コピーのほうが先に老いる
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あらすじ
医療用に作られた主人公のクローンは、本体の病気を肩代わりするため急速に老いていく。 短い余命の中でクローンは、本体の人生を守るだけではなく、自分自身の一日を欲しがる。
本文
目が覚めたとき、三砂悠真は二人いた。
一人は、白い病室のベッドで眠っている。二十八歳。頬はこけ、腕には点滴の管が刺さり、呼吸のたびに胸が小さく上下している。
もう一人は、そのベッドの隣にある透明な培養槽の中で目を開けた。
そちらも、二十八歳だった。
少なくとも、鏡に映った顔はそう見えた。
《覚醒確認。代償体Y-17、意識レベル安定》
天井のスピーカーから、機械音声が降ってくる。
培養液が抜かれ、肺に初めて空気が入った。喉が焼けるように痛い。体を起こそうとすると、腕が震えた。自分の腕のはずなのに、どこか借り物のようだった。
ガラス越しに、医師たちが見ている。
その中の一人、黒い髪を後ろで束ねた女医が、マイクに向かって言った。
「聞こえますか」
「聞こえる」
声は、ベッドで眠る男と同じだった。
「あなたの識別名はY-17。三砂悠真さんの医療用代償体です。混乱があると思いますが、あなたは治療のために作られました」
「知ってる」
言葉は、考える前に出た。
三砂悠真の記憶がある。
小学校の校庭。母の作った甘い卵焼き。高校で初めてギターを弾いた日の指の痛み。二十二歳で上京し、駅のホームで泣いたこと。二十六歳で白化症候群と診断されたこと。
体中の臓器が、少しずつ石のように硬くなる病気。
治療法は一つ。
本人の遺伝子から作った代償体へ病変を転送し、病気を肩代わりさせる。
代償体は、患者の臓器と同調するために最低限の意識を持つ。痛みを訴え、拒絶反応を抑え、体内の異常を自分で調整するためだ。
ただし、代償体は人間ではない。
法律上は、患者本人の拡張医療器官。
医療器官に戸籍はない。
家族も、財産も、未来もない。
「僕は、あと何日?」
女医の眉がわずかに動いた。
「説明は段階的に」
「記憶にある。代償体は病気を急速に進行させる。老化促進をかけて、白化した組織をまとめて処理するから」
培養槽の外で、若い医師が目を伏せた。
女医だけは、目をそらさなかった。
「標準予定では、二十一日です」
透明な壁の向こうで、眠っている三砂悠真が咳をした。
その音を聞いた瞬間、Y-17の胸が苦しくなった。
あれは本体だ。
自分はコピーだ。
そう理解しているのに、苦しそうに眠る男を見て、反射的に思ってしまった。
助けなければ。
それが、自分のためなのか、彼のためなのか、まだわからなかった。
三砂悠真が目を覚ましたのは、三日後だった。
そのころ、Y-17の髪にはもう白いものが混じり始めていた。皮膚の下の血管が浮き、関節を曲げると乾いた音がする。鏡を見るたび、顔の輪郭が少しずつ変わっていた。
コピーのほうが先に老いる。
誰かが冗談で言ったのを、Y-17は廊下で聞いた。
笑う者はいなかった。
悠真は、回復室で上半身を起こしていた。頬には血色が戻り、目には光がある。三日前まで死に向かっていた人間とは思えなかった。
Y-17は、看護師に押される車椅子で部屋に入った。
悠真は彼を見て、息をのんだ。
同じ顔。
だが、年齢だけが違う。
悠真はまだ二十八歳の顔をしている。Y-17は、四十代半ばに見えた。
「こんにちは」
Y-17が言うと、悠真の喉が動いた。
「俺の声だ」
「僕も、そう思ってる」
沈黙が落ちた。
医療センターの窓の外では、初夏の光が高層ビルに反射している。遠くで救急搬送ドローンが音もなく降りていった。
「痛いのか」
悠真が聞いた。
