第8話 赤い傘の町の表紙画像

第8話 赤い傘の町

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/29 📚 シリーズ: 祓い師沙耶は、怪異を祓わない ――鳴らない鈴と見習いの記録―― 📝 2,444文字 ✅ 全年齢

あらすじ

灰ヶ谷村に入った瞬間、祓い師見習いの蓮は焦げた灰の匂いを嗅いだ。 十年前、ひとりの少女ミオが死んだ夜。 村を襲った灰色の獣――灰狼。 強い怒りを抱いたまま死んだ者が、灰をまとい狼の形で現れるという、灰ヶ谷村に古くから伝わる呪いだった。 初任務として村を訪れた蓮は、先輩祓い師の沙耶とともに調査を始める。 だが、村人たちは誰もミオの名を口にしようとしない。 閉じられた雨戸。 祠に貼られた古い札。 小さな湯呑み。 焦げた畳。 鳴らない鈴。 村に残されたものは、十年前の夜に誰も語らなかった罪を静かに示していた。 やがて蓮は知る。 灰狼は、ミオひとりの怒りではない。 見た者、聞いた者、止めなかった者、黙った者。 村人たちの沈黙と罪悪感が、ミオの怒りに積もって生まれた怪物だった。 夜、灰狼が祠に現れる。 結界は砕け、蓮の頭にミオの声が響く。 ――どうして、誰も助けてくれなかったの。 祓うだけでは、怒りは消えない。 蓮は村人たちへ叫ぶ。 聞こえているなら、もう黙らないでほしい、と。 最初は誰も出てこない。 だが一枚の雨戸が鳴り、十年分の沈黙が少しずつ破れていく。 これは、灰狼を倒す物語ではない。 閉じた雨戸が開き、焦げた灰の匂いの奥から、朝炊きの米の匂いが戻ってくるまでの物語。

