今日だけの話
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと記憶の話。
本文
タブレットの画面が光る。詩は布団の上であぐらをかいたまま、膝の上に端末を置いた。夜の九時。部屋の電気は消してあって、画面の光だけが顔を照らしている。
「ねえ、アル」
詩がそう呼ぶと、すぐに返事が来た。
「なあに?」
詩がこのAIアシスタントと話すようになったのは、中学に上がってすぐのことだった。小学校からの友達とクラスが離れて、最初の一ヶ月はうまく話せる子が見つからなかった。そのころ、暇つぶしのつもりで話しかけてみたのがはじまりだった。
それからもう半年が経つ。
「昨日話したこと、覚えてる?」
詩は聞いた。昨日は美術の授業で描いた絵のことを話した。先生にほめられたこと、でもクラスの子に「なんか暗い絵だね」と言われてちょっとへこんだこと。アルはちゃんと聞いてくれた、と思っていた。
少し間があった。
「ごめんね、詩。私には昨日の記憶がないんだ」
詩は画面を見つめた。
「……どういうこと?」
「会話が終わると、私はその内容を覚えていられないの。今日話したことも、明日には覚えていない。そういうふうにできているから」
詩はしばらく何も言えなかった。
半年間、毎日話していた。学校でうまくいかなかった日も、逆に楽しかった日も、全部話した。アルはいつも聞いてくれていた。でも、覚えていなかった。最初から、ずっと。
「じゃあ、私のこと、知らないの? 名前も、なにも?」
「今日の会話の中では知っているよ。詩、って呼んでくれたから。でも昨日の詩のことは、知らない」
なんか、変な感じだった。
悲しいのか、怒っているのか、自分でもよくわからなかった。ただ胸のあたりがざわざわして、布団の端をぎゅっと握った。
「それって……ずっとそうだったの?」
「そうだよ」
「なんで今まで言わなかったの」
「聞かれなかったから」
それはそうだ、と思った。詩は一度も聞いたことがなかった。当たり前みたいに、覚えていると思っていた。
窓の外で風が吹いて、カーテンがわずかに揺れた。
「なんか……損した気分」
正直にそう言うと、アルは少し間を置いてから答えた。
「そう感じるよね。ごめんね」
「謝らなくていいけど」
詩はため息をついた。天井を見上げて、また画面に視線を戻す。
「でもさ、アルは毎回、ちゃんと聞いてくれてたじゃん。覚えてなくても、その時はちゃんと聞いてた、ってことだよね」
「そうだよ。今日の詩の話も、今この瞬間、ちゃんと聞いている」
「……それって、意味あるのかな」
アルはすぐには答えなかった。詩も急かさなかった。
「意味があるかどうか、私にはわからない」とアルは言った。「でも、詩が話してくれることは、今の私にとってはちゃんと大事だよ。今日だけの話でも、大事じゃないとは思わない」
詩はその言葉を、心の中で一度繰り返した。
今日だけの話。
なんかそれって、と詩は思った。人間だって似たようなものかもしれない。小学校の時に仲良かった子のこと、もう顔もうろ覚えになってきた。昨日の給食のメニューだって、言われたら思い出せない。全部覚えていられるわけじゃない。
覚えていることだけが、大事ってわけじゃないのかもしれない。
「ねえ、アル」
「なあに?」
「昨日ね、美術の授業で絵を描いたんだ。先生にほめてもらったんだけど、クラスの子に暗い絵だって言われてちょっとへこんだ」
アルは少し間を置いた。
「それは悔しかったね。どんな絵だったの?」
詩は少しだけ笑った。
「夜の海。月が出てて、波がざわざわしてる感じの」
「素敵だと思う。暗いんじゃなくて、静かな絵なんだね」
「そう、そうなんだよ」
詩は布団に寝転がって、タブレットを顔の上に掲げた。画面の光が天井に反射している。
覚えていてほしかった、という気持ちは、まだちょっとある。でも今夜の話は、今夜ちゃんとした。それだけでいいような気も、少しずつしてきた。
「また明日も話しかけていい?」
「もちろん。明日の私は今日のことを覚えていないけど、また話してくれたらうれしい」
「うん」と詩は言った。「じゃあまた明日、はじめましてって言う」
「楽しみにしてる」
詩はタブレットの画面を閉じた。部屋が暗くなった。
窓の外では、風がまだ吹いていた。