第33話 逆さ屏風
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。 それが、二人の祓いだ。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
古びた板張りの長い廊下を抜け、旧家の最も奥にある薄暗い座敷へと通された。
分厚い襖で締め切られた部屋の空気には、長年溜まったカビの生えた古い畳の匂いと、空気に触れていなかった和紙の乾いた粉っぽい匂いが、呼吸を阻害するほど重く滞留している。
その部屋の中央に、六枚の巨大な木枠パネルが連なった六曲一双の古い屏風が、行く手を阻む巨大な壁のように立っていた。
だが、その立ち方は明らかに異常だった。
屏風に描かれた見事な枝ぶりの松の木も、家紋の入った古い提灯も、着物姿で正面を見据える家族たちの顔も、すべてが天地を逆にして、床の畳に向かってぶら下がるように描かれている。
屏風そのものが、上下完全に逆さまの状態で、畳の上に不気味な安定感を持って屹立(きつりつ)していた。
案内をしたこの家の管理者の男が、逆さまの屏風から数歩の距離を置いたまま、ひどく掠れた低い声で言った。
「逆さまになるんです」
俺は、男の言葉には答えず、屏風へ向かってゆっくりと歩み寄った。
畳の上を歩く靴下の裏に、長年積もった細かい埃がねっとりとまとわりつく不快な感触がある。
俺は屏風の右端にしゃがみ込み、上下逆さまになっている分厚い黒塗りの木枠へ両手をかけた。
指先に、冷たく乾いた木の感触と、ざらついた埃の分厚い層が触れる。
「直しても」
背後で管理者が、感情を殺した声で言葉を継いだ。
俺は視線を下げ、自分の手のひらを見た。
木枠の下端が、畳にめり込むように深く食い込んでいた。
指を差し込もうとすると、畳の繊維と黒塗りの角が、爪の付け根を強く押し返してくる。
俺は、木枠を握った両手に全体重をかけ、逆さまの屏風を持ち上げようと足腰に力を込めた。
ズン、と想像を絶する重さが、手のひらから腕の筋肉、そして肩の関節へと一気にのしかかる。
ただ重いのではない。重心が完全に狂っている。屏風全体が、意図的に逆さまの状態を永遠に維持しようと床下に深い根を張っているかのような、強固で暴力的な下方向への反発力があった。
俺は奥歯を噛み締め、膝の力を使って強引に木枠を畳から引き剥がす。
ベリッという畳がむしれるような音に続き、ギギギ、と長年油を差されていない古い金属の蝶番(ちょうつがい)が、悲鳴のような乾いた摩擦音を立てた。
古い和紙の表面から、剥がれ落ちた細かい埃が白い粉雪のように大量に舞い上がり、むせ返るような匂いが鼻の奥を突く。
俺はそのまま力任せに巨大な屏風を空中で反転させ、正しい天地の向きで畳の上へドンと力強く下ろした。
重い木枠が畳を強く叩き、部屋の空気が大きく揺れる。
松の枝も、家族の顔も、すべてが正しい向きになった。
「次の朝には」
管理者が三度目の言葉を吐き出した、まさにその直後だった。
俺が木枠から手を離そうとした瞬間、屏風全体が、まるで巨大な見えない手に上から押し潰されるように、ゆっくりと手前へ傾き始めた。
俺は慌てて両手で木枠を押し返し、巨大な質量を持つ屏風の倒壊を腕力で止めようとする。
だが、手のひらに伝わってくる強烈な圧力は、物理的な木の重さを遥かに超えていた。
腕の骨がミシミシと軋み、足元の畳に力強く踏ん張った足の指先が、埃でズルリと滑る。
抗いきれない圧倒的な質量の波が俺の腕を無慈悲に押し潰し、屏風は俺の抵抗を完全に無視して、ゆっくりと、だが暴力的な重さを持って空中で半回転した。
そして、バタン、と床板の奥まで響くような鈍い重低音を響かせて、再び完全に上下逆さまの状態で畳の上に屹立した。
強引に弾き返された俺の腕には、筋肉が痙攣するような強烈な痺れだけが残っていた。
俺は荒くなった呼吸を整えながら、逆さまになった家族絵を端から順番に目で追った。
威厳のある父親、その横の母親、長男、長女、祖母。
そして、その家族たちのさらに奥、屏風の最も端のパネルに、不自然な空白があった。
そこには、誰も描かれていなかった。
俺は上着の内ポケットから、真っ白な観符を一枚取り出した。
俺は観符を持ったまま、その空間の前へ一歩だけ近づいた。
屏風の他の場所には細かい筆の跡や、下絵の薄い線が残っている。
だが、そこだけは違った。
紙の表面が、最初から何も乗せるつもりがなかったように、ただ白かった。
パリッとした乾いた和紙を指先に挟み、逆さまの屏風の、その何もない余白へとゆっくり近づけていく。
観符の先端が、屏風の表面まで残り数センチに迫った時だった。
グン、と強い力で、指先の観符が見えない磁石に吸い寄せられるように強烈に前方へ引っ張られた。
俺の意志とは無関係に、観符の先端が、屏風の古い和紙の表面へペタリと激突する。
その瞬間、何十年も前に完全に乾ききっているはずの古い屏風の表面から、大量の冷たい水分が観符の繊維へと逆流してきた。
真っ白だった観符の先端が、まるで今さっきすり下ろしたばかりの生乾きの墨汁に浸したかのように、急速にどす黒く濡れ、細かい毛細管現象を起こしながらにじんでいく。
墨の強烈で生臭い匂いが、部屋の埃の匂いを一瞬で塗り潰して鼻腔の奥へ侵入してきた。
沙耶さんが動いた。
畳を擦る足音は、俺の背後から前へは出ず、俺の『真横』でピタリと止まった。
沙耶さんは俺の隣に並び立ち、腰の袋の中へ右手を差し入れた。
指先が、冷たい銀色の祓い鈴の金属の柄に触れる。
彼女の細い指が、関節の皮膚が真っ白になるほど強く、鈴の柄を握り締めているのが真横からの気配だけで分かった。
だが、金属の玉が壁を打つ高い音は、一度も鳴らなかった。
沙耶さんは、ただ俺の横で、沈黙したまま逆さまの屏風を睨みつけていた。
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