その力は、僕のものではなかった
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
魔王を倒し、勇者として讃えられた男・佐伯祐真は、三年後に知る。 自分の勝利の裏で、誰かの“明日”が奪われていたことを。 聖なる力だと思っていた器は、力を生むものではなかった。 本来なら別々の場所で芽吹くはずだった、誰かの余白を束ねるものだった。 器を返すため、祐真は本来の継承者リネアを探す。 だが彼女は、静かに告げる。 「受け取れません」 返せば終わると思っていた男と、 受け取ればまた奪うことになると知っている女。 これは、正しさが誰かを救い、同時に誰かを傷つける世界で、 何も持たない体で踏み出す、贖罪の一歩を描いた短編です。
本文
俺が魔王を倒した日、同じ村で、一人の農夫が翌朝から畑に出られなくなった。
俺はそれを、三年後に知る。
その日、俺は剣を振り下ろした。
空は割れ、黒い城は光にほどけ、人々は俺の名を叫んだ。
勇者ユリウス。
王都の広場で、知らない子どもが俺の名を呼んだ。
老いた王が俺の手を取った。
鐘が鳴り、花びらが降り、誰かが泣いていた。
その朝、農夫ダンは鍬を持ち上げようとして、膝から崩れた。
俺の勝利と、男の沈黙は、同じ器の中に入っていた。
オルドは、俺の前に地図を広げた。
古い羊皮紙だった。
端は黒く焦げ、海のあたりには湿った染みが広がっていた。山脈は銀の線で描かれている。王都には赤い印。魔王城の跡には、黒い円。
その円から、細い線がいくつも伸びていた。
「これは何だ」
俺が尋ねると、オルドは答えなかった。
代わりに、枯れた指で線のひとつをなぞった。
線の先には、小さな村の名があった。
「ダン」
オルドが言った。
聞き覚えのない名だった。
いや、聞いたことはあったのかもしれない。祝宴の名簿か、褒賞の記録か、王都へ届いた地方報告のどこかで。
俺の記憶には残っていなかった。
「農夫です」
オルドは、ただそれだけ言った。
地図の隅に、短い書き込みがあった。
魔王討伐の翌朝より歩行困難。右腕に力入らず。鍬を握れず。
俺は、その文字を読んだ。
読めた。
読めてしまった。
「病か」
自分の声が、思ったより乾いていた。
オルドは首を振らなかった。
頷きもしなかった。
「同じ朝でした」
それだけ言った。
胸の奥で、何かが少しだけずれた。
だが俺は、まだそれを受け取らなかった。
「偶然だろう」
オルドは次の線をなぞった。
北の鉱山町。
書き込み。
魔王討伐の夜、坑夫三名、視力低下。鉱脈の光を見分けられず。
次の線。
港町。
船大工の娘、右手の震え。帆の縫い目を結べず。
次の線。
修道院。
見習い治癒師、祈りの発動不能。以後、術式反応なし。
線は、まだあった。
まだ、あった。
俺は地図から顔を上げた。
「何が言いたい」
オルドは、ようやく俺を見た。
責める目ではなかった。
憐れむ目でもなかった。
ただ、長く閉じていた帳簿を開いた者の目だった。
「あなたが勝った日、多くの者が、少しずつ勝てなくなりました」
部屋の火が、小さく鳴った。
「俺が奪ったとでも言うのか」
オルドは答えなかった。
その沈黙が、答えよりもひどかった。
俺は腰の器に手をやった。
革袋の中で、それはいつものように冷たかった。戦場では熱を持った。俺が剣を振るうたび、血のように脈打った。魔王の喉元へ踏み込んだ時など、掌の骨まで光った。
あれは、俺に力をくれたものだ。
そう思っていた。
「器は、力を生むものではありません」
オルドが言った。
俺は手を止めた。
「では何だ」
「集めるものです」
地図の上の細い線が、火の揺れで動いて見えた。
「本来なら、別々の場所で芽吹くはずだったものを、ひとつに束ねる。強さ。祈り。誰かが明日使うはずだった、ほんのわずかな余白」
オルドの指が、黒い円の上で止まった。
「それを、あなたの一振りに集めた」
俺は笑おうとした。
笑えなかった。
「俺は世界を救った」
「はい」
オルドは、すぐに言った。
その早さが、かえって残酷だった。
「あなたは魔王を倒しました」
火がまた鳴った。
「それは、記録から消えません」
オルドは地図を畳まなかった。
「ただし、記録には続きがあります」
俺は何も言えなかった。
オルドの指が、地図の端にある小さな村へ戻った。
「ダンは、今年も畑に出ていません」
リネアという名を、オルドは最後に言った。
探すのに、二週間かかった。
彼女は、山裾の小さな村で薬草を干していた。
