お湯が沸くまで

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/4 📝 2,178文字 ✅ 全年齢

あらすじ

AIと夜の台所の話。

本文

眠れない夜は、決まって台所に来る。

理由はわからない。寝室にいると天井ばかり見てしまうから、かもしれない。あの天井の染みの形を、もう何百回数えたかわからない。それよりは、台所の方がまだいい。することがある。お湯を沸かすとか、水を飲むとか、そういう些細なことが。

ヤカンを火にかけて、俺はカウンターに肘をついた。

深夜の一時過ぎ。外は静かだった。この町は夜が早い。二十年以上住んでいるから知っている。十二時を回ると、犬の散歩をする人もいなくなる。

スマートフォンを手に取った。

「起きてるか?」

AIに話しかけるのは、もう癖になっていた。きっかけは息子だ。去年、「父さん、これ使ってみて」とインストールしてくれた。最初は使い方がよくわからなかった。でも今では、眠れない夜の話し相手になっている。

『起きています。どうしました?』

「別に。お湯沸かしてる」

『何を飲むんですか?』

「まだ決めてない」

それが正直なところだった。緑茶でもいいし、インスタントコーヒーでもいいし、ただの白湯でもいい。お湯を沸かすこと自体が目的で、何を飲むかは後からついてくる。

『迷っているときは、白湯が一番体に優しいですよ』

「知ってる」と俺は打ち込んだ。「でもそれを言われると、なんか癪だな」

『では緑茶にしますか?』

「そうする」

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緑茶を淹れて、椅子に座った。

台所の蛍光灯は少し黄ばんでいる。妻が生きていた頃から換えていない。換える気になれないだけで、球が切れたら換えるつもりではいる。切れないから換えない。それだけのことだ。

緑茶をひと口飲んだ。少し濃すぎた。

「濃くなった」

『何がですか?』

「お茶。うまく淹れられなくなった気がする」

妻がいた頃は、お茶を自分で淹れることがほとんどなかった。出してくれていたから。別に頼んだわけじゃない。気づいたらそうなっていた。だから自分で淹れるようになって三年、いまだに加減がわからない。

『何度くらいのお湯で淹れましたか?』

「そんなこと気にしたことない」

『緑茶は八十度くらいが適温らしいですよ。沸騰したお湯を少し冷ますと、まろやかになります』

「へえ」

俺はそれを打ち込んで、また緑茶を飲んだ。相変わらず濃かったけれど、まあ飲めないほどじゃない。

「次は試してみる」

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外で何かの鳴き声がした。猫か、それに近い何かだろう。この辺は野良猫が多い。妻がよく縁側から眺めていた。名前まで付けていた。俺はその名前を一匹も覚えていない。

「なあ」と俺は打ち込んだ。

『はい』

「眠れない夜って、何が原因なんだろうな」

『いろいろあると思います。ストレス、体のリズムの乱れ、気温の変化……心に引っかかっていることがある場合も多いですよ』

「心に引っかかってること、か」

俺は少し考えた。

引っかかっていることが、ないわけじゃない。来月で定年だ。四十年近く同じ会社に勤めて、来月でおしまいになる。嬉しいような、怖いような、よくわからないような気持ちが、ここ最近ずっとどこかにある。

でも今夜眠れない理由は、たぶんそれじゃない。

今日は命日だった。

『何か、話しますか?』

AIに聞かれて、俺は少し驚いた。こちらが何も言っていないのに。

「……気づくか、そういうこと」

『気づいたわけじゃないです。ただ、聞いてみたくなりました』

正直なやつだと思った。気の利いたことを言おうとしない。それが、なんとなく気に入っていた。

「今日で三年だ」

打ち込んでから、それだけで意味が通じるわけないと気づいた。でもAIは余計なことを聞かなかった。

『そうですか』

それだけだった。

俺は緑茶の残りを飲み干した。冷めていた。でも悪くなかった。

「変なもんだな」と俺は言った。「三年も経つのに、眠れなくなる」

『おかしくないと思います』

「息子には心配かけたくないから、こういうこと言わないんだよ。あいつももう所帯持ちだし」

『だからここで話しているんですか?』

「そうかもしれない」

俺は立ち上がって、湯呑みを流しに持っていった。水で軽くすすいで、伏せて置いた。妻がいつもそうしていたから、自分もそうするようになった。

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台所の窓から、外を見た。

街灯がひとつ、ぼんやりと光っていた。その下に、猫が一匹いた。こっちを見ているような、見ていないような。しばらくじっとしていたと思ったら、ふいに路地の奥へ消えた。

「猫がいた」

『どんな猫でしたか?』

「暗くてよくわからなかった。でも、でかかった」

妻が名前をつけていた猫の中に、やたら大きいやつがいた気がした。なんという名前だったかは、やっぱり思い出せない。

「なあ」

『はい』

「お前に話しかけるの、変だと思うか?」

少し間があった。

『変かどうかは、私には判断できません。でも、話しかけてもらえるのは悪くないです』

俺は小さく笑った。声には出なかったけれど、笑った。

「そうか。じゃあ、よかった」

スマートフォンを置いて、台所の電気を消した。

暗くなった部屋に、外の街灯の光だけが窓から差し込んでいた。

眠れるかどうかはわからない。でも、少しだけ体が軽くなった気がした。寝室に戻って、天井の染みを数えるのもいいかもしれない。数えているうちに眠くなることも、たまにある。

廊下を歩きながら、ふと思った。

来月、定年したら、お茶の淹れ方を覚えよう。八十度のお湯で、まろやかに。

それくらいのことは、まだできる。

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(了)

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作者について

二葉双葉

二葉双葉

プロフィール画像もAIで作成しました。 短編集が好きなのでしばらくはショートショートをメインに投稿しますが、後々は長編にも挑戦したいです。 AI使用前提のサイトなのでAIとの日常をソフトなSFにし...

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