第13話 帰る場所
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
翌朝、俺たちは駅の周辺を歩いた。
駅前にはロータリーもないが、細い道路を挟んだ向かい側に、シャッターの閉まった家が数軒並んでいる。
その中で一軒だけ、半分開いたシャッターの下で、古い商店が細々と営業していた。
色褪せたコカ・コーラの看板。
ホコリを被ったガラスケースの中に、賞味期限の切れたような菓子箱が並んでいる。
店番をしていたのは、腰の曲がった老婆だった。
俺と沙耶さんは、缶のお茶を二本買い、少しだけ話を聞いた。
「ああ、あの人な」
老婆は、曲がった指で小銭を数えながら、駅の待合室を指差した。
「単身赴任でな、遠くの街へ行っとったんよ。家族はこの町に残してな。最初のうちは、月にいっぺんは帰る言うてたけど」
老婆の濁った目が、駅の錆びた屋根を見つめた。
「あの人、帰る帰る言うてな。結局、盆にも正月にも戻らんかった」
帰れなかった、のではない。
帰らなかった。
老婆の言葉が、喉の奥に小さく引っかかった。
「最初はね、奥さんと、小さい子どもが、週末になると駅まで迎えに来とったんよ。でも、だんだん誰も来んようになったわ。そりゃそうやろ。待ってても帰ってこんのやから」
老婆は、茶色く変色した扇風機の首を向け直した。
ぬるい風が、店の中に埃っぽい匂いを運ぶ。
「奥さんは、愛想尽かして町を出てったわ。実家も、とうの昔に取り壊されて、今は空き地になっとる。あの人が、ようやく帰ってこようとした時には、もう誰も待ってなかったんや」
帰る場所の方が、先に壊れた。
俺は、昨夜見たスーツ姿の影を思い出した。
膝に抱え込まれていた四角い鞄。
足元に置かれていた紙袋。
あれは、誰かに渡すはずだった土産だったのだろうか。
俺たちは商店を出て、再び駅の待合室に戻った。
昼間の駅は、夜よりもさらに寂れて見えた。
屋根の隙間から差し込む光が、空気中を舞うホコリを白く照らし出している。
俺は、影が座っていた一番奥のベンチに近づいた。
プラスチックの表面には、細かな傷が無数についている。
ふと、壁の下の方、ベンチの背もたれに隠れるような位置に、黒いマジックの跡があるのに気づいた。
しゃがみ込んで、覗き込む。
ひらがなばかりの、拙い子どもの字だった。
『パパ、こんどはかえってきて』
その文字を見た瞬間。
左手に握っていた札袋の中で、観符がびくりと震えた。
空間が歪む。
耳の奥で、低い圧鳴りがした。
駅のベンチに、いくつもの夜が重なっていくのが見えた。
物理的な映像ではない。
重さとして、俺の肩に乗しかかってきた。
帰ろうと思っていた夜。
帰らなかった夜。
電話をかけようとして、受話器を置いた夜。
「次でいい」と思った夜。
「落ち着いたら帰る」と、自分に言い訳をした夜。
男は、死んだから帰れなかったわけじゃない。
大雨のせいでも、事故のせいでもない。
仕事。忙しさ。意地。気まずさ。責任という名の逃げ。
帰ろうと思えば、帰れる夜はいくらでもあったはずだ。
けれど、男は帰らなかった。
帰る場所は、いつでもそこにあると思い込んでいた。
待っている間に、少しずつ形を変えていくことにも気づかずに。
俺は息を吐き、壁の落書きから目を離した。
この怪異の正体が、はっきりと分かった。
これは「帰れなかった人」の悲しみではない。
「帰らなかった人」の後悔だ。
立ち上がって振り返る。
沙耶さんは、待合室の壁に掛けられた、錆びた時刻表の枠を見つめていた。
ガラスはとうに割れ、中の紙は黄ばんで読めなくなっている。
「帰らなかった怪異は、嫌い」
低い声だった。
いつも淡々としている沙耶さんの声に、微かな、だがはっきりとした棘が混ざっていた。
「……知ってるんですか」
俺は、思わず尋ねた。
この男のことを知っているのかという意味ではなかった。
沙耶さんが、誰かに「帰る帰る」と嘘をつかれたことがあるのか。
それとも、沙耶さん自身が「帰らなかった」過去があるのか。
沙耶さんは、答えなかった。
錆びた時刻表から、視線を動かさない。
風が吹いた。
開け放たれた入り口から吹き込んだ風が、待合室の中をぐるぐると回る。
壁に貼られていた古い観光ポスターが一枚、画鋲から外れて、バサリと乾いた音を立てて浮いた。
ポスターの端が壁を叩く音だけが、不自然な沈黙を埋めた。
日が落ちた。
山間の町は、暗くなるのが早い。
午後八時を過ぎると、もう深夜のような暗闇が駅を包み込んだ。
山の稜線は見えず、空には星もない。
俺と沙耶さんは、ホームのベンチに座って時間を待った。
虫の音はしない。
時折、遠くで風が木々を揺らす音が聞こえるだけだ。
蛍光灯のジジジというノイズが、昨夜よりも大きく聞こえた。
やがて、時計の針が午後十一時を回った。
最終列車が来る時間だ。
カン、カン。
遠くの踏切が鳴る。
ヘッドライトの光が現れ、二両編成の列車がホームへ滑り込んでくる。
誰も乗っていない。
誰も降りない。
プシュー、という音とともにドアが閉まり、列車は再び闇の中へ消えていった。
赤い尾灯が見えなくなり、踏切の音も完全に止む。
すべての列車が終わった。
もう、朝まで誰も来ない。
俺は立ち上がり、改札口の上に目を向けた。
そこには、かつて次の列車の到着時刻を知らせていた、古い電光掲示板がある。
電源はとっくに切られ、ただの黒い箱になっているはずのものだ。
だが、その真っ暗な画面の奥で。
赤いLEDの文字が、チカチカと明滅を始めた。
『二十三時五十九分』
そんな時間の列車は、存在しない。
時刻表には、とうの昔に消えた時間だ。
だが、赤い文字ははっきりと、俺たちに向かって告げていた。
『まもなく、帰郷列車が到着します』
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