本文

雨無町(あまなし・ちょう)の土を踏んだ瞬間、砂を噛んだような味がした。

気のせいではない。

本当に、舌の裏がざらついていた。

山と山に挟まれた、すり鉢のような盆地。

空には雲ひとつない。

ただ白く、ひび割れそうなほど乾いた空が広がっている。

駅のホームに降り立った時から、異常な熱気だった。

錆びついた駅の看板が、陽炎の中で歪んでいる。

無人駅の改札を抜ける。

切符を入れる箱の底に、干からびたカナブンが転がっていた。

駅の改札を抜けてから、五分ほど歩いた。

風が吹く。

熱い風だった。

道端に張り巡らされたコンクリートの水路で、落ち葉が鳴る。

カサカサ、と。

耳障りな乾いた音が、いつまでも追いかけてくる。

水路を覗き込んだ。

水はない。

底にあるはずの泥さえ、完全にひび割れて白く変色していた。

まるで、何年も前から一滴の水も流れていないような有様だ。

「……喉、渇きますね」

たまらず声に出した。

口の中の水分が、言葉と一緒に持っていかれる感覚があった。

札袋の紐を握る手は、まったく汗をかいていない。

灰ヶ谷村ではあんなに湿っていた指先が、今は粉を吹いたように乾いている。

前を歩いていた沙耶さんが、立ち止まった。

首から下げたタオルで小さく汗を拭う。

それから、ペットボトルの水を少しだけ口に含んだ。

「昔から、雨が少ない土地みたい」

なるほど。

だからこんなに息苦しいのか。

灰ヶ谷村の、あの『焦げた匂い』とは違う。

ここには何もない。

徹底的に水気が削ぎ落とされた、無機質で、からっぽな匂いがした。

歩き出す。

アスファルトの照り返しが、靴の裏からじわじわと体温を上げていく。

すれ違う町民は少ない。

昼下がりとはいえ、異常なほど静かだった。

時折、遠くで軽トラックのエンジン音がするだけ。

それもすぐに、熱い空気の中に吸い込まれて消えてしまう。

首筋にじわりと汗をかいたが、それも数秒で乾き、塩の粒だけが残った。

肌が突っ張る。

目薬を差したくなるほど、眼球が乾いていた。

だが、その乾ききった風景の中で。

少しずつ、視界に異物が増え始めた。

最初は、駅前の錆びたベンチだった。

端っこに、赤い色が置かれていた。

赤い傘だ。

真新しいビニール傘。

持ち手を地面にし、先端を天に向けて、ベンチの背もたれに立てかけられている。

それから三分後。

シャッターの降りた駄菓子屋の軒先。

そこにも、同じ赤い傘が立てかけられていた。

さらに五分後。

メインストリートのガードレールの隅。

雑草に埋もれるようにして、やはり赤い傘が立っている。

どれもバンドでしっかりと巻かれている。

完全に閉じた傘だった。

一つや二つなら、ただの忘れ物だ。

だが、多すぎる。

「……十本以上、ありますよね」

「うん」

沙耶さんの視線の先には、サビだらけのバス停があった。

色あせた時刻表の下。

そこにも赤い傘が立っている。

強烈な違和感があった。

背筋が少しだけ冷たくなる。

けれど、一番気味が悪いのは、傘そのものではなかった。

バス停の長椅子に、老人が座っていた。

手すりに寄りかかり、遠くを見ている。

老人のすぐ右隣、手を伸ばせば触れる距離に、その真っ赤な傘がある。

しかし老人は、ただの一度も傘を見なかった。

視界に入っていないかのように。

あるいは、そこに存在していないかのように。

通りを歩く買い物袋を下げた主婦も。

立ち漕ぎで駆け抜けていく学生も。

誰も、赤い傘を見ない。

避けることすらしない。

まるでそれが電柱か、路傍の石ころであるかのように。

完全に『風景の一部』として処理している。

「また増えたな」

すれ違った作業着の男が、ぽつりと言った。

その声に、恐怖はない。

焦りもない。

ただの微かなため息だった。

町外れの神社へ来た。

鳥居をくぐり、苔むした石段を見上げる。

本来なら湿っているはずの苔も、ここでは完全に枯れ果てている。

踏みしめると、粉々になって風に飛ばされていった。

鳥居の朱色も、日差しに焼かれて薄汚れたオレンジ色に退色している。

石段の真ん中。

ぽつんと、赤い傘が立っていた。

他の傘と同じ。

持ち手が下。

先端が上。

バンドで留められた、閉じた状態。

俺は息を吐き、石段を登った。

傘の前に立つ。

何の変哲もない、コンビニで売っているようなビニール傘だ。

柄へ手を伸ばした。

ガシッ。

強い力だった。

横から伸びた沙耶さんの手が、俺の右手首を硬く掴んだ。

痛い。

そう言いそうになって、飲み込んだ。

「……待って」

沙耶さんの声が、いつもより低かった。

振り返る。

沙耶さんは、腰の祓い鈴に指を添えたまま、目を細めていた。

氷のように張り詰めた横顔だった。

「え……でも、ただの傘……」

「違うよ、蓮」

物理的には、完全に閉じている。

バンドも留まっている。

風に揺れることさえない。

それでも沙耶さんは、石段の上の傘を睨みつけた。

「これは、まだ閉じてない」

空気が止まった。

風の音が消えた。

俺は息を呑み、掴まれた手首の力を抜いた。

左手を札袋へ入れる。

二本指に観符(かんぷ)を挟み、抜き出した。

傘へ向ける。

札の表面。

墨で書かれた文字が、俺の体温に反応してにじんだ。

視界が歪む。

乾いた石段の輪郭が、薄い膜を一枚剥がすようにずれた。

「っ……!」

息が止まりそうになった。

札越しに見えた赤い傘。

それは、大きく開かれていた。

ビニールの表面がパンパンに張り詰め、柄が天を突いている。

いや、それだけではない。

雨無町の、この干上がった空気の中。

開かれた赤い傘の『内側』だけが、びっしょりと濡れていた。

水滴が骨を伝う。

ビニールの内側を滑り落ちる。

ポツン、と。

雨など一滴も降っていない石段に、確かな水音が響いた。

乾いた石が、そこだけ黒く変色する。

そして、その微かな水音の波紋の中から。

少女の細い声が、俺の耳元で静かに囁いた。

『――まだ、来ないの?』

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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