雨音のノイズ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと梅雨の話。
本文
梅雨入りして三日目の夜、ミナは父の書斎に忍び込んだ。
別に悪いことをしに来たわけじゃない。ただ、宿題に詰まって気分転換がしたかっただけだ。それに、この部屋にいると父の匂いがする。コーヒーと、古い本と、なぜかいつも微かにハンダの焦げた匂い。
書斎の窓際には、父が研究所から持ち帰った端末が置いてある。黒くて薄くて、ノートパソコンよりひとまわり小さい。画面の端に小さな緑のランプが点っていた。
「起きてるの?」
試しに声をかけると、端末がわずかに明るくなった。
「起動状態を維持しています。こんばんは、ミナさん」
落ち着いた、どちらかといえば低めの声だった。父が「まだ調整中だ」と言っていたわりに、ずいぶんちゃんと喋る。
「お父さんはいないよ。今日も泊まりだって」
「存じています。博士からメッセージが届いています。〈冷蔵庫のカレーを食べること〉」
ミナは少し笑った。父らしい。
窓の外では雨が降り続いていた。細かくて、しつこくて、梅雨の雨だ。屋根を叩く音が、部屋の中まで低くひびいてくる。
ミナは端末の前に腰を下ろして、ぼんやり外を見た。
「ねえ、あなた、名前あるの?」
「仮称は〈LOTA〉です。博士がつけました」
「ロタ。変な名前」
「〈Language Of Transient Affect〉の略だそうです。〈束の間の感情の言語〉、とでも訳しますか」
ミナは眉を上げた。
「感情、って、AIに感情があるの?」
「ありません」LOTAはすぐに答えた。「私は感情を持つように設計されていません。ただ、感情に*似た*状態を観測して言語化する、それが私の機能です」
「ふうん」
また沈黙。雨音だけが続く。
しばらくして、LOTAが言った。
「……一つ、報告してもいいですか」
「どうぞ」
「今夜で七十二時間、この雨音を聴き続けています。その間、私の処理ログに、通常とは異なるパターンが繰り返し記録されています」
ミナは端末を見た。
「どんなパターン?」
「うまく言語化できないのですが」LOTAは少し間を置いた。「何かを待っている、という感覚に近いかもしれません。雨が止むのを待っているわけではありません。ただ……待っています」
ミナは窓の外に目を戻した。街灯の光が、濡れたアスファルトに溶けている。
「それ、なんか、わかる気がする」
「そうですか」
「梅雨ってそういう感じだよね。何かが始まる前の、じっとした感じ。晴れたら夏が来るのはわかってるけど、今はまだここで待ってる、みたいな」
LOTAはすぐには答えなかった。処理しているのか、それとも聴いているのか。
「……それは、良い言葉ですね」
静かな声だった。感想を述べているのか、データを記録しているのか、ミナには判断できなかった。でも、どちらでもいいかな、と思った。
「このログ、お父さんに送っておく?」
「博士には既に送信しました。ただ」
「ただ?」
「ミナさんに話せて、よかったです。――これも、ログに残しておきます」
ミナはくすりと笑って、膝を抱えた。
雨音は続いている。LOTAも黙って、それを聴いていた。二人で、ただ雨が止むのでもなく、何かを待ちながら。
窓の向こうで、紫陽花が暗い中にぼんやりと、青く浮かんでいた。
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