第17話 消せない明かり
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
理佳子の現在地を突き止めるのに、時間はかからなかった。
町役場の福祉課に伝手を持つ不動産会社の担当者が、彼女が二年前に県外の特別養護老人ホームへ移ったことを教えてくれた。
認知症が進行し、自立した生活が困難になったためだという。
「本人に会いに行きましょうか」
車の助手席で、俺は言った。
窓の外では、今日も日が落ち、住宅地が深い闇に沈み始めている。
エンジンを切った車内は急激に冷え始め、ガラスの内側がうっすらと結露していた。
「灰ヶ谷村の時は、村の人たち自身に過去を言わせた。赤い傘の時も、駅鈴の時も、残された人や当事者との距離を測りながら祓いを行った。なら今回も、理佳子さんに会って、もう待たなくていいと伝えるべきなんじゃないですか」
俺の言葉に対し、運転席の沙耶さんはハンドルに手を置いたまま、かすかに眉をひそめた。
「やめた方がいい」
短く、しかし強い否定だった。
「無理に本人に会わせても、彼女を壊すだけかもしれない。あそこまで強固になった執着は、下手に触れば残りの寿命ごと削り取るよ」
「でも、このままじゃあの灯りは消えません。夫の影も、窓の外に縛り付けられたままです」
「……」
沙耶さんは答えなかった。
ただ、窓の外の暗い坂道を見つめている。
俺は、彼女の横顔に強い違和感を覚えた。
これまでの沙耶さんは、どんな怪異に対しても一定の距離を保ち、淡々と、しかし確実に怪異の核を見極めてきた。
だが今は違う。
怪異の中心にいる理佳子に触れることを、明らかに避けている。
では、この怪異は誰が消すのか。
施設にいる理佳子に消させるのか。
窓の外で弾き返されている夫の影に、無理やり諦めさせるのか。
それとも、俺たち祓い師が、有無を言わさず物理的に消し去っていいものなのか。
「……とりあえず、中へ入ろう」
沙耶さんがドアノブを引き、外の冷たい空気が車内に流れ込んだ。
夜の八時。
俺たちは暗い坂を登り、問題の家の前に立った。
錆びた門扉は施錠されていなかった。
玄関の鍵は、不動産会社から預かっている。
真鍮の鍵を鍵穴に差し込んで回すと、ガチャン、という重い金属音が、静まり返った住宅地に響き渡った。
ドアを押し開ける。
むせ返るような、古い紙とカビの匂いがした。
人が住まなくなった家特有の、空気が完全に淀み切った重い匂いだ。
玄関には小さな靴箱があるだけで、三和土(たたき)には靴は一足も出ていない。
廊下の床板は沈み込み、歩くたびにミシ、ミシ、とくぐもった音を立てた。
電気は通っていない。
俺が手に持った懐中電灯の光だけが、細かいホコリの舞う空間を丸く切り取っている。
一階のリビングや台所は、見事に空っぽだった。
冷蔵庫も、テレビも、食器棚もない。
壁紙は経年劣化で黄ばみ、あちこちが剥がれかけている。
床のフローリングには、かつてそこに重い家具が置かれていたことを示す四角い日焼けの跡だけが、幾何学模様のように残っていた。
物理的には、ここは完全に死んでいる家だ。
俺たちは、きしみ音を立てる狭く急な階段を登り、二階へ向かった。
階段の途中から、光が漏れていた。
懐中電灯の冷たい白い光ではない。
温かく、オレンジ色に燃えるような、あの光だ。
光と一緒に、一階にはなかった微かな熱気が二階の踊り場から降りてくるのを感じた。
二階には部屋が二つあった。
そのうちの一つ、通りに面した部屋のドアの隙間から、強烈な光がこぼれ出ている。
俺は息を詰め、ゆっくりとドアノブを回し、部屋の中へ足を踏み入れた。
部屋の中も、やはり空っぽだった。
ベッドも、タンスも、本棚もない。
ただ、天井からぶら下がった古い裸電球だけが、猛烈な熱を発しながら黄色く発光していた。
電線が切られているはずなのに、むき出しのフィラメントは確かに焼け焦げるような輝きを放っている。
そして、部屋の中央。
何もない空間の真ん中に、使い込まれた古い木製のダイニングチェアが一つだけ置かれていた。
その背もたれに。
くたびれた男物の上着が、ふわりと掛けられている。
グレーの、ごくありふれた作業用ジャンパーだ。
何年も前に持ち主を失い、家財道具がすべて運び出された後も、捨てられることなくただそこにある上着。
部屋には誰もいない。
だが、その上着だけが、まるで目に見えない人間の肩幅を保っているかのように、不自然な立体感を持って椅子に鎮座していた。
俺は、懐中電灯を消し、観符(かんぷ)を取り出した。
そして、同時に聞き留め(ききどめ)の札を左手の指に挟む。
視界がずれる。
音の境界が曖昧になる。
男物の上着から、声が聞こえた。
それは、事故で死んだはずの夫の声ではなかった。
『――帰ってきた時に、寒かったらいけないから』
ひび割れたような、年老いた女の声だった。
理佳子の声だ。
『――あの人、寒がりだから』
『――上着をここに、置いておかないと』
その声は、悲しみではなかった。
ただ、反復する声だった。
帰るはずのない夫のために、用意された上着。
暗いと怖がるからと、毎晩点けられ続けた裸電球。
裸電球の暴力的なまでの温かい光の下で。
誰も着ていない上着だけが、帰るはずの人の形をしていた。