鈴蘭の白は、もう庭の奥でほどけていた

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/22 📚 シリーズ: 短編・番外編 📝 11,204文字 ✅ 全年齢

あらすじ

短編・番外編 - 鈴蘭の白は、もう庭の奥でほどけていた

本文

鈴蘭の白は、もう庭の奥でほどけていた。

 夜の窓には初夏の湿りが薄く張りつき、硝子の向こうで葉が重たげに揺れている。昼の熱は石壁の内側へまだ残っていて、けれど床に触れる素足の裏だけは、湯上がりの身体からすこしずつ温度を奪っていった。

 夫婦専用の湯殿で、いつもより長く身体を清めた。

 湯に沈めた腕を見ているあいだ、わたしは何度も、何でもないことだ、と自分に言い聞かせていた。疲れた夫を迎えるだけ。少しよい酒を出すだけ。王配殿下が好む葡萄酒を、たまたま取り寄せただけ。

 たまたま。

 その言葉は便利で、なのに鏡の前に立つころには、もうほとんど効き目を失っていた。

 淡い青の夜着は、袖口に細い銀糸が刺してある。月明かりに触れると水のように光る色だった。いつもなら選ばない。少し幼く、少し頼りなく、それでいて肌の温度を隠しきれないような薄さがあった。

 肌着の紐を結び直す指が、二度、三度と迷う。

 胸元のリボンも、結んでは解いた。香水も変えた。鈴蘭のころにつけていた清い香りではなく、白い花の奥に果実の甘さが残るものにした。濃すぎないように手首へ一滴だけ落とし、それでも不安になって、袖の内側でそっと拭った。

 テーブルには、銀の燭台と二つの杯。

 彼の好きなワインは、まだ封を切っていない。栓抜きは置いてある。置いてあるのに、手に取る勇気がなかった。

 その横には、昼のうちに読み終えられなかった報告書が二通、伏せて置かれている。明日の朝までに裁決を返さなければならないものだ。端へ避けたつもりだったのに、紙の白さは妙に目立った。王国は、寝所の扉を閉めても消えてはくれない。

 呼びに来ただけ。待っていただけ。王統のことを話すだけ。

 そういう言葉を、胸の内へ順番に並べてみる。どれも硝子細工のように軽く、触れた先から欠けていった。

《生体周期照合》

▼受胎可能性は高水準です

▼身体負荷は許容範囲内

▼最終判断権はマスターにあります

 寝台脇の表示を見た瞬間、耳の奥まで熱が上った。

「あのね、レシュトル。そういう言い方は、やめてくれないかしら」

 湯上がりの喉はまだ少し湿っていて、抗議の声だけが妙に頼りなく響いた。

《説明精度を優先しています》

▼表現調整は可能です

▼ただし事実は変化しません

「……もっと嫌な言い方になったわ。あなたって……これだからAIは。ひとの気持ちなんてこれっぽっちもわかっていない」

 表示は消えない。消せばよかった。なのに消さないまま、わたしは夜着の袖口をまた整えていた。

 事実は変化しない。

 その言葉が、針のように胸の内へ残る。

 王統の安定。リュシアンの自由。本来のメービスの願い。再建途上にある王国の未来。どれも嘘ではない。嘘ではないからこそ、そこへ逃げ込める。

 けれど、ほんとうは。

 扉の外で、遠い靴音がした。

 肩が強張る。燭台の火が揺れ、ワインの瓶に小さな光が走った。香水の甘さが急に濃く感じられて、思わず手首を握る。

 靴音は近づいてくる。

 夜の廊下を渡る重い音。急ぎすぎず、けれど疲れを隠しきれない歩幅。それだけで、彼だとわかった。

 扉が開いた。

 ヴォルフは、白い王配の儀礼服を着ていた。

 肩には金糸の飾りがあり、火の明かりを受けて鈍く光っている。昼間なら、彼をいっそう端正に見せたはずの礼服だった。けれど今は、襟元に夜気が沈み、袖口には書類の紙粉のような白さがついている。長い銀髪も、いつもよりわずかに乱れていた。

