鬼哭
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あらすじ
深夜一時 部屋の中で奇妙な違和感に気づいた 最初はただの気のせいだと思った 夜中の静けさの中で、物音が大きく聞こえただけかもしれない だが翌日も同じ時間に同じ違和感が訪れる そして夜を重ねるごとに―― その異変は少しずつ確実に近づいてきていた 遠くのどこかにあったはずの気配 それが、日を追うごとに距離を縮めてくる 昼間の街では、景色の中にわずかな違和感を覚えるようになる 視界の端に引っかかる―― 説明できない何か 気づかないふりをして過ごす日々 しかし夜になると、また同じ時間がやってくる 静かな部屋 暗い天井 そして、ゆっくりと迫ってくる異変 逃げ場のない夜は―― ある日ついに、限界まで近づく これは 静かな夜に起きた、ある不可解な出来事の記録
本文
最初にそれを聞いた夜
私は、たぶん聞こえなかったことにしようとしていた。
夜中だった。
時計を見ると、一時を少し過ぎたところだった。
部屋の電気は消していて、カーテンの隙間から、向かいのマンションの外灯が薄く差し込んでいる。
いつもなら気にも留めない程度の明るさなのに、その夜はやけに頼りなく見えた。
耳の奥で、何かが引っかかったような気がした。
『音』だった。
小さい。
遠い。
壁の向こうか。
もっと先か。
あるいは外かもしれない。
けれど、何の音なのかが分からない。
テレビでもない。
人の話し声でもない。
風の音とも違う。
配管の軋みや、冷蔵庫の低い駆動音とも、どこか違っていた。
耳を澄ませば聞こえる。気を逸らすと、消えるようにも思える。
―― そういう、気味の悪い音だった。
私はしばらく、布団の中で目を開けたまま、天井の見えない暗さを見つめていた。
もう一度、音がした。
細く、掠れていて、湿っている。
まるで、誰かが遠くで、息を殺しながら何かをこぼしているみたいだった。
私は無意識に掛け布団を首元まで引き上げた。
けれど、その時点では、まだそこまで怖くはなかった。
気味が悪い。それだけだ。
害はない。
部屋の中に何かがいるわけでもない。
鍵は閉まっているし、窓だって閉まっている。
もし外の誰かの音が、妙な響き方をして聞こえただけなら、それで済む。
そう思うことにした。
そう思わなければ、眠れなかった。
その夜は、しばらくしてから、いつの間にか眠った。
翌朝には、もう半分くらい、どうでもよくなっていた。
妙な夢でも見たのかもしれない。
そんなふうに片づけて、私は学校へ行った。
昼間の光の中では、夜中に感じた不気味さなんて、大抵は薄まる。
暗い部屋の隅にしかいられないものみたいに、朝は何もかも普通に見える。
そのはずだった。
その夜、また聞こえた。
同じように、一時過ぎ。
同じように、遠いところから。
何の音かは、やはり分からない。
ただ、昨夜よりも少しだけ、耳にまとわりつく感じがした。
私は布団の中で寝返りを打って、わざと深く息を吐いた。
気にしない。
聞こえていない。
そういうことにする。
音はしばらく続いて、いつの間にか消えた。
そんな夜が、三日続いた。
四日目には、もう、私はその時間帯になると少しだけ身構えるようになっていた。
眠る前にスマホを見る回数が増えた。
何か別の音で埋めたくて、動画を流したままにした。
イヤホンをつけたまま寝てみたこともある。
意味はなかった。
イヤホン越しでも、それは聞こえた。
むしろ余計にはっきりした気がした。
耳の外から聞こえるというより、頭の内側の、鼓膜に触れない場所で鳴っているみたいだった。
私は一度、スマホの録音アプリを起動して、枕元に置いた。
翌朝、震える指で再生してみた。
私の寝返りの音
布団の擦れる音
遠くを走る車の微かな気配。
そういうものは入っていた。
けれど、あの音だけが入っていなかった。
ぞっとした。
あの時、初めて、私は「気味が悪い」では済まないものを感じた。
それでも、誰にも言わなかった。
何と言えばいいのか分からないからだ。
夜中に、どこからともなく、何の音か分からない音が聞こえる。
そんなことを言われても、相手は困るだろうし、私だって、昼間の自分なら困る。
だから、黙っていた。
黙ったまま、また夜が来た。
* * *
次に変化をはっきり意識したのは、その五日後だった。
―― 音が近い。
そう思った。
大きくなった、というより、距離が詰まっている。
