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その力は、僕のものではなかった

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/10 📝 3,436文字 ✅ 全年齢

あらすじ

魔王を倒し、勇者として讃えられた男・佐伯祐真は、三年後に知る。 自分の勝利の裏で、誰かの“明日”が奪われていたことを。 聖なる力だと思っていた器は、力を生むものではなかった。 本来なら別々の場所で芽吹くはずだった、誰かの余白を束ねるものだった。 器を返すため、祐真は本来の継承者リネアを探す。 だが彼女は、静かに告げる。 「受け取れません」 返せば終わると思っていた男と、 受け取ればまた奪うことになると知っている女。 これは、正しさが誰かを救い、同時に誰かを傷つける世界で、 何も持たない体で踏み出す、贖罪の一歩を描いた短編です。

本文

 俺が魔王を倒した日、同じ村で、一人の農夫が翌朝から畑に出られなくなった。

 俺はそれを、三年後に知る。

 その日、俺は剣を振り下ろした。

 空は割れ、黒い城は光にほどけ、人々は俺の名を叫んだ。

 勇者ユリウス。

 王都の広場で、知らない子どもが俺の名を呼んだ。

 老いた王が俺の手を取った。

 鐘が鳴り、花びらが降り、誰かが泣いていた。

 その朝、農夫ダンは鍬を持ち上げようとして、膝から崩れた。

 俺の勝利と、男の沈黙は、同じ器の中に入っていた。

 オルドは、俺の前に地図を広げた。

 古い羊皮紙だった。

 端は黒く焦げ、海のあたりには湿った染みが広がっていた。山脈は銀の線で描かれている。王都には赤い印。魔王城の跡には、黒い円。

 その円から、細い線がいくつも伸びていた。

「これは何だ」

 俺が尋ねると、オルドは答えなかった。

 代わりに、枯れた指で線のひとつをなぞった。

 線の先には、小さな村の名があった。

「ダン」

 オルドが言った。

 聞き覚えのない名だった。

 いや、聞いたことはあったのかもしれない。祝宴の名簿か、褒賞の記録か、王都へ届いた地方報告のどこかで。

 俺の記憶には残っていなかった。

「農夫です」

 オルドは、ただそれだけ言った。

 地図の隅に、短い書き込みがあった。

 魔王討伐の翌朝より歩行困難。右腕に力入らず。鍬を握れず。

 俺は、その文字を読んだ。

 読めた。

 読めてしまった。

「病か」

 自分の声が、思ったより乾いていた。

 オルドは首を振らなかった。

 頷きもしなかった。

「同じ朝でした」

 それだけ言った。

 胸の奥で、何かが少しだけずれた。

 だが俺は、まだそれを受け取らなかった。

「偶然だろう」

 オルドは次の線をなぞった。

 北の鉱山町。

 書き込み。

 魔王討伐の夜、坑夫三名、視力低下。鉱脈の光を見分けられず。

 次の線。

 港町。

 船大工の娘、右手の震え。帆の縫い目を結べず。

 次の線。

 修道院。

 見習い治癒師、祈りの発動不能。以後、術式反応なし。

 線は、まだあった。

 まだ、あった。

 俺は地図から顔を上げた。

「何が言いたい」

 オルドは、ようやく俺を見た。

 責める目ではなかった。

 憐れむ目でもなかった。

 ただ、長く閉じていた帳簿を開いた者の目だった。

「あなたが勝った日、多くの者が、少しずつ勝てなくなりました」

 部屋の火が、小さく鳴った。

「俺が奪ったとでも言うのか」

 オルドは答えなかった。

 その沈黙が、答えよりもひどかった。

 俺は腰の器に手をやった。

 革袋の中で、それはいつものように冷たかった。戦場では熱を持った。俺が剣を振るうたび、血のように脈打った。魔王の喉元へ踏み込んだ時など、掌の骨まで光った。

 あれは、俺に力をくれたものだ。

 そう思っていた。

「器は、力を生むものではありません」

 オルドが言った。

 俺は手を止めた。

「では何だ」

「集めるものです」

 地図の上の細い線が、火の揺れで動いて見えた。

「本来なら、別々の場所で芽吹くはずだったものを、ひとつに束ねる。強さ。祈り。誰かが明日使うはずだった、ほんのわずかな余白」

 オルドの指が、黒い円の上で止まった。

「それを、あなたの一振りに集めた」

 俺は笑おうとした。

 笑えなかった。

「俺は世界を救った」

「はい」

 オルドは、すぐに言った。

 その早さが、かえって残酷だった。

「あなたは魔王を倒しました」

 火がまた鳴った。

「それは、記録から消えません」

 オルドは地図を畳まなかった。

「ただし、記録には続きがあります」

 俺は何も言えなかった。

 オルドの指が、地図の端にある小さな村へ戻った。

「ダンは、今年も畑に出ていません」

 リネアという名を、オルドは最後に言った。

 探すのに、二週間かかった。

 彼女は、山裾の小さな村で薬草を干していた。

 軒下には、束ねられた葉がいくつも吊るされていた。乾いた青い匂いがした。風が吹くたび、葉の先がこすれ、薄い紙をめくるような音がした。