「少し」
「嘘だろ」
「かなり」
悠真は顔を歪めた。
「俺が、そうさせてるんだよな」
「契約書にサインしたのは君だ」
Y-17は、自分でも驚くほど穏やかに言った。
「でも、病気になりたくてなったわけじゃない」
「お前は」
悠真は言葉に詰まった。
「お前は、それでいいのか」
質問の意味はわかった。
僕は君のために老いて、死ぬ。
それでいいのか。
答えは、用意されていなかった。
「まだ、わからない」
Y-17は言った。
「でも、お願いがある」
悠真が身構える。
「何」
「一日だけ、外に出たい」
部屋の空気が変わった。
付き添いの看護師が、すぐに端末を操作する。廊下にいた女医、来栖沙耶が入ってきた。
「Y-17。その希望は記録します。ただし外出は認められません」
「なぜ」
「あなたの体内には、三砂さんから転送された病変が高密度で蓄積しています。外部環境への負荷、あなた自身の急変リスク、同調回線の切断リスクがあります」
「つまり、危ないから」
「はい」
「危ないのは、僕だけ?」
来栖はすぐに答えなかった。
悠真が彼女を見る。
「俺にも影響があるんですか」
「同調が十二時間以上乱れた場合、白化症候群の一部が本体へ戻る可能性があります」
悠真の顔から血の気が引いた。
Y-17は、窓の外を見た。
「じゃあ、十二時間以内なら」
「許可できません」
「僕は医療器官なんだろ。医療器官が、少し散歩したいと言ってるだけだ」
「医療器官は散歩しません」
「でも、痛いとは言う」
来栖は黙った。
Y-17は笑おうとした。頬の筋肉がうまく動かず、変な表情になった。
「一日でいい。自分の目で空を見たい。コンビニで何か買って、駅の階段を降りて、知らない店で昼飯を食べたい」
悠真が低く言った。
「俺の記憶にあるだろ」
「ある」
「じゃあ、知ってるじゃないか」
「記憶で知ってる街と、自分の足で歩く街は違うと思う」
その言葉を聞いた瞬間、悠真は目をそらした。
Y-17には、悠真の記憶がある。
だからわかった。
悠真は今、自分が初めて東京へ来た日のことを思い出している。駅の人混みに押され、安いスーツケースを引きずり、世界が広すぎて怖くなった日のことを。
その記憶は、Y-17の中にもある。
だが彼は、一度も駅に立ったことがなかった。
来栖は面談を打ち切った。
その夜、Y-17は老化促進処理を受けた。
白い治療室で、体内の病変をさらに引き寄せる。全身の骨が熱を持ち、皮膚の内側を細い針でこすられるような痛みが続いた。ベッドの柵を握る手は、朝より明らかに皺が増えている。
天井のモニターには、悠真の回復率が表示されていた。
七十二パーセント。
七十三。
七十四。
数字が上がるたび、Y-17の体が削られていく。
午前三時、来栖が治療室に入ってきた。
「鎮痛を追加します」
「意識を落とすやつ?」
「はい」
「いらない」
「苦痛が強すぎます」
「眠ると、時間が減る」
来栖は薬剤カートの前で手を止めた。
「二十一日のうち、半分を眠らされるのは嫌だ」
「痛みを感じ続ける必要はありません」
「必要はない。でも、僕の時間だ」
その言い方が、自分でも不思議だった。
僕の時間。
自分に時間があると思った瞬間、痛みの形が変わった。ただの苦痛ではなく、残量になった。
来栖は、鎮痛薬だけを少量に変えた。
「Y-17」
「その名前、やめてほしい」
「では、何と呼べば」
Y-17は少し考えた。
三砂悠真の記憶の中で、母は彼を「ゆう」と呼んでいた。友人は「ユーマ」。恋人だった千佳は、ふざけて「本体」と呼んだことが一度だけある。
「ユウでいい」
「戸籍名ではありません」
「戸籍がないから、自分で決めた」
来栖はほんの短く息を吐いた。
「わかりました。ユウ」
初めて名前を呼ばれた。
