第32話 水へ返す
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。 それが、二人の祓いだ。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
巨大な溜池の真っ暗な水際で、八重子がぬかるんだ黒い泥の上に両膝をついた。
ズブッという重い音が鳴り、ズボンの膝の布地から、泥の冷たい水分が急速に皮膚へと浸透していく。
俺は、八重子の丸まった背中から半歩だけ後ろに離れて、泥の沈み込みに耐えるように両足に力を入れて立った。
沙耶さんは俺の隣で、腰の袋の上から、中に収まっている祓い鈴の金属の柄を、指の関節が白くなるほど強く握り込んでいる。
八重子が、膝の上に置いた白い布の包みに両手を添え、ゆっくりとその端をつまんで開いた。
たっぷりと水を吸って重くなった布の繊維が、ベリッ、と微かな摩擦音を立てて左右に剥がれるように開かれる。
中から、もはや限界まで水を吸い込んで真っ黒に変色した木製の櫛が姿を現した。
八重子が右手の人差し指と親指で、その櫛の柄を強くつまみ上げる。
指先から滴る水の冷たさと、ずっしりとした木の重み。
黒く変色した細かい歯の間に、長い黒髪が一本だけ、布の繊維のようにもつれて深く絡みついていた。
八重子はそのまま上半身を前へ傾け、重い櫛を持った右手を真っ暗な水面へと近づけた。
指先が水面の冷気に触れ、微かに震える。
そして、櫛の平らな面を、そっと水の上へ置いた。
櫛は沈まなかった。
重い水分を吸いきって石のようになっているはずの木が、池の水の強固な表面張力に下から押し返されるようにして、真っ黒な水面の上に横たわったまま完全に浮いている。
八重子の人差し指は、水面に浮いた櫛の背に触れたまま、硬直して離れなかった。
俺は、右足を一歩だけ前へ踏み出そうとした。
体重を前にかけると、靴の裏が泥の粘着力から無理やり剥がれようとして、クチャッという水気を含んだ嫌な音が鳴る。
沙耶さんは、俺のその不規則な音と動きに気付いても、視線を動かさず何も言わなかった。
俺は、空中に少しだけ浮かせた右足を静かに元の泥の窪みへ戻し、それ以上前へは進まなかった。
八重子が、水面から離れなかった人差し指の腹に力を込め、浮いている櫛の背を真下へ向かって押し込んだ。
指先が冷たい水の中に半分まで沈み込む。
チャプ、と小さな水音が鳴り、櫛の細かい歯の間を泥臭い池の水が通り抜けていく。
だが、櫛はまだ沈まない。
八重子が水圧に耐えかねて指の力を少し抜くと、見えない分厚いゴムに弾き返されるような強い浮力に押し戻されて、櫛は再び水面へと浮かび上がってくる。
八重子が、今度は人差し指の先に上半身の体重を乗せ、もう一度、さらに深く櫛を押し込んだ。
指の第二関節までが真っ暗な水に沈む。
木製の歯の間を、先ほどよりも強い水流が激しく通り抜ける。
その水圧の抵抗を受けて、櫛の歯に固く絡みついていた長い黒髪の一本が、黒い水の中へとゆっくりとほどけ、細く波打つように水面に広がった。
沙耶さんが、袋の中から銀色の祓い鈴を静かに取り出した。
冷たい金属の柄を、指の皮が破れるのではないかというほど強く握り込む。
それでも、鈴の中の玉が壁に当たるチリという音は、一切鳴らさなかった。
八重子の人差し指が、櫛の背から完全に離れた。
指という物理的な支えを失った木櫛は、水面で数秒間だけ不安定に左右へ揺れた後、最も水分を吸って重くなっている柄の方から、斜めに深く傾いた。
木目の奥深くに冷たい水が一気に流れ込み、木が限界まで抱え込んでいた最後の空気を、微かな気泡として水面へ吐き出す。
ポコッ、という小さな破裂音。
それを合図にするように、櫛は、底の見えない真っ暗な水の中へと、ゆっくりと、しかし確かな重さを持って沈んでいった。
俺は左手で記録帳の表紙を押し開いた。
右手で鉛筆を強く握り、白いページの上に芯を置く。
ガリッ、と黒鉛が紙の繊維を削り取る確かな摩擦の感触が、手首を伝わってくる。
今度は、書いた文字の下で紙が異常な水分を吸って波打つようなことはなかった。
黒いインクが泥水のように紙の裏側へ滲み込むこともなく、完全に乾いた紙の上に、鉛筆の削れた跡だけが鮮明に残っていく。
俺は書いた。
『八重子は、櫛を水へ返した。』
真っ暗な池の底から、濡れた長い髪を梳く音が聞こえてくることは、もうなかった。
沙耶さんが、握りしめていた祓い鈴を、無音のまま腰の袋へ戻した。
朝が来た。
水神社の境内を、白み始めた空の乾いた光が照らしている。
苔むした石の手水鉢の中は、落ち葉が浮いているだけで底は完全に空だった。
泥のぬかるみが乾き始めた溜池の岸にも、あの木櫛は戻っていなかった。
櫛は沈んだ。
水面には、
しばらく細い波だけが残っていた。
それもやがて、
池の色に戻った。
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