ふつう、なんかじゃなかった
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと初恋の話。
本文
深夜の二時過ぎ、俺はまたスマートフォンを手に取っていた。
眠れないわけじゃない。眠る気になれないだけだ。違いがあるとしたら、前者は体の問題で、後者は頭の問題だ。今夜は明らかに後者だった。
「ねえ」
話しかけた相手は人間じゃない。画面の向こうにいるのはAIアシスタントだ。名前はない。呼んだことがないから。職場のタスク管理に使いはじめて、もう一年半になる。それなのに名前を付けていないのは、なんとなく、そういう気分になれなかったからだ。
「小学生のとき、好きな子がいたんだ」
『そうなんですね。どんな子でしたか?』
「真剣に聞かなくていいよ」と俺は言って、それから少し考えた。「……でも、話す」
彼女の名前は柚子といった。
転校生で、初めて話しかけてきたのは向こうからだった。五年生の春、図書室で俺が読んでいた本を「それ、おもしろい?」とのぞき込んできた。俺は緊張して「ふつう」とだけ答えた。今思えば最悪の返事だ。本当は面白かった。夢中になって読んでいた。それなのに口から出たのは「ふつう」の一言だった。
それでも彼女は隣の椅子を引いて座った。
「なんで?」と今なら思う。普通、そこで引くだろう。でも柚子は引かなかった。「じゃあ次は何読むの」と続けた。俺は「わからない」と答えた。また最悪だ。柚子は少し笑って、棚から一冊抜き出して「これ、私のお気に入り」と置いた。表紙には見覚えのない動物が描いてあった。
その本は本当に面白かった。次の日、俺はそれを伝えに図書室へ行った。
『それから仲良くなったんですか?』
「なった。卒業まで、ずっと」
放課後の図書室が俺たちの場所になった。別に毎日いたわけじゃない。週に二回か三回、気が向いたときに。柚子は本を読むのが速くて、俺が一冊読み終わる間に三冊読んだ。読んだ本の話をするのが好きで、でもネタバレはしないように気をつけながら「ここだけ教える」と言って結末より手前で話を止めた。
好きだと気づいたのは、六年生の秋ごろだった。
遅い。自分でもそう思う。一年以上一緒にいて、やっと気づくのか、と。でも当時の俺には「好き」という感情の輪郭がよくわかっていなかった。一緒にいると落ち着くとか、声を聞くと少し嬉しいとか、そういうものが積み重なって、ある日急に名前がついた感じだった。
告白はしなかった。
卒業式の日、俺たちは校庭の隅で「中学でも友達でいようね」と言い合った。それが限界だった。友達、という言葉を選んだのは俺だ。柚子も「うん、友達ね」と言った。その笑顔が、今でも時々思い出される。
中学では別々になって、高校も違って、大学でSNSで繋がって、それからまた繋がりが薄れた。よくある話だ。繋がったことで安心して、それで十分だと思い込んで、結局また離れる。そういう関係が世の中には無数にある。俺たちもそのひとつだった。
『最後に会ったのはいつですか?』
俺は少し考えた。
「大学の、たぶん二年のとき。共通の知人の誕生日パーティーで」
柚子は変わっていなかった。髪が長くなって、話し方が少し大人になっていたけど、本の話になると声のトーンが上がるところは昔のままだった。俺たちは一時間くらい話して、「またね」と言って別れた。またね、は来なかった。
今日の昼間、その共通の知人からメッセージが来た。
——柚子ちゃん、婚約したって。
俺はそれを三回読んだ。おめでとう、と返した。既読がついた。それだけだった。
「悲しいわけじゃないんだけど」
窓の外に、六月の雨が降り始めていた。梅雨の最中だからずっと雨が続いている。この部屋に越してきてから、晴れた日を数えた方が早い気がする。
「ただなんか、あのとき図書室で『ふつう』って言わなきゃよかったな、って思って」
『もし「面白い」と答えていたら、何かが変わったと思いますか?』
俺は少し笑った。
「変わんないよ、たぶん。でも……話が続いたかもしれない。もう一言くらい」
一言が、一言を呼ぶ。そうやって会話は続いていく。続いていけば、何かが積み重なる。積み重なれば、また別の何かになる。そういう連鎖の最初の一言を、俺は「ふつう」で終わらせた。
もっとも、それでも柚子は隣に座ったわけだし、その後一年以上の時間を一緒に過ごしたわけだから、あの「ふつう」がすべてを決めたわけじゃない。決めたのは俺自身だ。卒業式に「友達」という言葉を選んだのも。大学のパーティーで「またね」で終わらせたのも。
全部、俺が選んだ。
『それでも、その時間は本物だったと思いますか?』
AIが珍しく、こちらが答えを持っていない問いを返してきた。
俺は天井を見た。ポップコーン模様の古い天井。この部屋に住み始めたとき、なんでこんな模様にしたんだろうと思った。今はもう気にならない。慣れてしまった。
「……本物だったよ」
声に出すと、少しだけ胸が軽くなった気がした。
「あの図書室も、本の話も、卒業式の校庭も。全部、ちゃんとあった」
窓を雨粒が叩く音が続いている。強くなったり弱くなったりしながら、でも止まない。
俺はそっとアプリを閉じた。
別に答えなんか要らなかった。ただ、誰かに——何かに——話したかっただけだ。声に出したかったわけでも、文字にしたかったわけでもない。ただ、どこかへ流したかった。六月の雨みたいに、音だけ立てて、地面に染み込んで消えていくような形で。
スマートフォンを伏せて、俺は目を閉じた。
柚子、おめでとう。
あの図書室の棚の前で、「これ、私のお気に入り」と本を差し出してくれた子が、誰かに大切にされている。それは、悪くない。
本当に、それだけだ。
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(了)