それだけで、痛みの中に小さな空白ができた。
七日目、ユウは六十歳に見えた。
悠真は歩行訓練を始めていた。リハビリ室のガラス越しに、彼が手すりにつかまりながら歩く姿が見える。一歩ごとに体が少しずつ本来の軽さを思い出している。
ユウは車椅子でそれを見ていた。
「嬉しくないのか」
悠真が汗を拭きながら言った。
「嬉しい」
「嘘に聞こえる」
「半分は本当。半分は、悔しい」
悠真は黙った。
「君の足が軽くなるほど、僕の足は動かなくなる」
「やめてくれ」
「事実だ」
「責めてるのか」
ユウは首を振った。
「責めたい日もある。でも今日は違う」
「じゃあ、何だよ」
「外出の申請書を持ってきた」
ユウは膝の上の端末を差し出した。
「本体の同意が必要だって」
悠真は端末を見ない。
「無理だ」
「まだ何も読んでない」
「読まなくても無理だ」
「君の病気が戻るかもしれないから?」
「それもある」
「他には」
悠真は声を荒げた。
「お前を外に出したら、俺は何なんだよ」
リハビリ室のスタッフがこちらを見た。
悠真は唇を噛み、声を落とした。
「病室の中で、俺の代わりに痛がってるやつを見るだけでもおかしくなりそうなんだ。外で普通に笑われたら、俺はもう、自分が生きてることに耐えられない」
ユウは端末を引っ込めた。
「僕が苦しんでるほうが楽?」
「違う」
「でも、僕が少しでも自分のために何か欲しがると、君は困る」
悠真は言い返せなかった。
その夜、ユウは初めて泣いた。
自分の涙なのか、悠真から移植された記憶の反応なのかわからなかった。
彼には、悠真が母の葬儀で泣いた記憶がある。高校の卒業式で泣けなかった記憶もある。千佳に別れを告げられた夜、声を殺して泣いた記憶もある。
だが、今ベッドの上で流れている涙は、どの記憶にも接続していなかった。
痛い。
悔しい。
外に出たい。
その三つだけが、誰から借りたものでもなく、ユウの中にあった。
十日目の朝、事件が起きた。
悠真の回復率が九十パーセントを超え、センターは最終抽出処理を前倒しすると通知した。
予定より早く、ユウの役目を終わらせるという意味だった。
来栖は説明室で淡々と資料を読み上げた。
「最終抽出後、三砂さんの再発リスクは二パーセント以下になります。ユウの身体負荷は限界に近い。これ以上の延命は苦痛の増加にしかなりません」
「延命って」
ユウは笑った。
「僕、まだ十日しか生きてない」
来栖の指が止まった。
悠真は隣の椅子で俯いている。
「処理はいつ」
「明日午前九時です」
「眠らせて、最後まで病気を抜く」
「はい」
「僕は起きる?」
来栖は答えなかった。
それが答えだった。
ユウは悠真を見た。
「君はサインした?」
悠真は顔を上げない。
「医師が、これが一番だって」
「君は、そう思う?」
「思いたい」
「正直だね」
ユウは自分の手を見た。細くなった指。浮いた骨。二十八歳で生まれ、十日で老人になった手。
「じゃあ、僕も正直に言う」
悠真が顔を上げた。
「僕は、君を助けたい。これは本当。君が歩いて、歌って、また千佳さんに会いに行けるなら、それでいいと思う日がある」
「ユウ」
「でも、僕は君の人生を守るためだけに目を開けたんじゃない」
言葉にした瞬間、部屋の空気が震えた気がした。
「一日でいいんだ。僕の一日がほしい。誰かの代わりじゃなく、処理の待ち時間じゃなく、僕が僕として使う一日」
悠真は両手で顔を覆った。
来栖が静かに言った。
「外出許可は、医療安全委員会が却下しました」
「じゃあ、委員会を無視したら?」
「私は医師免許を失います」
「僕は命を失う」
来栖は目を閉じた。
その夜、病室の窓の外に雨が降った。
ユウは眠れなかった。廊下の非常灯が薄く床を照らしている。最終抽出は明日の朝。つまり、これが最後の夜になるかもしれない。
