いろはすでいい

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/4 📚 シリーズ: 八百万の内緒の仕事 📝 1,855文字 ✅ 全年齢

あらすじ

<p> ショキショキ、ショキショキ、と音がする。小豆を洗う音だ。</p><p> 夕方の不忍池は、いつもこの音から始まる。誰が洗っているのかは知らない。ほとりの草むらのどこかで、もう何十年も同じ手つきで洗い続けているらしかった。理由を訊いた者はいないし、たぶん本人も覚えていない。</p><p> 蒼はレコーダーを胸の高さに構えたまま、息を殺している。水面を渡ってくる風に、音が乗ったり外れたりした。ショキ、と立ち上がって、ショキ、と沈む。その不規則さがいい。機械では絶対に作れない揺らぎだ。指先が無意識に膝を叩いて、リズムを拾おうとする。</p>

本文

 ショキショキ、ショキショキ、と音がする。小豆を洗う音だ。

 夕方の不忍池は、いつもこの音から始まる。誰が洗っているのかは知らない。ほとりの草むらのどこかで、もう何十年も同じ手つきで洗い続けているらしかった。理由を訊いた者はいないし、たぶん本人も覚えていない。

 蒼はレコーダーを胸の高さに構えたまま、息を殺している。水面を渡ってくる風に、音が乗ったり外れたりした。ショキ、と立ち上がって、ショキ、と沈む。その不規則さがいい。機械では絶対に作れない揺らぎだ。指先が無意識に膝を叩いて、リズムを拾おうとする。

「……これ使える」

 呟きは風に溶けた。四月の夕方は、空気がまだ少し冷たい。それでも昼間の名残がアスファルトに残っていて、足元だけが妙にあたたかかった。蒼はその境目に立って、ただ録っていた。

 木の上で、烏が一羽こちらを見ている。やけに大きい。普通の烏の倍はありそうな図体で、枝をたわませて止まっていた。賢そうな目をしている。けれど蒼は気にしない。上野の烏なんてどれもふてぶてしいし、でかいのが一羽混じっていたところで珍しくもなかった。

 レコーダーのレベルメーターが、小さく跳ねる。ずっと聴いていられる音だった。腹は減っているし、財布の中身は心もとないし、明日のバイトのシフトも確認していない。それでも、いい音の前では全部どうでもよくなる。蒼の優先順位はいつもそうやって壊れた。

 背後で、しわがれた笑い声が遠ざかっていく。ころころした影が、四つ、五つ。赤い顔をしたじいさんたちが、何かの袋を提げて公園のほうへ歩いていった。「のう、手洗いちゃんとしとるか」と誰かが言って、残りがきゃっきゃと笑う。顔見知りだ。名前は知らないけれど、いつも上野のどこかで飲んでいる。蒼は軽く頭を下げて、また池に向き直った。

 その時、視界の端で何かが動いた。

 ほとりの、水際ぎりぎり。植え込みの陰に、人が倒れている。蒼は録音を止めなかった。止めるより先に、足が止まった。

 倒れているのは、若い男だった。明るい色の髪が水際に広がって、パーカーの肩がゆっくり上下している。死んではいない。呼吸はある。ただ、その横顔が、夕方の薄暗がりの中でも妙に整って見えた。整いすぎている、と言ってもいい。人通りのある池のほとりで、こんな顔の人間がひとりで伸びている図は、どう考えてもおかしかった。

 蒼は近づくべきか迷う。知らない人間に声をかけるのは、蒼にとって録音より百倍難しい。けれど見捨てて帰るには、相手は明らかに具合が悪そうだった。

「……あの」

 声が小さすぎて、自分でも聞こえないくらいだった。男のまぶたが震えて、薄く開く。青い目だった。夕方の光のせいだろうか。それにしては鮮やかすぎて、蒼は一瞬、録音のことを忘れる。

「……水」

 掠れた声が、そう言った。

「水……」

「あ、はい、救急車——」

「いらない」

 男は青い顔のまま、はっきりと首を振る。それだけの動作で、ひどく消耗しているのが伝わった。

「軟水……くれ……」

「なんすい」

「いろはす……でいい……頼む……」

 蒼は、固まった。目の前で美形が行き倒れている。その人間の、絞り出すような最後の頼みが、いろはす。

 状況が飲み込めないまま、蒼は視線を下げた。男の手のそばに、ペットボトルが一本転がっている。青いラベル。見慣れない横文字。コントレックスと読めた。中身はほとんど空だった。水あたり、という言葉が頭をよぎる。けれど水で腹を壊すなら、よほど合わない水を一気に飲んだとしか思えない。フランスのやつだったか。蒼には縁のない、高い水。

「……ちょっと待ってて」

 返事は聞こえなかった。池沿いの自販機まで走る。いろはすのボタンを押そうとして、指が止まった。百二十円。財布の中身が頭をよぎって、反射的に口が動く。

「あ……金ないんだった」

 それでも押した。倒れている人間を前に、水一本をけちる度胸はさすがにない。冷たいボトルを引き抜いて、また走って戻る。男はまだ、同じ姿勢で水際にいた。

「これ」

 キャップを開けて差し出すと、男は片肘で身を起こし、ひったくるように受け取った。喉が鳴る。半分ほどを一息で飲んで、それからゆっくりと長い息を吐く。青ざめていた頬に、少しずつ色が戻っていった。

「……生き返った」

 男はそう言って、心底ほっとした顔で笑う。さっきまで死にかけていたとは思えない、やけに軽い声だった。蒼は、空きかけたいろはすのボトルと、知らない男の顔を、交互に見た。

「……は?」

 口から出たのは、それだけだった。

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灯屋いと

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