 俺は革袋から器を取り出し、かつて王が勲章を受け取った時と同じ高さで、リネアの前に差し出した。

 リネアは、手を伸ばさなかった。

 驚きもしなかった。

 怒りもしなかった。

 ただ、器を見ていた。

「……知っています」

 先に口を開いたのは、彼女だった。

「器のことが、ですか」

「あなたのことが」

 風が止まった。

 軒下の葉だけが、遅れて一度鳴った。

「わたしが継承者だと、誰かに聞きましたか」

「預言者に」

 リネアは頷かなかった。

 ただ、器から目を離さなかった。

「受け取れません」

 その声は、拒絶というより、以前から決まっていたことを読み上げるようだった。

「なぜ」

 俺は尋ねた。

 リネアは、ようやく俺を見た。

「分かるから、です」

「何が」

 彼女は答えなかった。

 軒下で、薬草の束がまた鳴った。

 彼女が語ったのは、三日後だった。

 薬草は、祠の奥に一束だけ残っていた。

 村では、あれを摘んではならないことになっていた。

 誰が決めたのかは知らない。だが祖母も、薬師も、祭司も、同じ顔で言った。

 あれは最後の時にだけ使う草だ、と。

 その夜、最後の時を迎えていたのは、鍛冶屋の息子だった。

 七つの子どもが、喉の奥で笛のような音を鳴らしていた。母親は髪を振り乱し、土間に額をこすりつけていた。父親は斧を持ったまま立ち尽くしていた。薪を割るための斧ではなかった。神にも、人にも、何かを叩きつけるための斧だった。

 わたしは祠へ走った。

 鍵は古かった。

 石で二度叩くと、錆びた音を立てて外れた。

 薬草は、乾いた月の匂いがした。

 苦く、青く、指先に粉が残った。

 それを煎じて飲ませると、夜明け前に子どもの息は静かになった。

 死んだのではない。

 眠ったのだ。

 母親が泣いた。

 父親は斧を落とした。

 わたしの手を握り、「あなたは命の恩人だ」と言った。

 その日の昼過ぎ、川向こうの家で女が死んだ。

 産後の熱だった。

 薬師が言った。

 あの草があれば、助かったかもしれない、と。

 わたしは、その時初めて知った。

 最後の時は、一つではない。

 助けた子どもは、今も生きている。

 春になると畑を走り、母親の後ろで土を跳ね上げる。

 死んだ女の家では、赤子が泣かなくなった。

 泣いても、抱き上げる腕がひとつ足りなかった。

 わたしは村を出た。

 追われたわけではない。

 誰もわたしを責めなかった。

 それが、いちばん重かった。

 リネアが語り終えたあと、しばらく薬草の音だけがしていた。

 乾いた葉が、軒下で小さく擦れ合っている。

 三日前にも聞いた音だった。

 あの時は、ただの風の音だと思っていた。

「俺は、知らなかった」

 そう言った。

 口に出した途端、その言葉が自分を守るための薄い板に聞こえた。

 知らなかった。

 だから、何だ。

 ダンは今年も畑に出ていない。

「……僕は、知らなかったと言えば済むと思っていた」

 リネアは、器を見なかった。

 俺も見なかった。

「知らなかったなら、軽くなるんですか」

 静かな声だった。

 俺を責める声ではなかった。

 たぶん、自分にも向けた声だった。

「軽くなると思っていました」

 喉の奥が、少しだけ熱かった。

「今は、思っていません」

 リネアは何も言わなかった。

 薬草の束が、また一度鳴った。

「……わたしも」

 それだけ言った。

 続きはなかった。

「……分かりました」

 それだけ言った。

 俺は器を革袋へ戻そうとして、袋の口をうまく開けられなかった。

「待ってください」

 声が出るより先に、リネアの手が動いていた。

 俺の手が止まる。

 リネアは、自分の手を見ていた。

 まるで、誰かに先に動かされたものを見るように。

「わたしが受け取らなければ」

 彼女は、続きを探すように止まった。

 軒下の薬草が、風もないのに小さく鳴った。

「……また、誰かが立てなくなります」

 俺は何も言わなかった。

 頷かなかった。

 首も振らなかった。

 答えを持っているように見えたくなかった。

 リネアの手が、器へ伸びた。

 震えていた。

 だが、止まらなかった。

 彼女の指が器に触れた瞬間、革袋の中で冷えていたものが、初めて沈黙した。

 光はなかった。

 鐘も鳴らなかった。

 世界が救われる音など、どこからもしなかった。

 リネアは器を両手で受け取った。

 その重さに、ほんの少し肩が沈んだ。

「これで、正しいんでしょうか」

 俺には答えられなかった。

 リネアは、器を胸に抱いたまま、軒の奥へ歩いていった。

 振り返らなかった。

 俺は、その場に立ったままでいた。

 一歩目は、ひどく遅かった。

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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