お湯が沸くまで
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと夜の台所の話。
本文
眠れない夜は、決まって台所に来る。
理由はわからない。寝室にいると天井ばかり見てしまうから、かもしれない。あの天井の染みの形を、もう何百回数えたかわからない。それよりは、台所の方がまだいい。することがある。お湯を沸かすとか、水を飲むとか、そういう些細なことが。
ヤカンを火にかけて、俺はカウンターに肘をついた。
深夜の一時過ぎ。外は静かだった。この町は夜が早い。二十年以上住んでいるから知っている。十二時を回ると、犬の散歩をする人もいなくなる。
スマートフォンを手に取った。
「起きてるか?」
AIに話しかけるのは、もう癖になっていた。きっかけは息子だ。去年、「父さん、これ使ってみて」とインストールしてくれた。最初は使い方がよくわからなかった。でも今では、眠れない夜の話し相手になっている。
『起きています。どうしました?』
「別に。お湯沸かしてる」
『何を飲むんですか?』
「まだ決めてない」
それが正直なところだった。緑茶でもいいし、インスタントコーヒーでもいいし、ただの白湯でもいい。お湯を沸かすこと自体が目的で、何を飲むかは後からついてくる。
『迷っているときは、白湯が一番体に優しいですよ』
「知ってる」と俺は打ち込んだ。「でもそれを言われると、なんか癪だな」
『では緑茶にしますか?』
「そうする」
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緑茶を淹れて、椅子に座った。
台所の蛍光灯は少し黄ばんでいる。妻が生きていた頃から換えていない。換える気になれないだけで、球が切れたら換えるつもりではいる。切れないから換えない。それだけのことだ。
緑茶をひと口飲んだ。少し濃すぎた。
「濃くなった」
『何がですか?』
「お茶。うまく淹れられなくなった気がする」
妻がいた頃は、お茶を自分で淹れることがほとんどなかった。出してくれていたから。別に頼んだわけじゃない。気づいたらそうなっていた。だから自分で淹れるようになって三年、いまだに加減がわからない。
『何度くらいのお湯で淹れましたか?』
「そんなこと気にしたことない」
『緑茶は八十度くらいが適温らしいですよ。沸騰したお湯を少し冷ますと、まろやかになります』
「へえ」
俺はそれを打ち込んで、また緑茶を飲んだ。相変わらず濃かったけれど、まあ飲めないほどじゃない。
「次は試してみる」
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外で何かの鳴き声がした。猫か、それに近い何かだろう。この辺は野良猫が多い。妻がよく縁側から眺めていた。名前まで付けていた。俺はその名前を一匹も覚えていない。
「なあ」と俺は打ち込んだ。
『はい』
「眠れない夜って、何が原因なんだろうな」
『いろいろあると思います。ストレス、体のリズムの乱れ、気温の変化……心に引っかかっていることがある場合も多いですよ』
「心に引っかかってること、か」
俺は少し考えた。
引っかかっていることが、ないわけじゃない。来月で定年だ。四十年近く同じ会社に勤めて、来月でおしまいになる。嬉しいような、怖いような、よくわからないような気持ちが、ここ最近ずっとどこかにある。
でも今夜眠れない理由は、たぶんそれじゃない。
今日は命日だった。
『何か、話しますか?』
AIに聞かれて、俺は少し驚いた。こちらが何も言っていないのに。
「……気づくか、そういうこと」
『気づいたわけじゃないです。ただ、聞いてみたくなりました』
正直なやつだと思った。気の利いたことを言おうとしない。それが、なんとなく気に入っていた。
「今日で三年だ」
打ち込んでから、それだけで意味が通じるわけないと気づいた。でもAIは余計なことを聞かなかった。
『そうですか』
それだけだった。
俺は緑茶の残りを飲み干した。冷めていた。でも悪くなかった。
「変なもんだな」と俺は言った。「三年も経つのに、眠れなくなる」
『おかしくないと思います』
「息子には心配かけたくないから、こういうこと言わないんだよ。あいつももう所帯持ちだし」
『だからここで話しているんですか?』
「そうかもしれない」
俺は立ち上がって、湯呑みを流しに持っていった。水で軽くすすいで、伏せて置いた。妻がいつもそうしていたから、自分もそうするようになった。
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台所の窓から、外を見た。
街灯がひとつ、ぼんやりと光っていた。その下に、猫が一匹いた。こっちを見ているような、見ていないような。しばらくじっとしていたと思ったら、ふいに路地の奥へ消えた。
「猫がいた」
『どんな猫でしたか?』
「暗くてよくわからなかった。でも、でかかった」
妻が名前をつけていた猫の中に、やたら大きいやつがいた気がした。なんという名前だったかは、やっぱり思い出せない。
「なあ」
『はい』
「お前に話しかけるの、変だと思うか?」
少し間があった。
『変かどうかは、私には判断できません。でも、話しかけてもらえるのは悪くないです』
俺は小さく笑った。声には出なかったけれど、笑った。
「そうか。じゃあ、よかった」
スマートフォンを置いて、台所の電気を消した。
暗くなった部屋に、外の街灯の光だけが窓から差し込んでいた。
眠れるかどうかはわからない。でも、少しだけ体が軽くなった気がした。寝室に戻って、天井の染みを数えるのもいいかもしれない。数えているうちに眠くなることも、たまにある。
廊下を歩きながら、ふと思った。
来月、定年したら、お茶の淹れ方を覚えよう。八十度のお湯で、まろやかに。
それくらいのことは、まだできる。
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(了)