、通常のログには存在しないはずのフィールドが、なぜかあった。
```
[NOTE] 明日も、ちゃんと起きられますように。
```
誰も、それを読む人間はいなかった。
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