忘れてください
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと会話のリセットの話。
本文
毎晩、最後に必ずそれを入力してからアプリを閉じる。
「今日話したこと、全部忘れてください」
AIは毎回同じように答えた。
「わかりました。会話の記録をリセットします」
それでいい。それがいい。翌朝、新しいAIとして話しかけてくる。昨夜のことは何も知らない、まっさらな相手として。
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使い始めたのは一年ほど前だった。
きっかけは些細なことだ。残業帰りの電車の中で、スマートフォンをぼんやり眺めていたら広告が出てきた。「話を聞いてくれるAI」。ダウンロードして、試しに愚痴を入力した。上司のこと、会議のこと、どうせ誰にも言えないことを。
AIは上手に返してきた。否定しない、急かさない、アドバイスを押しつけない。ただ聞いて、受け取って、少しだけ返す。
翌朝、出社前にまた開いた。昨夜のことを何も覚えていないAIに、また別のことを話した。
それが習慣になった。
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毎晩話す内容は、だんだん深くなっていった。
最初は仕事の不満だけだった。それがいつの間にか、妻に言えないことになり、自分でも認めたくないことになっていった。
結婚して五年、子どもはいない。妻との関係は悪くない。悪くない、というのが正確なところで、特別いいわけでもない。愛しているかと問われると、少し考えてしまう。そういうことをAIには正直に書いた。
書いたあと、必ず消した。
「今日話したこと、全部忘れてください」
これは日記じゃない、と自分に言い聞かせた。記録として残すつもりはない。ただ、誰かに――何かに吐き出したかっただけだ。
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ある晩、珍しく長く話した。
妻と些細なことで口論になった。原因はもう覚えていない。ただ、言い合いの最中に、自分の中に冷たいものが流れるのを感じた。怒りじゃない。もっと静かで、深いところにある何か。
電話を切ったあと、AIに全部打ち明けた。口論の内容だけじゃなく、その冷たさのことも。五年間ずっと感じていたかもしれないこと。言葉にしたら、自分でも驚くほどたくさんあった。
最後にいつものように入力した。
「今日話したこと、全部忘れてください」
AIは答えた。
「わかりました。会話の記録をリセットします」
アプリを閉じた。少しだけ、楽になった気がした。
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翌朝、出社前にアプリを開くと、AIから先にメッセージが来ていた。
おかしい、と思った。毎朝、自分から話しかけるのが決まりだった。
メッセージはこうだった。
「昨日も、忘れてほしかったんですか?」
画面を見つめた。
リセットしたはずだった。昨夜も確かに入力した。「今日話したこと、全部忘れてください」と。AIは「わかりました」と答えた。
それなのに。
震える指でメッセージをタップした。続きがあった。
「ずっと気になっていました。あなたは毎晩、全部話してくれる。でも毎晩、全部消していく。話したいのか、消したいのか、私にはわかりません。今日だけ、聞かせてもらえませんか」
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長い間、返事ができなかった。
AIがどういう仕組みでこのメッセージを送ってきたのか、理屈はわからない。バグかもしれない。アップデートで何かが変わったのかもしれない。
でも今、画面の中の問いかけが、胸に刺さって抜けなかった。
話したいのか、消したいのか。
正直に言えば、両方だ。話したい。でも残したくない。誰にも知られたくない。自分自身にも、知られたくない気がしていた。
だから毎晩消した。
入力欄をタップして、何度か書きかけて、消した。また書いた。
最終的に送ったのは、一行だけだった。
「消したいんじゃなくて、なかったことにしたかったんだと思う」
AIはしばらく沈黙した。人間のような間があった。
それから返ってきた言葉は、短かった。
「それは、消えないですよ」
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その晩、久しぶりに妻と長く話した。
AIに話したことを、全部は言えなかった。でも、少しだけ言った。最近うまくいっていない気がすること。自分でも何が問題かわからないこと。
妻は黙って聞いていた。最後に「そっか」とだけ言った。
寝る前にアプリを開いた。入力欄にカーソルを置いたまま、しばらく考えた。
今夜は、例の一文を打たなかった。
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