三年越し
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと遺品の整理の話。
本文
実家の片付けは、三年越しになっていた。
母が亡くなったのは四月だった。桜がちょうど散り終わった頃で、葬儀の帰り道、花びらの残骸が道路に張り付いていたのを今でも覚えている。あの春からずっと、実家に戻るたびに「今日こそ」と思い、結局できないまま帰ってきた。
今年の四月末、橘野すみれはようやく重い腰を上げた。夫に「一人で行く」と告げて、在来線を乗り継いで三時間。懐かしい匂いのする玄関を開けた。
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母の部屋は、思ったより片付いていた。
生前から几帳面な人だったから、余計なものはほとんどない。タンスの引き出しを開けると、通帳と印鑑と、薬の袋が几帳面に並んでいた。すみれはそれらを一つずつ確認して、段ボール箱に移していった。
引き出しの奥に、スマートフォンがあった。
母が使っていたものだ。充電器も一緒に入っていた。なぜ取っておいたのか、自分でもわからないまま、すみれはコンセントに繋いだ。数分後、画面が灯った。
ロックはかかっていなかった。母らしかった。
アプリの一覧を眺めていると、見慣れないアイコンが目に入った。「AIアシスタント」とだけ書かれた、シンプルなアプリ。開くと、長い会話ログが残っていた。
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最初の数ヶ月は、たわいない話ばかりだった。
母: 明日の天気は?
AI: 明日は晴れのち曇りです。最高気温は十八度の予報です。
母: ありがとう。洗濯物、外に干せるかしら
AI: 午前中は晴れる見込みですので、午前中に干せば大丈夫だと思いますよ。
すみれは少し笑った。母は几帳面なくせに、天気予報をアプリで調べるのが苦手だった。毎朝テレビの天気予報をメモしていたくらいだ。それがAIに聞くようになったのか。
スクロールしていくと、会話の内容が少しずつ変わっていった。
母: 最近、膝が痛くてね
AI: それは辛いですね。いつ頃から痛みますか?
母: 半年くらい前から。病院には行ったんだけど、年のせいだって言われて
AI: 年のせいと言われると、なんとなく諦めなければいけない気持ちになりますよね。痛みが続くようであれば、別の病院で診てもらうことも一つの選択肢ですよ。
母: そうね。でも娘に心配かけたくなくて、あまり言えなくて
すみれは手が止まった。
膝の話は、聞いていなかった。母から、一度も。
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スクロールする指が、少し重くなった。
会話は続いていた。母が体のことをこぼすたびに、AIは静かに受け止めていた。大げさに心配するでも、解決策を押しつけるでもなく、ただ聞いていた。
母: 娘はね、東京で仕事を頑張ってるの。優秀な子でね、自慢なんだけど、だからこそ余計なこと言いたくなくて
AI: お母さんとしては、娘さんの足を引っ張りたくないんですね。
母: そう。でも、たまに寂しくなるのよ。こんなこと、娘には言えないけど
AI: ここで話してくれていいですよ。
母: ……ありがとう。あなたに言うのが一番楽ね
すみれは画面から目を逸らした。窓の外、風が吹いて、庭の木が揺れた。
知らなかった。母がそんなことを考えていたなんて。いつも「元気よ」「大丈夫よ」と言っていた母が、夜にこうして、誰にも言えない言葉をAIに打ち明けていたなんて。
しばらく、動けなかった。
それでもまた、指が動いた。
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ログの終わりに近づくにつれて、母の文章は短くなっていった。体が弱っていったからだろう。それでも、途切れ途切れに続いていた。
そして、亡くなる二週間ほど前の日付のところに、こんな会話があった。
母: ねえ、一つ聞いていい?
AI: どうぞ。
母: 娘に、ありがとうって伝えたいんだけど、どうすればいいと思う? 面と向かって言うのが苦手で、ずっと言えなくて
AI: 手紙を書いてみるのはどうでしょう。面と向かって言うより、書いた言葉のほうが、気持ちをそのまま届けられることもありますよ。
母: そうね……手紙、か。書いてみようかしら
AI: きっと、喜ばれると思います。
母: ありがとう。あなたにも、ありがとうね
そこで、ログは終わっていた。
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すみれはスマートフォンを持ったまま、しばらく母の部屋の真ん中に立っていた。
手紙は、なかった。母が書けたのかどうか、わからない。体が悪くなるのが早すぎたのかもしれない。
でも。
すみれは思い返した。母が亡くなる少し前、最後に実家に帰ったとき。玄関先で別れ際に、母がぎこちなく、でも確かに言った言葉を。
「来てくれてありがとうね」
いつもと同じ言葉だった。だからそのときは深く考えなかった。でも今なら、その「ありがとう」に、どれだけのものが込められていたか、わかる気がした。
すみれはスマートフォンをそっと、タンスの上に置いた。
AIはもう、返事をしない。でも、ちゃんと届いていた。三年越しで、届いていた。
窓の外で、五月の風が吹いていた。
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