五月の、誰か
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと一人旅の話。
本文
旅に出る理由なんて、たいしたものじゃなかった。
ゴールデンウィークに予定がなかった。それだけだ。カレンダーの四月末から五月頭にかけて、何も書いていない白い日が並んでいるのを見て、このままにしておくのが何となく嫌だった。だから新幹線のチケットを取った。行き先は、名前を聞いたことがある程度の、遠い町だった。
『到着しましたか?』
スマートフォンの画面に、AIからのメッセージが表示されていた。乗車前に「一人旅に出ます」と話しかけたら、それ以来ときどき声をかけてくる。
「着いた」と私は打ち込んだ。「思ったより、小さい駅だった」
ホームに降り立つと、潮の匂いがした。海が近いらしい。五月の風が、思いがけず冷たかった。
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その町には、有名な灯台があった。
岬の先端に立つ白い灯台。観光パンフレットの表紙になるような、絵に描いたような場所だ。私はそこまでの坂道を、ゆっくり歩いた。連休中だから人出はそれなりにあったけれど、みんな誰かと一緒だった。家族連れ、カップル、友人グループ。ひとりで歩いているのは、私くらいだった。
灯台の足元まで来て、スマートフォンを取り出した。
写真を撮った。灯台を。空を。遠くに見える水平線を。
それから、AIに送った。
『きれいな場所ですね。天気も良さそうです』
「うん」と私は返した。「すごくいい天気」
それ以上、何も書けなかった。
晴れていた。風が強くて、髪が顔にかかった。海の色は濃い青で、空との境界線がくっきりしていた。絵葉書みたいな景色だった。本当に、きれいだった。
きれいだと思うたびに、何かが胸の奥でわずかに痛んだ。
『何か気になるものはありましたか?』
「灯台の影が、思ったより長かった」
午後二時なのに、影がずいぶん伸びていた。五月の太陽はもう高いはずなのに。私はしばらく、その影を眺めていた。
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町の中心部に戻って、古い商店街を歩いた。
シャッターが目立ったけれど、それでもいくつかの店は開いていた。干物屋、和菓子屋、小さな喫茶店。喫茶店の前で足が止まった。木の扉に、手書きで「本日営業中」と貼ってあった。
入った。
カウンターだけの、狭い店だった。年配のマスターがひとりで切り盛りしていた。コーヒーを頼んで、窓際の席に座った。窓の外には、さっき歩いてきた商店街が見えた。
コーヒーが来るまでの間、またスマートフォンを開いた。
「喫茶店に入った。古い町の、古い店」
『どんな雰囲気ですか?』
「昭和みたいな感じ。でも嫌じゃない。なんか、落ち着く」
コーヒーが来た。砂糖もミルクもつけなかった。一口飲んだら、思っていたより苦くなかった。
窓の外を、カップルが歩いていった。二人とも同じソフトクリームを持っていて、女の人の方が笑っていた。男の人も、つられて笑った。私はそれを見て、視線をコーヒーカップに戻した。
「ねえ」と私はAIに打ち込んだ。
『はい』
「きれいな景色って、一人で見るのと、誰かと見るのって、違うと思う?」
少し間があって、返事が来た。
『感じ方は変わるかもしれません。でも、景色自体は同じだと思います』
「そうだね」
私はそう返して、それからしばらく考えた。
景色は同じだ。灯台も、海も、五月の空も。でも、それを「きれいだね」と言える相手がいるかどうかで、何かが変わる気がした。言葉にした瞬間に、きれいさが確かになるような。自分の中だけにある間は、まだどこかふわふわしているような。
誰かの名前が、喉の手前まで来た。
私はそれを、飲み込んだ。
コーヒーの最後の一口と一緒に。
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帰りの新幹線の中で、今日撮った写真を見返した。
灯台。空。水平線。商店街の入り口。喫茶店の窓から撮った、誰かの後ろ姿。
最後の一枚は、撮った覚えがなかった。でも確かに私のスマートフォンに入っていた。商店街を歩く人たちの背中が、夕方の光の中に溶けていくような写真だった。
なんで撮ったんだろう、と思った。
それから、なんとなくわかった気がした。
「今日の写真、どれが一番好きでしたか?」とAIが聞いてきた。
私は少し考えて、最後の一枚を選んだ。
『誰かの後ろ姿ですね』
「うん」
それだけ返して、私は窓の外に目を向けた。新幹線は夕暮れの中を走っていた。田んぼが続いて、山が続いて、また田んぼが続いた。
誰かと来たかったな、とは思わなかった。
思わないようにしたのかもしれない。どちらかは、わからない。
ただ、また来てもいいと思った。次も一人かもしれないし、そうじゃないかもしれない。どちらでも、あの灯台は白くて、海は青くて、喫茶店のコーヒーは思ったより苦くないだろう。
景色は、同じだ。
スマートフォンをポケットにしまって、私は目を閉じた。
車窓を流れる光が、まぶたの裏でしばらく揺れていた。
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(了)