午前二時、病室の扉が開いた。
悠真が立っていた。
パジャマの上にパーカーを羽織り、片手に外出用の同調バッテリーを持っている。
「起きてるか」
「老人は眠りが浅い」
「十日目の老人が言うな」
悠真は笑おうとして、失敗した。
「行こう」
ユウは彼を見た。
「どこへ」
「外」
「君の病気が戻るかもしれない」
「十二時間以内に戻る」
「同意書は」
「今サインした」
悠真は端末を見せた。そこには、代償体一時外出の本体同意が表示されている。承認欄には、来栖沙耶の電子署名もあった。
「先生も共犯?」
「医師としては知らないことになってる」
廊下の奥で、来栖が白衣のポケットに手を入れて立っていた。こちらを見ずに言う。
「救急搬入口の警備センサーは、三分間だけ点検中です」
ユウは笑った。
今度は、ちゃんと笑えた。
夜明け前の街は、病院の中よりも冷たかった。
ユウは車椅子ではなく、杖を使った。悠真が隣を歩き、同調バッテリーを肩にかけている。二人の体は細いケーブルでつながれていた。
同じ顔の若者と老人。
すれ違う人々は、一瞬だけ振り返る。
「親子に見えるかな」
ユウが言った。
「兄弟だろ」
「無理がある」
「じゃあ、未来の俺」
「それが一番近い」
駅前のコンビニで、ユウはおにぎりを買った。
記憶の中では何度も食べている。だが包装を自分の指で開けるのは初めてだった。海苔が少し破れ、米粒が指についた。
「うまい?」
悠真が聞く。
「記憶より、しょっぱい」
「それはたぶん、安いやつだから」
ユウは笑った。
次に、二人は早朝の公園へ行った。雨上がりのベンチは濡れていたが、ユウは構わず座った。空には薄い雲が流れている。鳥の声がする。
鳥。
それを自分の耳で聞いた瞬間、ユウは黙った。
悠真は何も言わなかった。
午前九時、本来なら最終抽出が始まっている時刻に、二人は区役所へ向かった。
「何しに来たんだ」
「名前を残す」
ユウは窓口で、事前に作っていた申請書を出した。
《代償体意思表示記録》
戸籍ではない。権利でもない。医療器官が自分の希望や拒否を記録するための、ほとんど使われていない制度だ。法的効力は弱く、病院側が見落としても罰則はない。
それでも、記録番号は残る。
窓口の職員は困った顔をした。
「ご本人確認は」
「本人です」
「本体の方ではなく」
職員は悠真を見た。
ユウは杖を握る。
「本体ではありません。僕は代償体Y-17。名前は、ユウ」
職員はしばらく端末を操作し、奥の上司に相談した。時間がかかるほど、同調バッテリーの警告音が増えていく。
悠真の額に汗が浮いた。
「もう戻ろう」
「あと少し」
「俺は大丈夫だから」
「君が大丈夫じゃないと、僕の一日が台無しになる」
悠真は黙った。
やがて職員が戻ってきた。
「受理します。ただし、これは戸籍ではありません」
「知っています」
「法的な人格を認めるものでもありません」
「それも、知っています」
職員は少しだけ声を柔らかくした。
「記録名は、ユウ、でよろしいですか」
「はい」
端末に、受付完了の表示が出た。
それだけだった。
紙の証明書も、拍手もない。
だがユウは、その画面を長い時間見つめた。
自分がこの世界に一度だけ名乗った証拠。
コピーではなく、番号でもなく、誰かの医療器官でもない。
ユウ。
その二文字が、彼の一日を少しだけ重くした。
昼、二人は海へ行った。
悠真の記憶の中で、海はいつも遠かった。病気になる前、千佳と行く約束をして、結局行けなかった場所。母が死ぬ前に「退院したら潮風を浴びたい」と言っていた場所。
駅から砂浜までの道は、ユウには長すぎた。
何度も立ち止まり、息を整えた。手の甲に白い斑点が浮かび、視界がかすむ。悠真も苦しそうだった。同調が乱れ、胸を押さえている。