 疲れている。

 その一語が、喉の奥に落ちた。

 新設された銀翼騎士団の編成。軍改革。古い将官たちとの折衝。武官の人事と予算の組み替え。軍総司令としての彼に、休む暇などほとんどなかった。

 そしてそれは、わたしも同じだった。

 クレイグ・アレムウェルがいなくなってから、王国再建の実務的な裁決は、わたしの手を通らなければ動かなかった。閣僚たちの視線。貴族院の探り合い。地方から届く嘆願。破れた国を縫い合わせるような日々は、針先を少し誤るだけで、また血を呼ぶ。

 それなのに。

 今夜のわたしは、淡い青の夜着を着て、香りまで変えて、彼の好きな酒を置いていた。

 急に、全部がひどく場違いに思えた。

「まだ起きていたのか」

 外気の冷えを含んだ声だった。

「あなたの帰りが遅いのは、今に始まったことではありませんもの」

 声を平らにしたつもりだった。なのに袖の内側で握った指は、すこし湿っている。

 ヴォルフの視線が、テーブルへ落ちた。

 杯が二つ。封の切られていないワイン。燭台の火。読みかけの報告書。そこから、わたしへ戻る。

「ほう、珍しい酒だな。待っていたのは、これを開けるためか」

 杯の縁に落ちるみたいな声だった。視線を逸らし、封を切られていない瓶の首を見つめた。

「王配殿下がお気に召さなければ、明日の煮込みにでも使います」

 言ってから、自分でも少しひどいと思った。

 ヴォルフは一拍だけ黙り、それから口元をわずかに動かした。

「王配のために取り寄せた酒を、煮込みに使うのか」

「きっと、葡萄酒にも別の人生があるでしょう」

 窓の外で、葉が夜風に擦れた。薄い音が部屋へ届き、言い訳の余韻だけをそっとさらっていく。

「人生か。葡萄酒にもなかなか過酷な兵役があるんだな」

「あなたの兵法の前では、ワインだって厨房へ逃げます」

「俺はまだ逃げてないぞ」

「そうかしら。逃げる前の顔をしているわよ」

 言った瞬間、彼の目がすこし細くなった。

 疲れの奥に、いつもの光が戻る。からかいの前触れ。見抜いたうえで、あえて外した言葉を選ぶときの目。

 ああ、まただ。

 そう思うのに、喉の力が抜けてしまう。

「その色は、初めて見る」

 彼の視線が、夜着の袖口から肩へ移った。

 肌に触れていた布が、急に頼りなくなる。

「似合いませんか?」

「似合っている」

 あまりにまっすぐ言われて、息が喉で止まった。

「……そ、それ以上、言わなくて結構です」

「聞いたのはそっちだろうに」

「社交辞令というものを期待しただけです」

「社交辞令でよければ、明日の貴族院で山ほど聞けるぞ」

 声の端に、笑いが残っていた。

 それが悔しい。彼は疲れているくせに、こういうときだけ、妙に息を吹き返す。

「軍総司令閣下は、ずいぶんお元気そうで何よりですわ」

「元気なら、この格好で帰っては来ないさ」

 彼は礼服の肩飾りに手をかけた。金具を外そうとして、指が一度滑る。ほんの小さな動きだった。その疲労の濃さに足が動いて、わたしは反射のように近づいていた。

「じっとしていて」

 香水の甘さが、自分の動きに合わせて揺れた。

 ヴォルフが動きを止める。

 近づくと、彼の服には外の風と革と紙の匂いが残っていた。わたしの香りとはまるで違う。昼の任務の匂い。王宮の廊下と執務室と、鎧を脱いだあとの疲れの匂い。

 金具に指をかける。硬い。細工は美しいのに、扱う者への優しさはない。

「銀翼騎士団の編成のほうはどう? 聞いたわよ。レオンに特別小隊を任せるとか? 大丈夫かしら」

 言いかけた瞬間、ヴォルフの声が落ちた。

「お前な。今夜、その話をするのか」

 金具が外れた。小さな音を立てて、金糸の飾りが彼の肩から沈む。

「してはいけないの?」

「してもいいが、俺は寝ちまうぞ」

