幕間 錆びた硬貨
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。 それが、二人の祓いだ。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
宿泊先の古い宿には、廊下の突き当たりにタイル張りの共同洗面台があった。
俺は蛇口の冷たい金属のハンドルを握り、ひねり切った。
ドバッ、と勢いよく吐き出された水が白い陶器の底を叩き、冷たい水飛沫が手の甲を細かく打つ。
備え付けられていた緑色の固形石鹸を両手で包み込むようにして取り、指の腹で何度も表面をこすった。
細かな泡が立ち、指の間の皮膚を滑っていく。
何度も、念入りにこすり合わせた。
だが、冷たい水で泡を完全に洗い流し、硬いタオルで水分を拭き取った後も、不快な感覚は全く消えていなかった。
指先を鼻に近づけると、あの雨の裏口で触れかけた、分厚い赤茶色の錆の匂いが、皮膚の奥深くにべったりとへばりついている。
石鹸の匂いすら上書きするような、重く鋭い鉄の匂いだった。
俺はため息をつき、ズボンのポケットから革の財布を取り出した。
金属のファスナーを引き開け、中からくすんだ十円硬貨を一枚、親指と人差し指の腹でつまみ出す。
硬貨の側面の硬いギザギザが、先ほどまで洗っていた柔らかい指先の肉に食い込んだ。
硬貨をつまんだ瞬間、指先から鉄の匂いが濃くなった。
「錆の匂いって、なかなか消えないですね」
俺は、硬貨をつまんだままの手を空中で止め、背後の廊下に立っていた沙耶さんへ向かって言った。
沙耶さんは洗面所の鏡越しに、俺の手元を静かに見ていた。
そして、一切の抑揚のない声で答えた。
「手からじゃない。頭からだ」
沙耶さんはそれだけ言って、薄暗い廊下の奥へ歩いていった。
俺は蛇口の前で一人、手の中にある錆びた硬貨の冷たさを、無言のまま握り締めていた。
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