「戻ろう」
ユウは言った。
「お前が言うな」
悠真は肩で息をしながら、笑った。
「あと少しだ」
二人は砂浜に座った。
海は、記憶より大きかった。
波の音が体の奥まで入ってくる。潮の匂いが、病院の消毒液をゆっくり押し出していく。ユウは靴を脱ぎ、砂に足を埋めた。
「冷たい」
「そりゃ、砂だからな」
「記憶には温度がない」
悠真は海を見た。
「俺は、お前に何を言えばいいんだろう」
「ありがとう、でいい」
「それだけでいいのか」
「謝られると、僕が許す係になる」
悠真は苦しそうに笑った。
「ありがとう」
ユウは頷いた。
「どういたしまして」
しばらく、波の音だけがあった。
やがてユウは、ポケットから小さな封筒を出した。
「これ、千佳さんに渡して」
悠真の肩が揺れた。
「なんで千佳に」
「君の記憶の中で、一番未練が強かったから」
「俺は、もう」
「会うかどうかは君が決めればいい。僕は、借りた記憶への挨拶を書いただけ」
悠真は封筒を受け取った。
「中身は?」
「僕の一日を書いた。コンビニのおにぎりが記憶よりしょっぱいこと。鳥の声が思ったより近いこと。役所の職員が、最後に少しだけ優しかったこと」
「それを千佳に?」
「君にも読ませたくなかったから」
悠真は、封筒を胸に当てた。
そのとき、同調バッテリーが赤く点滅した。
警告音。
十二時間の限界まで、あと四十分。
悠真が立ち上がる。
「帰るぞ」
ユウも立とうとした。
だが足に力が入らなかった。
砂の上に膝をつき、胸の奥から乾いた咳が出る。手のひらに白い粉のようなものがついた。体内の組織が、限界を迎えている。
「ユウ!」
悠真が支えようとする。
その瞬間、ユウの中に選択肢が開いた。
同調を維持すれば、悠真も共倒れになるかもしれない。病院まで間に合わなければ、白化症候群は本体へ戻る。
同調を切れば、病変はユウの中に固定される。悠真は助かる。
ただしユウは、病院へ戻る前に死ぬかもしれない。
この選択肢は、説明書にあった。
医療器官に自己保存より本体保護を優先させるための、安全機構。
ユウは笑った。
最後まで、よくできている。
「切るな」
悠真が言った。
彼にも警告表示が見えている。
「切ったら許さない」
「許す係にはしないって言っただろ」
「ユウ」
「僕の一日は、もうもらった」
ユウは、同調ケーブルのロックに指をかけた。
悠真がその手を掴む。
「俺は、お前が死ぬために生きたくない」
「僕は、君が生きるために生まれた」
「それだけじゃないって、お前が言ったんだろ!」
ユウは悠真を見た。
同じ顔。
だが、もう同じではない。
片方は二十八年を生きた。
片方は十一日と半日を生きた。
どちらが本物かという問いは、海の前では小さかった。
「じゃあ、命令じゃなくて、お願いを聞いて」
ユウは言った。
「僕の一日を、治療の副作用にしないで。ちゃんと、誰かが生きた一日として覚えて」
悠真の目から涙が落ちた。
ユウはロックを外した。
ケーブルが砂に落ちる。
胸の奥で、何かが閉じた。
悠真が倒れそうになりながらも、ユウを抱きしめた。救急ドローンのサイレンが遠くから近づいてくる。来栖が位置情報を追っていたのだろう。
ユウは、悠真の肩越しに海を見た。
波が来て、彼の足跡をゆっくり消していく。
でも、消えたのは足跡だけだ。
そう思えた。
ユウが次に目を開けたとき、病室だった。
天井の白さ。消毒液の匂い。戻ってきた場所。
体は、ほとんど動かなかった。視界の端で、悠真が椅子に座っている。顔色は悪いが、生きている。彼の胸のモニターは安定していた。
来栖がベッドの横に立っていた。
「最終抽出は中止しました」
ユウは唇を動かした。
「なぜ」
