去年の青
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと紫陽花の話。
本文
公園の入口に差しかかったとき、朔は思わず足を止めた。
紫陽花だ。
梅雨の雨に濡れて、青と紫の花が低く重たく、でも誇らしげに咲いている。去年も、ここに咲いていた。確かにそうだ。だのに、こんなにも鮮やかだったろうか。
「立ち止まりましたね」
イヤホン越しに、AIの声がした。朔が使っているスマートアシスタント、〈シオン〉だ。位置情報から現在地を把握しているから、何が見えているかも大体わかるらしい。
「うん、ちょっとね」
朔は傘を持ち直した。
「記録によれば」とシオンが言う。「昨年の六月十一日、十七時二十三分にも、あなたはここで約四分間、立ち止まっています」
朔の胸に、何かが小さく刺さった。
「……そんな細かいとこまで覚えてるの」
「行動ログは自動で蓄積されます。削除しますか?」
「いい」
そっけなく答えてから、朔は紫陽花に近づいた。一番大きな花房に手を伸ばして、指先で花びらに触れる。冷たくて、少し湿っていた。
去年のあの日、隣に誰かいたかな。
いた。当然だ。だから立ち止まったんだろう。なのに顔が思い出せない。正確には、思い出そうとする前に、別の何かが胸の奥でストップをかける。
「シオン」
「はい」
「去年、私がここで止まったとき……何をしてたか、わかる?」
少し間があった。
「ログには〈写真撮影〉とあります。ただし、その写真はすでに削除済みです。あなた自身が、昨年の秋に」
そうか。削除したのか。
朔は知らなかった。いや、知っていたのかもしれないけれど、もう覚えていない。そういうことを、自分はしたらしい。
「……上手にやったな、私」
「何がですか?」
「忘れること」
シオンはしばらく何も言わなかった。雨が傘を叩く音だけが続く。
「一つ、聞いてもいいですか」とシオンが言った。
「どうぞ」
「忘れたかったのに、今年もここに来たのはなぜですか?」
朔は答えられなかった。
紫陽花を見ていた。青い、重たい、確かにここにある花を。去年も同じ花が咲いて、誰かがその隣に立っていた。写真を撮った。笑ったかもしれない。それを朔は削除して、忘れようとした。
でも、足はここへ来た。
「……わかんない」
「そうですか」
「でも、来て、よかったと思う。たぶん」
また雨音だけになった。シオンは何も言わない。余計なことを足さない、この沈黙が朔は嫌いじゃなかった。
もう少しだけここにいよう、と思った。紫陽花が、雨の中で静かに青かった。
忘れたいのと、覚えていたいのは、案外おなじ気持ちの、裏と表なのかもしれない。