軒下には、束ねられた葉がいくつも吊るされていた。乾いた青い匂いがした。風が吹くたび、葉の先がこすれ、薄い紙をめくるような音がした。
俺は革袋から器を取り出し、かつて王が勲章を受け取った時と同じ高さで、リネアの前に差し出した。
リネアは、手を伸ばさなかった。
驚きもしなかった。
怒りもしなかった。
ただ、器を見ていた。
「……知っています」
先に口を開いたのは、彼女だった。
「器のことが、ですか」
「あなたのことが」
風が止まった。
軒下の葉だけが、遅れて一度鳴った。
「わたしが継承者だと、誰かに聞きましたか」
「預言者に」
リネアは頷かなかった。
ただ、器から目を離さなかった。
「受け取れません」
その声は、拒絶というより、以前から決まっていたことを読み上げるようだった。
「なぜ」
俺は尋ねた。
リネアは、ようやく俺を見た。
「分かるから、です」
「何が」
彼女は答えなかった。
軒下で、薬草の束がまた鳴った。
彼女が語ったのは、三日後だった。
薬草は、祠の奥に一束だけ残っていた。
村では、あれを摘んではならないことになっていた。
誰が決めたのかは知らない。だが祖母も、薬師も、祭司も、同じ顔で言った。
あれは最後の時にだけ使う草だ、と。
その夜、最後の時を迎えていたのは、鍛冶屋の息子だった。
七つの子どもが、喉の奥で笛のような音を鳴らしていた。母親は髪を振り乱し、土間に額をこすりつけていた。父親は斧を持ったまま立ち尽くしていた。薪を割るための斧ではなかった。神にも、人にも、何かを叩きつけるための斧だった。
わたしは祠へ走った。
鍵は古かった。
石で二度叩くと、錆びた音を立てて外れた。
薬草は、乾いた月の匂いがした。
苦く、青く、指先に粉が残った。
それを煎じて飲ませると、夜明け前に子どもの息は静かになった。
死んだのではない。
眠ったのだ。
母親が泣いた。
父親は斧を落とした。
わたしの手を握り、「あなたは命の恩人だ」と言った。
その日の昼過ぎ、川向こうの家で女が死んだ。
産後の熱だった。
薬師が言った。
あの草があれば、助かったかもしれない、と。
わたしは、その時初めて知った。
最後の時は、一つではない。
助けた子どもは、今も生きている。
春になると畑を走り、母親の後ろで土を跳ね上げる。
死んだ女の家では、赤子が泣かなくなった。
泣いても、抱き上げる腕がひとつ足りなかった。
わたしは村を出た。
追われたわけではない。
誰もわたしを責めなかった。
それが、いちばん重かった。
リネアが語り終えたあと、しばらく薬草の音だけがしていた。
乾いた葉が、軒下で小さく擦れ合っている。
三日前にも聞いた音だった。
あの時は、ただの風の音だと思っていた。
「俺は、知らなかった」
そう言った。
口に出した途端、その言葉が自分を守るための薄い板に聞こえた。
知らなかった。
だから、何だ。
ダンは今年も畑に出ていない。
「……僕は、知らなかったと言えば済むと思っていた」
リネアは、器を見なかった。
俺も見なかった。
「知らなかったなら、軽くなるんですか」
静かな声だった。
俺を責める声ではなかった。
たぶん、自分にも向けた声だった。
「軽くなると思っていました」
喉の奥が、少しだけ熱かった。
「今は、思っていません」
リネアは何も言わなかった。
薬草の束が、また一度鳴った。
「……わたしも」
それだけ言った。
続きはなかった。
「……分かりました」
それだけ言った。
俺は器を革袋へ戻そうとして、袋の口をうまく開けられなかった。
「待ってください」
声が出るより先に、リネアの手が動いていた。
俺の手が止まる。
リネアは、自分の手を見ていた。
まるで、誰かに先に動かされたものを見るように。
「わたしが受け取らなければ」
彼女は、続きを探すように止まった。
軒下の薬草が、風もないのに小さく鳴った。
「……また、誰かが立てなくなります」
俺は何も言わなかった。
頷かなかった。
首も振らなかった。
答えを持っているように見えたくなかった。
リネアの手が、器へ伸びた。
震えていた。
だが、止まらなかった。
彼女の指が器に触れた瞬間、革袋の中で冷えていたものが、初めて沈黙した。
光はなかった。
鐘も鳴らなかった。
世界が救われる音など、どこからもしなかった。
リネアは器を両手で受け取った。
その重さに、ほんの少し肩が沈んだ。
「これで、正しいんでしょうか」
俺には答えられなかった。
リネアは、器を胸に抱いたまま、軒の奥へ歩いていった。
振り返らなかった。
俺は、その場に立ったままでいた。
一歩目は、ひどく遅かった。