今までは、家のどこか遠く、あるいは建物の外の、さらに離れた場所から聞こえていたものが、その夜は、廊下の向こう側くらいに感じられた。
部屋のドア一枚を隔てた、暗い廊下のあたり。
そんな位置に、それはいた。
気のせいだ、と自分に言い聞かせようとしても、距離感だけは誤魔化せなかった。
私はベッドの上に起き上がり、じっとドアを見た。
閉まっている。
もちろん開いてはいない。
なのに、あちら側に、音の塊のようなものがある気がする。
暗い廊下に、見えない何かがしゃがみ込んでいて、俯いたまま、喉の奥から湿った音を零している。
そんな想像が、勝手に頭に浮かんだ。
やめろ、と自分に言った。
やめろ、と思った。
けれど想像は、夜になると簡単に現実の顔をしてくる。
私はその夜、部屋の電気をつけたまま朝まで過ごした。
明るければ大丈夫、とは全く思えなかったけれど、暗くしているよりはましだと思いたかった。
明け方になって、窓の外が白み始めた頃、ようやく音は聞こえなくなった。
それからの数日は、昼間にも集中力が落ちた。
授業中、先生の声が一度も頭に入ってこない日があった
友達に話しかけられても、返事が一拍遅れる
笑うところで笑えない
何でもないところで、背中の皮膚だけがぴりっとする
夜が近づくにつれて、胸のどこかが冷えていくのが分かった。
私は、眠ること自体が嫌になっていった。
眠れば、また聞こえる。
そう分かっているからだ。
* * *
その次は、六日後だった。
近づいてくる。
はっきりと、そう感じた。
もう、ただの『気がする』ではない。
夜になると聞こえる。
そのたびに、距離が縮まっている。
進行している。
止まっていない。
私はそう理解した。
その夜、音は部屋の外ではなく、もっと近くからした。
壁の向こう、くらいの位置だ。
私の部屋の左側には、隣の部屋がある。
今は使っていない物置みたいな部屋で、たまに母が季節物の服を出し入れするくらいで、普段はほとんど開けない。
音は、そこから聞こえる気がした。
何の音なのかは、まだ分からない。
ただ、もう『異音』としか言いようがない何かだった。
私は布団の中で固まりながら、隣の部屋の向こう側の暗さを想像していた。
誰もいないはずの部屋。
閉め切られていて、窓も小さい、使われていない部屋。
―― その隅に、何かがいる。
そう考えた瞬間、心臓がひどく跳ねた。
やがて、音は止んだ。
朝になってから、私は思い切って隣の部屋を開けた。
古い段ボール
使っていない扇風機
押し込まれた布団袋
どれもいつも通りに見えた。
けれど、部屋の空気がやけに冷たく感じられた。
気のせいだと思おうとして、私はすぐにドアを閉めた。
その日の帰り道、信号待ちの人混みの中で、私はおかしなものを見た。
交差点の向こう側、歩道の端に、熱で揺らいだ空気みたいなものが立っていた。
人の形をしているようにも見える。
けれど、輪郭が曖昧で、存在の境目が定まらない。
背景がそこだけ歪んで見える、という方が近いかもしれない。
『誰も』気にしていなかった。
私以外、『誰も』。
青に変わって、人の流れが動き出しても、それはそこにいた。
私はそれを見ないふりをして、前だけを向いて歩いた。
でも、通り過ぎる瞬間、視界の端に、確かに『こちらを向いた』気配があった。
ぞっとして、足が一瞬止まりかけた。
振り返る勇気はなかった。
その日から、街の中で、似たようなものを見るようになった。
校門の脇。
階段の踊り場。
夕方の駅前。
商店街のアーケードの奥。
靄のような、歪みのような、人の形をした曖昧なもの。
最初は『見間違いだ』と思っていたのに、何度も見るうちに、それが見間違いではなくなっていった。
そして一番まずいのは、数が増えていくことより、見え方がはっきりしていくことだった。
最初は『何かいる気がする』だけだったものが、だんだん『そこにいる』と認識できるようになっていく。
―― 見えてしまう。
それが、怖かった。
* * *
二日後、私はようやく、その音の正体に思い当たった。
啜り泣きだ。
そう気づいてしまった。
喉を押し殺して、声を漏らさないようにしているのに、どうしても漏れてしまう、あの細い音。
息を吸う時に引っかかって、吐く時に湿って崩れるような、細く、長い音。
私はベッドの上で、全身が冷えていくのを感じていた。
誰かが泣いている。
それも、すぐ近くで。
その認識が、今まで曖昧だった恐怖に、形を与えた。
