第20話 声の落ちる部屋
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。 それが、二人の祓いだ。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
その家は、市街地から車で三十分ほど走った、古い住宅地のはずれにあった。
黒い瓦屋根の立派な母屋の横に、木漏れ日に隠れるようにして、木造平屋の離れが建っている。
依頼主である不動産会社の担当者は、母屋の縁側から渡り廊下で繋がったその離れを指差し、口元をハンカチで押さえながら言った。
「あちらが、問題の建物です」
元々は、この家の前の住人が、娘に琴(箏)を教えるために建てた専用の稽古場らしい。
十年前に住人が亡くなり、娘も遠方へ嫁いだため、家は空き家として売りに出された。
だが、内見に来た客が必ず「離れから声がする」と言って契約を断るのだという。
「人の話し声ですか」
「いいえ。何か、もっとこう……うめき声というか、言葉にならないような声だと。私自身も一度、夕方に確認へ来た時に聞きました。とてもじゃないですが、一人で中を確認する気にはなれませんでした」
担当者はそう言うと、離れの鍵だけを俺たちに渡し、足早に車へ戻っていった。
俺と沙耶さんは、飛び石の敷かれた庭を歩き、離れの入り口に立った。
飛び石は分厚い苔に覆われ、スニーカーの裏がぬるりと滑る感覚があった。
周囲には手入れされていない植木が生い茂り、昼間だというのに日差しが遮られ、ひんやりとした湿った土の匂いが立ち込めている。
母屋からはわずか十メートルほどしか離れていないのに、ここだけが物理的に外界から切り離されたような、奇妙な孤立感があった。
玄関にあたる重い木製の引き戸に、真鍮の鍵を差し込む。
ジャリ、と錆びた鍵穴の中で金属が擦れる音がした。
力を込めて引き戸を開けると、乾いた木の軋み音とともに、淀みきった空気が顔に吹き付けてきた。
埃の匂いと、古い畳の匂い。
そして、わずかに残る微かな墨の匂い。
中へ足を踏み入れると、そこは十二畳ほどの広い和室だった。
壁には、和紙でできた古い月謝袋や、筆で書かれた「礼節」という色褪せた半紙が画鋲で留められている。
床の畳は、い草の青みを完全に失い、茶色く干からびたような色に変色していた。
歩くたびに、畳の表面の乾燥した繊維がスニーカーの底でこすれ、カサ、カサ、と乾いた音を立てた。
部屋の中央には、黒い木製の譜面台がひとつ。
そしてその隣に、古びた茶色の油単(ゆたん)と呼ばれる布カバーを掛けられたままの琴が、一台だけ床に直置きされていた。
カバーの表面には、うっすらと白い埃の層ができている。
「誰もいないですね」
俺は部屋の隅から隅までを見渡しながら言った。
窓はすべて閉め切られ、雨戸も半分閉まっているため、部屋の中は薄暗い。
隙間から差し込む光の筋の中で、細かい埃がゆっくりと舞っているのが見えた。
沙耶さんは部屋の中央まで歩み寄り、琴の横に立った。
そして、そのまま部屋の一番奥――床の間の横にある、一枚の襖(ふすま)をじっと見つめた。
木枠に分厚い和紙が張られた、重そうな襖だった。
和紙の表面は湿気を吸って黄ばみ、ところどころに茶色い染みが浮いている。
取っ手の金具は黒く錆びついていた。
俺もその襖の前に立ち、かすかな違和感を覚えた。
「……この襖、立て付けがおかしいですね」
襖の端と柱の間に、一ミリの隙間もない。
それどころか、木枠が完全に柱へ食い込むように歪み、物理的に一体化してしまっているように見えた。
まるで、開けることを前提としていないかのように。
「開かないよ、これ」
沙耶さんが短く言った。
俺は取っ手に指をかけ、力を入れて横に引いてみた。
ビクともしない。
敷居の上を滑る感覚すらなく、まるで壁そのものを押しているような手応えだった。
「……夜まで待ちましょう」
俺が言うと、沙耶さんは無言で頷き、琴から少し離れた畳の上に腰を下ろした。
日が落ちると、離れの中は完全な暗闇に包まれた。
母屋のシルエットが窓の外の月明かりを遮り、部屋の中は自分たちの手元の輪郭すら曖昧になるほど暗い。
電気が通っていないため、俺は懐中電灯を床に置き、天井に向けてスイッチを入れた。
青白い光の輪が天井の木目を照らし出し、部屋全体がぼんやりと浮かび上がる。
静かだった。
だが、ただ何もない空間の静寂ではない。
空気が異様に重い。
何かがぎっしりと詰め込まれ、上から強く押さえつけられているような、息苦しさを伴う沈黙だった。
俺は畳の上に胡座をかき、その重い空気が鼓膜を圧迫するのを感じていた。
午後九時を回った頃。
「……」
音がした。
俺は顔を上げ、部屋の奥の暗がりを見た。
懐中電灯の光が届かない、開かずの襖の周辺だ。
「あ」
声だった。
若い女の声だ。
だが、誰かに向かって話しかけるような声ではない。
喉の奥から、空気が漏れ出ただけのようなくぐもった音。
「う……」
「ち……」
声は、一つではなかった。
部屋のあちこちから、ぽつり、ぽつりと湧き上がってくる。
「……いや……」
「……」
「だから……」
悲鳴でもない。泣き声でもない。
それは、言葉になろうとして、途中で無理やり断ち切られた音声の破片だった。
単語の最初のひと文字だけで、声がフッと消えてしまう。
まるで、口を開きかけた瞬間に、見えない大きな手で口を塞がれたかのように。
「あ……」
「……した……」
意味を持たない五十音の欠片が、埃のように部屋の空気を漂い、古い畳の上へと落ちていく。
灰ヶ谷村の灰狼のような、物理的な殺意を持った怪異ではない。
赤い傘の少女のような、明確な悲しみの形も持っていない。
駅鈴の男のような、わかりやすい後悔の言葉もない。
ただ、形成されなかった言葉の破片だけが、果てしなく繰り返されている。
俺はゆっくりと左手を動かし、ポケットから観符(かんぷ)を引き抜いた。
夜の冷え切った稽古場の中で、俺の体温だけが墨に伝わり、じわりと輪郭を崩し始める。
「視ます」
俺が小さく呟くと、沙耶さんは何も言わず、ただ畳の上で膝を抱えたまま、開かずの襖を見つめていた。