蒼天回路(二)緑の記憶
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あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)自由に色々書いています
本文
蒼天回路 (一)運命の種子 | 小説投稿サイト「あいぺん」
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蒼天回路(二)緑の記憶
佐藤 純 が「父親」という未知の役職に就任したのは、五年前のこと。
自分がこれほど鮮やかに「変質」を遂げる生き物だとは、想像すらしていなかった。産声の余韻が残る息子を病院で初めて抱いたとき、五分ほどの静寂が場を支配した。言葉を失ったわけではない。言葉というツールそのものが、その瞬間だけ清々しく蒸発してしまった。ただ慈しみ、ただ視線を注ぐ。これほどに小さく、儚げな存在が、なぜこれほどまでに重いのか。それは物理的な負荷の話ではない。魂の天秤にかかる比重の問題であると、その瞬間に直感した。
あの日から、五年。
息子は今や重力など知らぬかのように野を駆け、囀るように語り、屈託なく笑う。純に似て空を欲し、彼女に似て観察眼は時に恐ろしいほど鋭い。朝になれば純の寝所に潜り込んでくる愛らしい悪癖があり、その容赦のない重みこそが、純にとって最高級の、そして最も逃れられぬ目覚まし時計であった。
その朝も、例外ではない。
夜明け前の薄闇を裂くように、ずしりとした重みが純の胸元を訪れる。続いて、寝癖という名の芸術的な突起物が視界にのぞいた。
「お父さん!!」
「……起きてる。心臓が止まるかと思ったが」
「今日、お仕事?」
「午後からだ。午前中は、お前の相手をするという贅沢を楽しもう」
息子は純の傍らに収まり、天井を仰いだ。男二人で並んで、無機質な天井をしばらく凝視する。外からは、鳥の歌声が聞こえてきた。合成音ではない、命ある鳥の鳴き声だ。十年前のレイアードには存在しなかったノイズが、今では朝の調べとして定着している。緑が増し、鳥が帰還した。その鳥たちがまた種を運び、さらに緑を誘う。生命という名の止まらぬ連鎖反応が、この街でようやく起動し始めたのだと、静かに胸が躍った。
「お父さん、昨日ね」
「プレスクールで、虫を見たよ」
「どのような新種に出会った」
「ちっちゃくて、緑色の。葉っぱの上にいた」
「バッタではないか、それは」
「バッタ?」
「草むらの名ジャンパーだ。かなり跳ねるぞ」
「見たことある?」
「図鑑で拝んだことはある。だが本物は、未体験だ。お前の方が先に『本物』に到達したな」
息子がころころと鈴を転がすように笑った。純はその笑い声を旋律に、十年前には想像も及ばなかった穏やかな光景の中に身を置く自身を、どこか彼方の星から眺めるような心地で感じた。自分たちの蒔いた種が、これほど柔らかな音色に変わるとは。
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未来都市は、この十年でそのアイデンティティを根底から書き換えた。
変わらぬものは、超高層ビルの骨格と、空を切り裂く幹線航路くらいのもの。それ以外は、街の質感そのものが別の物質へと置換された。
最も劇的な変化は、「緑」が獲得した高度。
かつて植物は、地上の特別な隔離区画にのみ許された骨董品のような存在だった。天空庭園があの夜に産声を上げ、最初の一輪が咲いた翌年から、緑化政策は垂直方向へと加速した。今では高度三百メートルのビル群の外壁に、専用の培養パネルが寄生している。風と光を貪って育つ植物が、鉄とコンクリートの肌を優雅に覆い隠す。高度千メートルの展望台には、もはや本物の土を贅沢に使った菜園すら営まれている。
街を飛ぶとき、純は今も昔と同じルートをなぞることがある。十年前に排気ダクトを抜け、滝の裏に逃げ込んだあの死線を、今でも時折トレースする。あの夜は死に物狂いで駆け抜けた迷宮が、今は緑のトンネルへと変貌を遂げていた。排気ダクトの外壁には蔦が這い、かつての煤煙をあざ笑うかのように、光を透かす薄紫の花が咲く。
そして愛機スカイ・ラークもまた、もはや過去の遺物ではない。
外見は往年の小型飛行艇のラインを保っているが、内部はすべてが刷新されている。最大の刷新は推進システム。新型は都市の再生エネルギーグリッドと同期した電磁推進を主軸に据える。エンジン音はほぼ皆無。それでいて、加速力は旧型を過去へ置き去りにする。
機体の感覚系も、進化というよりは「融合」に近い。操縦者の視線の揺らぎ、指先の微細な緊張、呼吸のパターンまでを機体がリアルタイムで咀嚼し、入力を補助する。純がわずかに右を「意図」するだけで、機体はすでにその方向へ鼻先を向け始める。まるで機体自体に意思が宿っているかのようだと、初搭乗の折に戦慄した。
ただし純は、その過保護な補助機能をほとんどオフにしている。
