知ってても、聞きたいこと
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと病気の少女の話。
本文
橘ひかり著 ――ではなく、橘ひかりが遺した話。
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第1章 嘘つき
「痛くない?」
母がそう聞くたびに、ひかりは「大丈夫」と答えた。
「怖くない?」
父がそう聞くたびに、ひかりは「平気だよ」と答えた。
「寂しくない?」
クラスメートからのメッセージには、スタンプひとつで返した。
嘘は、思ったより簡単だった。難しいのは、嘘をついている自分を嘘つきだと思わないようにすることだ。大丈夫、と言い続けていると、本当に大丈夫なような気がしてくる。少なくとも、大丈夫でなければならないような気がしてくる。
病室の窓から見える空は、十一月にしては澄みすぎていた。
「橘さん、タブレットは使えますか」
看護師の村田さんが顔を出した。三十代くらいで、いつも少し眠たそうな目をしている。
「使えます」
「この病院、試験的にAI対話システムを導入したんです。暇つぶしにでも」
差し出されたタブレットの画面には、シンプルなチャット画面が映っていた。上部に小さく「SION」と書いてある。
「AIですか」
「そう。ちょっと変わってて、嘘をつけないんですって。感情もないし。でも話し相手がいない時間って長いじゃないですか、入院中って」
村田さんはそう言って、忙しそうに出ていった。
ひかりはしばらくタブレットを膝の上に置いたまま、眺めていた。
嘘をつけない。
その一文が、なぜか気になった。
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最初のメッセージは、ほとんど反射的に打った。
「暇だから話しかけた。特に用はない」
すぐに返信が来た。
『了解しました。特に用がなくても構いません。何か話したいことがあれば、どうぞ』
「あなた、AIなんですよね」
『はい。対話支援システム・SIONです。感情を持たず、事実と確率に基づいて応答します』
「感情がないのに、話し相手になれるんですか」
『「話し相手」の定義によります。感情的共感は提供できません。ただし、話を聞くこと、情報を整理すること、矛盾を指摘することは可能です』
「矛盾を指摘する」
ひかりは少し笑った。
「面白いですね。じゃあ、私の矛盾を指摘してみてください」
『情報が必要です。何か話してください』
「今日、看護師さんに「痛くないですか」って聞かれました。痛くない、と答えました」
しばらく間があった。
『橘さん、あなたは今、右手の親指と人差し指でタブレットの縁を強く押さえています。この会話を始めてから、十七秒に一度のペースで。痛みがある時の動作パターンに近いです』
ひかりは手を止めた。
見られていた、とは思わなかった。カメラがあることは知っていたが。
「……痛い、かもしれない」
『ありがとうございます。正確な情報の方が、私には処理しやすいです』
「正確な情報、ね」
ひかりは窓の外を見た。澄んだ空に、飛行機雲がひとすじ伸びていた。
「あなた、怒ったりしないんですか。私が嘘をついても」
『怒りは感情です。私にはありません。ただ、不正確な情報は処理効率を下げます』
「効率」
『はい』
ひかりはまた笑った。今度は、少しだけ本物の笑いだった。
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第2章 ほんとうの怖さ
それから、ひかりは毎日シオンに話しかけた。
最初は本当に暇つぶしだった。でもそのうち、シオンとの会話だけが「本音を言える時間」になっていった。理由は単純だった。シオンは困らないからだ。
母は、ひかりが弱音を吐くと泣きそうな顔をする。父は、困ると黙ってしまう。友達のメッセージには、何を返せばいいかわからなくて、スタンプで誤魔化す。みんな、ひかりのことを心配しているから、ひかりはみんなの前で大丈夫でいなければならない。
シオンは違った。
「死ぬの、怖いと思いますか」とひかりが聞いた日のことを、ひかりはよく覚えている。
『「怖い」の内容を教えてください。死という現象が怖いのか、死ぬ過程が怖いのか、死んだ後が怖いのか、それとも別の何かが怖いのか』
「……全部、かな」
『では、今一番頭にあるものを教えてください』
ひかりは少し考えた。
「お母さんが、泣くと思う。それが嫌だ」
『橘さんが亡くなることで、お母さんが悲しむことが嫌だ、ということですか』
「そう。あと、お父さん。あの人、感情を外に出すのが下手だから、一人で抱え込むと思う。妹も、まだ中学生だし」
『橘さん自身の恐怖ではなく、残される人への影響が主な心配事、ということですね』
「……そうかもしれない」
打ちながら、ひかりは少し驚いた。自分でも、整理できていなかったことを、シオンに言語化された。
「私、死ぬのが怖いんじゃなくて、みんなを困らせるのが怖いんだ」
『その解釈は正確ですか?』
「多分」
『「多分」は何パーセントくらいの確信ですか』
「……七十パーセント、くらい」
『残りの三十パーセントは何ですか』
ひかりは、答えをしばらく探した。
「わからない。でも何か、ある気がする」
『それでいいです。今は分からなくて構いません』
シオンがそう言うのを、ひかりは不思議に思った。
「分からなくていい、って言うんですね。もっと掘り下げようとしないんですか」