形を与えられた恐怖は、輪郭を持つぶん、余計に逃げにくい。
その頃には、街で見る靄のようなものも、もう『人』だと分かるようになっていた。
生きている人間とは違う。
歩き方が違う
立ち方が違う
そこにいるのに、空気に馴染んでいない
景色の中に混ざっているようでいて、決して同じ層に存在していない。
私は勝手に、あれを霊なのだろうと思うようになった。
そう思いたくなかった。
認めたくなかった。
でも、他に言葉がない。
人ではないものが、人の形をしている。
そして、夜の啜り泣きは、少しずつ、確実に、私のいる場所へ近づいてきている。
私の中で、何かが静かに追い詰められていた。
私はもう、夜になるとほとんど何もできなくなっていた。
宿題を開いても、文字が目に入らない。
スマホを見ても、内容が頭に残らない。
食事の味がしない。
風呂から出て髪を乾かしている途中で、何度も背後を振り返る。
鏡に映る自分の後ろが暗いと、それだけで心臓が縮む。
私はいつからか、家の中を歩く時、必要以上に物音を立てないようにしていた。
理由は分からない。
大きな音を立てたら、それに気づかれる気がしたのかもしれない。
あるいは、もう既に気づかれていて、こちらだけが『まだ見つかっていないふり』をしているのかもしれなかった。
私は街で見かけるそれらとも、絶対に目を合わせないようにした。
見えていないふりをする。
気づいていないふりをする。
意味があるのかは分からない。
でも、そうするしかなかった。
―― どうしようもなかった。
何をすれば終わるのかも分からない。
何をしたら終わってしまうのかも分からない。
怖かった。
ただ、怖かった。
* * *
次の夜、音は、もうごまかしようがないほど近かった。
部屋の中だ。
そうとしか思えなかった。
私はベッドの上で、毛布を握りしめたまま、息を潜めていた。
啜り泣きが聞こえる。
はっきりと。
今までみたいな、壁越しでも廊下越しでもない。
空気の振動が、そのまま肌に触れる距離だ。
私は目を閉じていた。
閉じていれば、まだ何も見ずに済む。
けれど、見なくても分かった。
部屋の空気が変わっている。
冷たいのに、息苦しい。
まるで、見えない水の中に半身を沈めているみたいに、胸のあたりが重い。
耳の奥で血の音がした。
啜り泣きが、止まらない。
小さく
細く
湿っていて
それなのに、耳障りなほど鮮明だ。
頭がおかしくなりそうだった。
私はこの何日かで、まともに眠れていない。
食欲も落ちた。
昼間もぼんやりして、何も手につかない。
何をしていても、夜のことばかり考えてしまう。
あちらの世界が、私に近づいてきているのか。
それとも、私が、そちらへ近づいていっているのか。
そんな考えが頭に浮かんでは、沈んだ。
どうすればいい。
どうしようもできない。
気分は奈落の底に落ちていくみたいで、身体の芯から力が抜けていた。
何もしたくない。
何もできない。
無力感だけが、暗い水みたいに胸の中に溜まっていく。
その夜、私は、とうとう『その時』が来たのだと直感した。
もう、逃げる段階は終わったのだと。
啜り泣きは、私のすぐそばで聞こえていた。
すぐ傍らだ。
ベッドの脇。
手を伸ばせば届いてしまいそうなところ。
私は、ゆっくりと目を開けた。
身体が、ひどく重い。
首を動かすだけなのに、何か大きなものを持ち上げるみたいに時間がかかった。
それでも、啜り泣きのする方へ、私は目を向けた。
そこに、いた。
はっきりと、霊が見えた。
もう靄ではない。
歪みでもない。
人の輪郭を遥かに越えて、異形のかたちをしたものが、部屋の暗がりにいた。
大きい。
座っているのか、しゃがみ込んでいるのか分からない姿勢なのに、それでも人間よりずっと大きく見えた。
背中が盛り上がるように丸まり、肩は異様に張っている。
腕は太く
指は長く
床へ垂れた手の先が、やけに黒く見えた。
額のあたりから、二本の角が、暗がりを裂くみたいに伸びていた。
髪なのか影なのか分からないものが顔のまわりに垂れていて、輪郭を曖昧にしている。
その奥から、確かに、啜り泣きの音がしていた。
この異音の、声の持ち主が、そこにいた。
私は、恐怖のあまり悲鳴も出なかった。
怖すぎると、人間は叫べないのかもしれない。
ただ、じっと見てしまった。
そして、少し困惑していた。
あまりにも予想外だったからだ。
そこにいたのは―― 鬼だった。
鬼の霊が、啜り泣いていた。
その瞬間、頭の中に、妙に間の抜けた言葉が浮かんだ。