「あなたが同調を切ったため、病変は固定されました。これ以上、本体へ転送されません」
「悠真は」
「軽度の再発徴候があります。治療は必要ですが、命に別状はありません」
ユウは安心した。
それと同時に、少しだけ腹が立った。
全部きれいには救えない。
でも、それが生きている人間の世界なのかもしれない。
悠真が身を乗り出した。
「ユウ」
「海、よかったね」
「ああ」
「封筒、渡して」
「渡す」
「あと」
息が切れる。
悠真が耳を近づけた。
「僕の名前、忘れないで」
「忘れるわけない」
「忘れるよ。人間は結構忘れる」
ユウは笑ったつもりだった。
「だから、書いて」
悠真は頷いた。
「書く。何度でも」
ユウは目を閉じた。
暗闇の中で、海の音がした。
それは記憶ではなかった。
彼自身の一日から来る音だった。
三か月後、三砂悠真は退院した。
白化症候群は完全には消えなかった。定期治療が必要で、走れば息が切れる。医師は、無理をしなければ十年、二十年は生きられると言った。
以前なら短すぎると思っただろう。
今は、長すぎるほどの時間に思えた。
悠真は退院の日、区役所へ行った。
代償体意思表示記録の閲覧申請を出す。窓口の職員は、あの日と同じ人だった。彼女は悠真を見ると、少しだけ目を伏せた。
「ユウさんの記録ですね」
さん。
その一文字で、悠真は泣きそうになった。
記録には、短い文が残っていた。
《名前:ユウ》
《希望:一日だけ、自分として外に出ること》
《拒否:番号だけで呼ばれること》
《その他:本体を恨む日もある。でも、生きてほしい日もある》
悠真は、その記録を何度も読んだ。
その後、彼は代償医療センターを相手に訴訟を起こした。
代償体に法的人格を認めろ、という大きな訴えではない。最初の請求は小さかった。
名前で呼ぶこと。
本人の意思表示を治療計画に記録すること。
鎮静や最終抽出について、代償体自身に説明すること。
医療業界は反発した。患者団体も割れた。命を救う技術を止めるなという声が、悠真にも届いた。
彼は、その声を否定できなかった。
自分は救われた側だからだ。
だからこそ、法廷で言った。
「僕は、彼のおかげで生きています。だから、彼を道具だったことにして楽になりたくありません」
判決はすぐには出ない。
世の中も、簡単には変わらない。
それでもセンターの廊下では、少しずつ呼び方が変わった。Y-22ではなく、ミオ。K-04ではなく、ケイ。番号の後ろに、誰かが自分で選んだ名前がつくようになった。
悠真は月に一度、海へ行く。
砂浜に座り、コンビニのおにぎりを食べる。安いやつだ。海苔がたいてい破れる。米粒が指につく。
封筒は、千佳に渡した。
彼女は手紙を読んで泣き、悠真を許すとも許さないとも言わなかった。ただ、いつか海へ行こうと言った。
悠真は、その返事を急がないことにした。
彼には時間がある。
ユウにはなかった時間が。
だから急いではいけない気がした。
ある日、海辺で小さな子どもが悠真に聞いた。
「おじさん、誰か待ってるの?」
悠真は少し考えた。
「待ってるというより、忘れないようにしてる」
「誰を?」
波が足元まで来て、すぐに引いていく。
悠真は答えた。
「僕より先に老いた、僕じゃない人」
子どもは首を傾げたが、すぐに走っていった。
悠真は笑った。
説明できなくてもいい。
世界のどこかに、ユウという名前の記録がある。
海を見た一日がある。
コピーと呼ばれた体が、最後に自分の名前で呼ばれた時間がある。
それを覚えている限り、ユウの一日は治療の副作用では終わらない。
悠真はおにぎりの包みを畳み、空を見上げた。
今日も、彼は生きている。
そのことに感謝しながら、少しだけ苦しむ。
その苦しみごと、引き受けていく。
それが、ユウから受け取った人生の使い方だった。