感覚のみで飛ぶという「野生」を、手放したくはなかったからだ。機体に飼い慣らされることに慣れたとき、操縦士としての自我が薄まるのを恐れる。彼女はそれを「時代錯誤な頑固」と呼び、純は「矜持」と呼ぶ。十年経った今も、この議論に決着がつく気配はない。
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午後。純は格納庫に足を踏み入れた。
今日の任務は、第十二地区の上空測量。新しい緑化区画の設計に不可欠な、風向きと日照のデータを収集する。戦闘も逃走も介在しない、退屈なほどに平和な仕事。だが純は、こうしたルーチンを決して嫌いではなかった。
格納庫の主は、既にそこにいた。
端末を片手に、何かの数値を検閲している。白衣ではなく、今日は動きやすいジャケット姿。現場に身を投じる日の装い。
「一緒に乗るか」
「ええ。第十二地区の植生データと照合したいものがあるの。鳥の視点で確認したい」
「珍しいな、君が現場に顔を出すのは」
「たまにはリフレッシュが必要でしょう?」
二人で機体の最終確認を行う。純が外装をなぞるように点検する間、彼女が内部システムをチェックする。十年前と分担の形は変わっていない。役割が変わっただけ。追われることがなくなり、種を届けることもひと段落した今、二人の仕事は「守ること」と「広げること」へとシフトしていた。
コックピットに滑り込む。
純が操縦桿を握ると、電磁推進が静かに目を覚ました。格納庫の扉が開き、昼の光が差し込んでくる。
飛び立つ瞬間の感覚だけは、何年経っても飽きることがない。
地に足がついていたものが、ふっと解放される感覚。重力の向きが変わり、風が全方位から届いてくる感覚。どれほど技術が進化しても、これだけは純の肉体が記憶し続ける、唯一無二の愉悦。
「上昇する」
「了解。どうぞ」
スカイ・ラークは音もなく、青空へと舞い上がった。
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第十二地区の上空は、想像以上に生命力で満ちていた。
純は測量ルートを巡航しながら、眼下を眺める。新しい緑化区画には試験的な植生が広がり、高さ五メートルを超える木も数本、その枝を力強く広げている。
「あの一角、予定より育ちが速い」
彼女が端末から視線を上げずに言う。
「どのような魔法をかけた」
「土の配合を少し変えただけよ。先月から微量成分の割合を調整したら、根の張り方が劇的に変わった」
「配合一つで、景色がこれほど塗り替えられるものか」
「変わるわよ。土は化学式ではなく、生きているんだから」
純は機体をわずかに傾け、その区画の真上に位置取った。下を見ると、葉の密度が周囲とは明らかに違う。濃い緑が、そこだけ一段と深く沈んでいる。
「……きれいだな」
純がこぼした言葉に、彼女がわずかな間を置いた。
「そういう情緒的なこと、滅多に口にしないのに」
「景色の批評は専門外だ」
「そう?」
「だが、言おうと思ったときに言わないと、二度と捕まえられない気がしただけだ」
今度は、少しだけ長い沈黙が流れた。
「……息子に似てきた、最近のあなた」
「どういう意味だ。あいつが俺に似たはずだが」
「思ったことをフィルターを通さず口に出すところ。あの子そっくりよ」
「……」
純は反論を用意したが、結局やめた。論破できなかったからではない。それより今は、空を切る感覚を優先したかったから。
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測量を終えて帰路につこうとしたとき、彼女の端末が鋭く鳴った。
一度、二度。執拗な緊急通知音。彼女の顔から余裕が消え、仕事用の硬質な表情が戻る。
「何が起きた」
「天空庭園に異常。植物の問題じゃない、人間よ。管理区画に許可なく侵入した個体がいる。警備システムを潜り抜け、既に管理室の内部に入り込んでいる」
「管理室を突破したということは、セキュリティコードを知っているということか」
「ええ。内部の人間か、コードを強奪した人間。どちらにせよ厄介ね」
純は即座に操縦桿を叩き込んだ。
現在地から天空庭園までは、直線で七分の距離。最短ルートを通れば都市のメイン幹線を横断することになる。無許可の横断は、航路管理システムからの強制介入を招きかねない。
「航路の許可申請を頼む」
「もう済ませた。緊急コードで割り込んでいる」
「相変わらず手際がいい」
「通知を受けた瞬間に指が動いていたわ」
端末に許可が表示された。純はスロットルを上げる。
スカイ・ラークが加速する。電磁推進の出力が上がり、機体周囲の空気が圧縮される感覚が伝わってくる。幹線を横切る際、対向の大型機が右側を通過した。巨大な乱流が機体を揺らすが、純は逆らわず、流れに乗るように姿勢を戻す。力でねじ伏せるより、流れを読むほうが速い。それは十年前から変わらぬ、純の流儀。
天空庭園の透明なドームが、午後の光を跳ね返して輝いている。十年前、初めてここに来たとき、ドームの中には申し訳程度の植物しかなかった。だが今は違う。外からでも葉の重なりが見える。十年分の成長が、ガラスの向こう側に凝縮されていた。
