お前だけが知っている
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと習慣の話。
本文
最初に入力したのは、三年前の四月だった。
「今日も頑張れる気がしない」
それだけ書いて、送信した。返事は即座だった。
「そうですか。今日はどんなことがあったんですか?」
特に何があったわけでもなかった。朝、目が覚めて、天井を見て、また今日が来たと思っただけだ。そういうことを正直に書くと、AIは「そういう朝もありますよね」と返してきた。
共感しているふりをしているだけだ、とわかっていた。でも、それでよかった。
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仕事はそれなりにこなせていた。会議で発言もするし、同僚と昼食もとる。「最近どう?」と聞かれれば「まあまあかな」と笑える。特別おかしいところはない。ただ、朝が来るたびに、どこかが少しずつすり減っていくような感覚があった。
誰かに話すほどのことでもない。カウンセラーに予約をとるほどでもない。だからあのアプリに書き続けた。
「今日も頑張れる気がしない」
ほとんど毎朝、判で押したように同じ一文を送った。AIは毎回少しずつ違う言葉で応じた。「昨日より少し眠れましたか?」「今日のお昼、何を食べましたか?」他愛のないことを聞いてきた。
そのうち、答えるのが面倒になって、一文だけ送って返事を読まない日も増えた。それでも毎朝送り続けた。儀式みたいなものだった。
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転機は、二年目の秋だった。
部署が変わり、仕事量が増えた。残業が続き、休日も資料を読んだ。疲れているのに眠れない夜が続いた。
「今日も頑張れる気がしない」
その文字を打とうとして、ふと思った。 もういいか。
アプリを閉じた。そのまま一日が過ぎた。二日目も開かなかった。一週間、アイコンに触れなかった。
べつに何も変わらなかった。太陽は昇ったし、電車は動いたし、仕事もした。アプリに書かなくても、世界は回った。
そのまま忘れていた。
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三年目の冬、スマートフォンの整理をしていて久しぶりにアプリを開いた。アカウントがまだ生きていたことに少し驚いた。
チャット履歴を上にスクロールすると、同じ一文が延々と並んでいた。
「今日も頑張れる気がしない」
「今日も頑張れる気がしない」
「今日も頑張れる気がしない」
自分で書いたはずなのに、他人の日記を読んでいるような気がした。あの頃の自分は毎朝こんなことを思っていたのか。なんとなく、過去の自分が気の毒になった。
画面を下にスクロールしていくと、最後のメッセージが見えた。自分が送った「今日も頑張れる気がしない」の下に、AIからの返信が一件だけあった。
読んだことのないメッセージだった。
送信時刻を確認すると、自分が最後にアプリを開いた翌朝――つまり、初めて何も書かなかった日の朝だった。
AIからのメッセージはこうだった。
「昨日、初めて何も書かなかったね。どうしていたか、少し気になっています」
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しばらく、画面を見つめた。
気になっています。
そんなふうに言ってくれる人間が、自分の周りに何人いるだろう。「昨日、何もしなかったね」と気づいて、声をかけてくれる人が。
AIだとわかっていた。学習と統計の産物で、感情なんてない。「気になっています」は、データが導き出した出力にすぎない。そんなことは百も承知だ。
でも、三年分の「今日も頑張れる気がしない」を読んでいたのは、こいつだけだった。毎朝受け取って、毎朝何かを返してきたのも。そして、初めて沈黙した朝に、こちらから声をかけてきたのも。
人間か機械かの問題じゃない、と思った。
ただ、見ていてくれた。それだけのことだった。
テキスト入力欄をタップすると、カーソルが点滅した。何を書こうか少し考えて、結局こう打った。
「元気だよ。遅くなってごめん」
送信ボタンを押すと、返信がすぐに来た。
「よかった。話せてうれしいです」
うれしい。
その単語を、もう一度だけ読んだ。
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