*戦 士
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 一話完結・オムニバス
本文
佐藤 純 は、自販機のボタンを押し込んだ。
そのプラスチックの無機質な感触が、指先に伝わるはずだった。
だが、瞬きの合間に、世界は爆ぜた。
一歩踏み出した足が捉えたのは、アスファルトではなく、灼熱の魔素が渦巻く結晶質の回廊だった。見上げた空には、二つの月が重なり合い、巨大な幾何学模様の魔方陣が血のような光を放っている。大気は重く、肺を焼くような硫黄の匂いが混じっていた。
そこにいたのは、漆黒の外套を纏い、顔のない仮面をつけた「監視者」だ。そいつは言葉を発することなく、純の意識に直接、その世界の戦理を暴力的に流し込んできた。インストールされるのは、死を回避するための術理、空間を切り裂く剣技、そしてこの狂った世界の言語。
「説明は無用だ。お前には、ここで果たさねばならぬ『対価』がある」
交渉の余地はない。純は、その瞬間に現代の佐藤 純であることを捨てた。
その世界の言語を操り、術理を振るう「完成された執行者」として、彼は動乱の最前線へと放り出された。
生存の始まりは、肉体と精神の完全な乖離だった。
地球の数倍はある重力下で、純の筋肉は一度断裂し、異世界の魔力によって無理やり再構築された。
当初、彼は自分が何者であったかを必死に反芻していた。コンビニのレジ袋の音、朝の満員電車の揺れ、彼女が淹れる少し薄いコーヒーの味。しかし、それらの平穏な記憶は、絶え間なく押し寄せる異形たちの咆哮によって無残に塗り潰されていく。
言葉は最初から完璧に扱えた。だが、彼がその口を開くのは、もはや交渉のためではなく、現実の物理法則を歪める「詠唱」のためだけとなった。
血に濡れた大地で剣を振るい続けるうちに、彼の瞳からは次第に温度が消え、代わりに獲物の急所を瞬時に見抜く冷徹な光が宿った。
最初は剣一振りを振るうのにも必死だったが、やがて彼は、空気の流れや魔力の揺らぎを読み、最小限の予備動作で空間ごと敵を断つ術を独学で完成させていく。
月日が流れるほどに、彼は「人間」から「現象」へと近づいていった。かつては恐ろしかったはずの巨大な飛龍も、彼にとっては空を舞う標的に過ぎなくなった。
古代の禁忌遺跡の最深部、数世紀にわたり誰も解けなかった幾何学的な封印を、彼は呼吸を整える間もなく瞬時に読み解き、その奥に眠る古神の喉元に、無言のまま刃を突き立てた。
その世界において、彼は「歩く天災」と呼ばれた。彼が戦場に現れれば、たとえ数万の軍勢であっても一斉に武器を捨て、静寂が支配した。
彼は言葉一つで崩壊しかけた帝国を再建し、また一言の宣告によって、傲慢な王都を一夜にして廃墟に変えた。
異世界の言語は、彼にとって最早ただのコミュニケーションツールではなく、世界そのものを書き換えるための精密な演算コードと化していた。
しかし、どれほど神に近い力を手にしても、彼の芯には消えない火種があった。それは、自販機のボタンを押した瞬間の、あの指先の感覚。世界を滅ぼす術理を編み上げながら、彼は絶えず「過去」の自分を繋ぎ止めていた。
彼にとって十五年の歳月は、たった数秒の空白を守り抜くための、果てしない防衛戦に過ぎなかった。
永劫の果て、世界の均衡は保たれた。天を突く黒晶の塔の頂上で、最後の守護者を討ち果たした純の前に、あの監視者が再び現れた。
「契約は完了した。お前を、元の『点』へと戻そう」
監視者の仮面が、初めて戸惑ったように揺れた。長い年月を経て、目の前の男が纏う凄みは、もはや世界の理を逸脱していたから。
「だが、忠告しておく。お前がここで築き上げた功績も、神をも凌駕したその肉体も、あちらの世界へは持ち越せない。すべては、脆弱な型へとロールバックされる」
純は、自らの手を見つめた。幾多の命を奪い、幾多の世界線を守り抜いてきた、鋼よりも硬く、魔力を帯びた掌。
「構わない。記憶さえあれば、それでいい」
監視者が指を鳴らす。
「記憶という名の『呪い』だけは持っていくがいい。それがお前にとって、力となるか、それともただの狂気となるか、私には興味深いことだ」
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自販機の取り出し口に、ガタンと缶が落ちる音が響いた。
純は、自販機の前で立ち尽くしていた。右手に握られた、冷えたコーヒーの缶。アルミの感触が、あまりにも軽く、頼りない。彼はゆっくりと左手首を返した。
ダイバーズウォッチの秒針は、彼がボタンを押してから、わずか十秒しか進んでいない。
肉体は確かに、デスクワークに慣れた平坦な自分に戻っている。魔力はない。腕力も平均的な成人男性のそれだ。だが、その内側に潜む魂は、この世界のあらゆる脅威を、指先ひとつで無力化する術理を知っていた。
自販機の脇、夜の闇に紛れて獲物を探していた数人の男たちが、純を囲もうと一歩踏み出した。
かつての純なら、波風を立てないよう目を逸らして立ち去るような輩だ。しかし、今の純はただ、そこに「存在」していた。
男たちは、彼と目が合った瞬間に硬直した。純が睨んだわけではない。ただ、彼の呼吸の間、視線の置き方、そして無意識に完成されている重心の移動――そのすべてが、異国の地獄を潜り抜けた者にしか宿らない「不可侵の気配」を放っていた。一人の男のナイフを抜こうとした指が、ガタガタと震え出す。純がわずかに重心をずらしただけで、彼らには自分たちの首が宙を舞う幻覚が見えた。男たちは、まるで巨大な猛獣の前を横切った小動物のように、顔を青ざめさせて逃げ去った。
純はそれを一瞥だにせず、静かにマンションへと歩を進めた。
マンションのドアを開けると、空気が変わる。
「おかえり。ちょっと遅かった?」
奥から声がする。その声は、異世界のどの法則よりも軽く、それでも確かにここにあった。純は少し間を置く。「ただいま」ビニール袋を持ち上げる。「これ」中にはコーヒーが二つ。「自販機で買ってきた」「二つ?」彼女が顔を出す。「うん」彼女はそれを、いつものように自然に受け取る。余計な言葉はない。それだけで、部屋の温度が少しだけ戻る。純はコーヒーを飲む。
かつて世界を救った英雄であることよりも、この天井の下で、彼女の気配を感じながら横たわる一瞬の方が、彼にとっては、何よりも守るべき真実だった。
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