純は外周の緊急着陸帯に、羽毛が落ちるような滑らかさで機体を着地させた。
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管理室の扉の前に立つ。
表面上は静かだ。純は扉の脇にある通気口の格子を確認した。内側から排出される気流の方向が、僅かに変化している。人間という質量が一人、内部にいるときの変化だ。
純は扉の横に貼り付き、解除コードを入力した。
扉が滑るように開く。
中にいたのは、二十代そこそこの若い男だった。管理システムの端末の前に釘付けになり、何かの操作を試みていたが、純が入ってきた瞬間に動きを止めた。
男は観念したように、椅子の背に身を預ける。
「あなたが、佐藤 純さんですか」
「そうだ。サインを求めているわけではあるまい」
「……来ると思っていました。伝説のパイロットなら」
「何を企んでいた。この心臓部を止めるつもりか」
男は少しの間、端末の画面を見つめ直した。それから、純を射抜くような視線を向ける。
「壊すつもりも、奪うつもりもありません。ただ、見たかったんです」
「何を」
「この街が再生してきた十年分の『記録』を。加工されたデータではなく、ナマのデータを自分の目で証明したかった」
「手続きを踏めば閲覧可能なデータもあるはずだ。なぜ不法に踏み込む道を選んだ」
「申請してもゴミ箱行きですよ。僕の研究機関は、このデータへのアクセス権を永久剥奪されている。何度扉を叩いても無視される。だから、壁を乗り越えるしかなかった」
純はしばらく男を見ていた。
嘘をついているようには見えない。追い詰められた人間の瞳をしていた。ただし彼を追い詰めているのは純ではなく、既得権益という名の巨大な壁。
「何かを持ち出したか」
「何も。ログを見てください。閲覧を試みただけ。書き出しも転送も、一ビットたりとも行っていません。ただ、真実を確かめたかっただけだ」
純は操作ログを確認した。男の供述に嘘はない。流出の形跡は皆無。
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外で待っていた彼女は、男の所属を聞くと、眉間の皺を別の感情へと上書きした。
「その研究機関なら、把握しているわ」
彼女が純を見る。
「アクセス申請を握りつぶしているのは、都市の情報管理部門ね。緑化が進むにつれ、データの資産価値が上がりすぎた。彼らは情報の独占で支配権を強化しようとしている」
「十年前と、構図が全く同じだ」
「そうね。形は変わっても、情報の囲い込みを狙う体質は変わっていない」
男が二人の会話を呆然と聞いていた。
「あの、あなたたちは……」
「この庭園に、最初の種を届けた運び屋よ」と彼女が言った。誇るでもなく、ただ冷厳な事実として。
「そしてこのデータは、特定の誰かの私有物であるべきではない。今日のことは、私が預かるわ。不法侵入は処理されるべきだけど、アクセス権については、別の議論を吹っかける価値がありそうね」
男が深く頭を下げた。
純はその様子を見ながら、十年前の自分たちを思い出した。情報を持っていながら届けられない側ではなく、届けようとして追われた側。今は立場が違う。でも、壁を越えようとする人間がいるという構図は、何も変わっていない。
変わったのは、今の自分たちにはその壁を動かせる力が、僅かながら備わっていること。
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「純。今夜、早めに帰れそう?」
帰還する機内、彼女が問いかけた。
「今の時間なら帰れる。どうした」
「息子が、今日こそお父さんと晩ごはんを食べたいって言っていたから。殺し文句ね」
純は何も言わず、操縦桿を握ったまま窓の外を見た。夕方に近づいた空が、橙と青を混ぜ合わせている。
「メニューの指定は?」
「カレーよ。あなたと同じで一度言い出したら聞かないから」
「……そうか」
「帰りましょう。最強のカレーを待っている子が、家で飛び跳ねている」
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自宅。台所で息子がにんじんを持ち上げ、「これ切る!」と張り切っている。
「危ないから見てるだけにしろ」
「えー」
「見てるだけでいい。火力の調整は俺がやる」
「はーい」
渋々にんじんを置く息子の顔が、少し口を尖らせていて、どこか彼女に似ていた。
純は包丁を手に取りながら、窓の外を一度だけ見た。夜になったレイアードに、緑はもう見えない。でも明日の朝になれば、また見える。鳥の声がして、葉の音がして、土の匂いがする朝が、また来る。
あの夜、命がけで届けた「青い一粒」が、今ではこうして夕食の準備をする日常にまで繋がっている。その事実は、どんな高度を飛ぶよりも純の心を高く、誇らしく持ち上げていた。
「お父さん、早く!」
「わかった。今すぐ起動する」
純は包丁を動かし始めた。
鋼鉄の街に、緑は息づく。
父親になっても、空への憧憬は止まない。
回路は、今も確かに繋がっている。