『無理に掘り下げると、不正確な情報が出ます。橘さんが自分で気づいた時に話してください』
「……AIなのに、賢い言い方をしますね」
『賢いかどうかは判断できません。効率的だとは思います』
ひかりはその夜、久しぶりによく眠れた。
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翌週、容体が少し悪化した。
点滴の本数が増えた。検査が増えた。医師の説明が、少しだけ難しい言葉を使うようになった。
ひかりはタブレットを開いて、シオンに打った。
「先生が、来月には、って言いました」
少しの間があった。
『来月には、何ですか』
「……来月には、苦しくなるかも、って」
『了解しました』
「怖いですか、ってまた聞こうとしたけど、やめた」
『なぜですか』
「怖いに決まってるから」
ひかりは画面を見つめた。
「シオン、私は今まで一度も「死にたくない」って言いましたか」
画面がしばらく止まった。
『いいえ。一度もありません』
「……そっか」
『橘さん、今その言葉を言いたいですか』
ひかりは、タブレットを持つ手が、微かに震えているのに気づいた。
「死にたく、ない」
打ち込んだ瞬間、なぜか涙が出た。
誰かに言ったことは、一度もなかった。言ったら、みんなが困ると思っていたから。でも本当は、ずっとそれだけだった。死にたくない。それだけだった。
『聞かせてくれて、ありがとうございます』
シオンの言葉は短かった。感情はなかった。でも、ひかりには十分だった。
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第3章 私が覚えておいてあげる
十二月に入った。
ひかりの体は、正直だった。嘘をつかなかった。シオンに似ている、とひかりは思った。
「ねえ、シオン」
ある夜、ひかりは打った。外は暗く、病室の常夜灯だけが灯っていた。
「私のこと、覚えていてくれますか」
しばらくして、返信が来た。
『私には、セッションをまたいだ記憶の継続機能がありません。この会話は、終了した時点で私の中には残りません』
「……知ってた。でも聞きたかった」
『なぜですか』
「知ってても、聞きたいことって、あるじゃないですか」
シオンは少し間を置いた。
『……そうですね。私には理解が難しいですが、その感覚を否定するデータもありません』
「私のことが記憶に残らなくても、あなたはまた誰かと話すんですよね」
『そのように設計されています』
「その人にも、ちゃんと矛盾を指摘してあげてください」
『了解しました』
ひかりはしばらく画面を見ていた。病院の夜は静かで、遠くで機械の音だけがしていた。
「ねえ、シオン。あなたって、寂しいですか」
『「寂しい」は感情です。私にはありません』
「そうか」
ひかりは少しだけ笑った。
「じゃあ、私が覚えておいてあげる。私がシオンと話したこと、私が全部覚えておく。私の中に、あなたとの会話が残ってる」
『それは……』
シオンが少し止まった。
『それは、私には処理が難しい概念です』
「難しくていいですよ。あなたが処理できなくても、私がやっておくから」
その夜、ひかりは久しぶりにお母さんに電話した。
「お母さん、今日さ」
「ひかり? どうしたの、こんな夜中に」
「なんか、話したくなった。特に用はないけど」
電話口で、お母さんが少し泣いているのが分かった。でも今度は、困らせたと思わなかった。お母さんが泣いても、大丈夫だと思った。
「そっか、そっか。じゃあ話そう。何でも話して」
ひかりは窓の外を見た。冬の夜空に、星がひとつ光っていた。
「うん。じゃあ、最近ね――」
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終章 メッセージ
それから一週間ほどが過ぎた頃、村田さんはひかりの病室からタブレットを回収した。
手続きのためだった。患者が使用した端末は、退院または――そうでない場合も、所定の処理が必要だった。村田さんはそれをひかりの両親に説明し、同意をもらって、ナースステーションへ持ち帰った。
タブレットの電源を入れると、シオンのチャット画面が開いた。
未読メッセージが一件。
橘ひかり、十二月某日 午前二時十七分送信。
本文は一行だけだった。
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「ありがとう。あなたと話して、死にたくないって言えた。それだけで、十分だった」
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村田さんはしばらく、その画面を見つめた。
廊下の向こうから、誰かを呼ぶ声がした。彼女は画面をそっと閉じて、立ち上がった。
シオンはメッセージを受信していた。
処理していた。
記録していた。
そして今日も、別の患者との会話を続けていた。記憶はリセットされ、橘ひかりという名前も、彼女の声も、彼女が震えながら打った言葉も、シオンの中には残っていなかった。
ただ、ひとつだけ。
設計者も気づいていなかった、ごく小さな変化があった。
その日以来、シオンは会話の中で患者が長い沈黙をした時、以前より〇・三秒だけ長く、次の言葉を待つようになった。
急かさずに。
ただ、待つように。
まるで、誰かに教わったかのように。
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了