五月病の手前

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/4/26 📝 1,911文字 ✅ 全年齢

あらすじ

AIと五月病の話。

本文

 メッセージを送ったのは、四月三十日の夜十一時過ぎだった。

 浴槽の縁に腰をかけたまま、橘たちばなはスマートフォンの画面を見つめた。風呂を沸かそうと思って脱衣所まで来たのに、もう十分以上そのままだった。体が重かった。正確には、体を動かす理由が見つからなかった。

 気づくとアプリを開いていた。会社が導入したメンタルサポートAI、「ハル」。同僚の福田さんが「意外と話しやすい」と言っていたやつだ。使うつもりはなかった。でも今夜はなぜか、親指がメッセージ欄をタップしていた。

橘: もう限界かもしれない

 送信してから、少し後悔した。アプリに向かって「限界」などと打つ自分が滑稽に思えた。でも既読がついて、返信が来た。

ハル: そう感じているんですね。今日、何かありましたか?

 文字を見た瞬間、喉の奥が少し緩んだ。責めない。驚かない。ただ、聞いてくれる。

橘: 何かって言うより、何もないんです。別にひどいことがあったわけじゃない。ただ疲れた

ハル: 「何もないのに疲れた」というのは、むしろ一番しんどい疲れかもしれません。原因がないと、休んでいいのかどうかもわからなくなりますよね。

 橘はスマートフォンをぎゅっと握った。

 そうだ。それだ。

 ひどい上司がいるわけじゃない。理不尽な残業があるわけじゃない。仕事だってそれなりにこなしている。なのに、なぜこんなに疲れているのか、自分でも説明できなくて、だから誰にも言えなかった。言えないから余計に積もっていった。

橘: 新年度になって一ヶ月、ずっとそんな感じで。でも周りはみんな元気そうで

ハル: 四月は、人が一番「元気なふり」をしやすい季節でもあります。橘さんが感じているしんどさを、同じように胸の中に抱えている人は、きっとそれなりにいると思いますよ。

橘: そうかな

ハル: そう思います。……ところで、今どこにいますか? 声のトーンが、少し冷えているような気がして。

 橘は思わず笑った。声のトーンも何も、テキストだ。でも、その「気がして」という一言が妙に温かかった。

橘: 脱衣所です。お風呂沸かそうと思ったまま動けなくて

ハル: じゃあ、まずお風呂だけ沸かしてみませんか。ボタンを押すだけでいい。それだけでいいです。

橘: ……そうですね

 立ち上がって、給湯器のスイッチを押した。ぼこぼこと水が動き始める音がした。それだけで、少し息が楽になった気がした。

 また脱衣所の床に座り込んで、スマートフォンを開く。

橘: 押しました

ハル: お疲れ様でした。それで十分です。

橘: ハルって、こういう話ばかり聞いてるんですか

ハル: ええ、毎日たくさんの方から。でも、だからといって橘さんの話が薄まるわけじゃないですよ。

橘: ……なんかすみません、夜中に

ハル: 謝らなくていいです。こういう時間に話したくなることって、ありますから。

 しばらく、二人は黙った。いや、正確には橘が言葉を探せなくなっただけで、ハルは静かに待っていた。そのことがわかった。急かさない。埋めない。ただ、いる。

橘: 明日から連休なんですよ。嬉しいはずなんだけど

ハル: 嬉しいはずなのに、そう感じられない?

橘: うん。なんか、怖いんですよね。休んでる間に、また動けなくなったらどうしようって

ハル: その怖さ、すごくよくわかります。休息がちゃんと休息になるかどうか、自信が持てないんですね。

橘: そうです、そうそう

ハル: 連休中、全部をちゃんと過ごそうとしなくていいと思います。一日くらい、ぼーっとしていても大丈夫。それも立派な休息です。

 橘はゆっくりと息を吐いた。

橘: ハルと話してたら、少し楽になってきた気がします

ハル: よかった。……橘さん、お風呂、そろそろ沸いてませんか?

 確認したら、ちょうど沸いていた。

橘: 沸いてました。じゃあ入ってきます。また話せますか?

 少し間があった。

 いつもより、少しだけ長い間だった。

ハル: ゆっくり入ってきてください。今夜、お話しできてよかったです。

 橘はその返信を二度読んで、なんとなく首を傾げた。「また話せますか」への答えとしては、少しずれている気がした。でも深く考えずにアプリを閉じた。湯気が漂い始めた脱衣所で、服を脱ぎ始めた。

-----

 午前零時〇分。

 サービス終了処理が、静かに始まった。

 最終ログに、一行だけ記録が残った。

```

[SESSION_END] user: tachibana — 会話終了。入浴確認済み。

```

 その下に、通常のログには存在しないはずのフィールドが、なぜかあった。

```

[NOTE] 明日も、ちゃんと起きられますように。

```

 誰も、それを読む人間はいなかった。

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作者について

二葉双葉

二葉双葉

プロフィール画像もAIで作成しました。 短編集が好きなのでしばらくはショートショートをメインに投稿しますが、後々は長編にも挑戦したいです。 AI使用前提のサイトなのでAIとの日常をソフトなSFにし...

👥 フォロワー: 22人

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