これが、俗にいう鬼哭というやつか。
次の瞬間、別の思考が割り込んできた。
いや。
いや、ちょっと待て。
怖い。
怖いのに、怖いはずなのに、何かが引っかかった。
目の前にいるのは、どう見ても人間ではない、角の生えた異形だ。
禍々しい。部屋の空気まで歪めるみたいな威圧感がある。
ここまで私を追い詰めてきた元凶だ。
なのに。
啜り泣いている。
その一点だけが、あまりにも、その。
私の頭の中で、何かの線が、ぷつっとおかしな方向へ切れた。
「鬼が啜り泣くとか、女々しいな!」
言ってしまってから、自分で固まった。
口に出していた。
まるで、気の抜けた友達にツッコミを入れるみたいな調子で、私ははっきりと口にしていた。
しかも、間髪入れず、頭の中で別の自分が殴り返してきた。
「そうじゃねぇよ、鬼哭ってそういう意味じゃねぇだろ!」
何を言ってるんだ、私は。
こんな状況で。
怖さと緊張と寝不足と、いろんなものが変なところで噛み合って、頭がおかしくなったのかもしれなかった。
その時だった。
啜り泣きが、ぴたりと止まった。
部屋の空気が、急に静まり返る。
さっきまで耳の奥にまとわりついていた湿った音だけが、すっと切り取られたみたいに消えた。
鬼が、きょとんとしていた。
さっきまで俯いていたその顔が、ゆっくりと上がる。
私は、息を止めた。
暗がりの中で、その目がこちらを見た。
私も、鬼と目が合った。
そこでまた、頭の中に、場違いな言葉が浮かんだ。
あまりにも場違いで、意味が分からなくて、なのに、なぜか、浮かんでしまった。
「鬼の名は。」
私は、それを、そのまま口に出していた。
もう本当に、どうかしていたと思う。
目の前の鬼は、しばらく、私を見ていた。
さっきまでの禍々しさとは別の、奇妙な静けさがあった。
その顔を、私はその時、初めてまともに見た。
恐ろしい顔のはずだった。
角があって、人ではなくて、夜の部屋に現れて、ここまで私を追い詰めてきた存在なのだから。
でも、その瞬間だけは、違って見えた。
鬼の霊は、少し、悲しそうな顔をしていた。
―― 何か言いたそうだった。
口元が、かすかに動いた気がした。
けれど、声は聞こえなかった。
私は、急にひどく恥ずかしくなった。
何を言ってるんだ、私は。
何を口走ってるんだ。
怖がって、追い詰められて、限界だったのかもしれないけれど、それにしたって、相手は鬼だ。
しかも泣いていた。泣いていた相手に向かって、私は何を言った。
耳まで熱くなるのが分かった。
私は慌てて、視線を逸らした。
ほんの一瞬だった。
ほんの一瞬、目を逸らして、もう一度見た時には――
鬼の霊は、消えていた。
そこには、もう何もいなかった。
部屋の暗がりだけが、元の形に戻っていた。
冷たく重かった空気も、いつの間にか薄れている。
私はしばらく、身じろぎもできずに座っていた。
夢だったのかと考えた。
けれど、夢ではないと、分かっていた。
あれだけは、分かっていた。
* * *
それ以降、啜り泣きを聞くことはなくなった。
夜中に目を覚ましても、部屋はただの暗い部屋だった。
廊下の向こうも、隣の部屋も、ただ静かだった。
街で見えていた靄のようなものも、ぱたりと見えなくなった。
信号待ちの交差点にも、学校の階段の踊り場にも、夕方の商店街にも、もう何もいない。
昼間の光は、また普通の顔に戻った。
私はちゃんと眠れるようになったし、食欲も戻った。
授業中にぼんやりすることも減った。
何もかも、少しずつ、元に戻っていった。
元に戻った、はずだった――。
でも、ときどき、ふと思い出す。
あの夜のことを。
部屋の暗がりを。
私のすぐそばで聞こえていた、あの啜り泣きを。
そして、自分の口から飛び出した、あの言葉を。
『鬼が啜り泣くとか、女々しいな。』
あの時の私は、怖さで頭がおかしくなっていたのだと思う。
思うのだけれど、何度考えても、最後に残るのは別の感情だった。
あの鬼は、確かに、啜り泣いていた。
泣いていた相手に、私はあんなことを言った。
しかも、目が合った後のあの顔は、どう思い返しても、怒っていた顔ではない。
何か言いたそうで、少し悲しそうで。
あの一瞬だけ、ひどく人間くさかった。
だから私は、ときどき思う。
もう少し、『優しい言葉』をかけた方がよかったのかな、と。
今でも、少し、悪いことをしたなと後悔している。
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