「あら、執務中にも眠っているのでしょう?」

「見たのかよ」

「見なくてもわかります。あなたの書類の後半は、字が斜めに戦死していますもの」

「まいったな」

 ヴォルフの息が、笑いに変わった。

 その音が近かった。

 近すぎた。

 金具から手を離そうとしたとき、夜着の肩口へ髪が一筋落ちた。湯の名残を含んだ髪は、肌に触れて少し冷たい。直そうとしたより早く、ヴォルフの手が上がった。

 指の背が、髪をすくう。

 そのまま、布越しに肩へ触れた。

 短い接触だった。

 身体は、わたしの言い訳を待ってはくれなかった。肩から背筋へ、細い熱が落ちていく。呼吸が浅くなる。

 ヴォルフの手が止まった。

 灯の届かないところで、彼の目だけがこちらを見ていた。

「また震えている」

 夜着の薄い布まで響くような声だった。

 唇を開きかけた。

 怖いのか、と彼は言わなかった。

 かわりに、声を落とす。

「今度は、どっちだ?」

 以前の夜が、音もなく蘇った。

 暖炉の火。袖を摘んだ指。嬉しいから、と苦しい言い訳をしたわたし。武者震いだと逃げた彼。兵法という名の照れ隠し。

 あのときより、今夜の距離は近い。

 肩へ残る彼の指の重みを感じながら、どうにか口元を持ち上げた。

「武者震い、でしょうね」

 夜の空気が頬の横を通り過ぎた。熱を帯びたように、遅く。

「戦の前か」

「ええ。ある意味では、だけど」

 言ったあとで、自分の言葉がどこへ落ちたのか気づいた。

 ヴォルフの目が、わずかに変わる。

 からかいの色が、そこで一度消えた。

「なら、兵法としては退くべき場面だな」

 肩にあった手が、離れかける。

 その瞬間、みぞおちが痛いほど縮んだ。

 違う。

 そう言いたいのに、言葉にならない。

 怖くないわけではない。けれど怖いからやめたいのではない。嬉しいだけでもない。感動でも、仕返しでも、王統のためだけでもない。

 ほしい。

 その言葉は、喉の奥に置かれたまま、重く、声にならなかった。

 だからわたしは、彼の袖ではなく、手首に触れた。

 強く握ったわけではない。逃げる手を両手で包むように、ただ止めた。

 彼の皮膚の下で、脈が一度だけ確かに打った。

「こういうとき、退くのがあなたの兵法なの?」

 自分でも驚くほど、声が小さかった。

「無謀な突撃はしない主義でな」

「そういうところが、ほんとうに腹立たしいの」

「褒め言葉として受け取ろう」

「褒めていません」

 言い返しているのに、わたしの手は彼を放していなかった。

 ヴォルフも、振りほどかなかった。

 互いに逃げるための言葉を並べながら、身体だけが同じ場所に残っている。その半端さが、今夜はひどく苦しい。

 彼の視線が、わたしの手元へ落ちる。

 わたしの指。彼の手首。青い夜着の袖。そこに落ちる燭台の明かり。

「前、俺が寝ている隙に仕掛けて、逃げただろう」

 不意に、彼が言った。

 息が止まった。

 執務室のソファ。乾いたインクの匂い。眠っているはずの彼の頬に触れた唇。勝ち逃げか、と掠れた声。

 思い出しただけで、耳まで熱くなる。

「あれは、その……仕返しよ」

「ふーん、なら今夜は?」

「……迎撃戦?」

 ヴォルフの目が、わたしの夜着へ落ちた。

「その格好でか。ずいぶんと軽装だな」

「湯浴みのあとですもの。当然でしょう?」

「香りも変えたな」

「あなた、疲れているわりに余計なことへ気づきすぎではないの?」

「気づくなというには、いささか手が込んでいる。戦術上の観点から言えばな」

 見抜かれている。

 それなのに、暴かれてはいない。

 彼は逃げ道を塞がない。塞がないまま、わたしが自分で立っている場所を気づかせてくる。

 それが、いちばんずるい。

「だって……王統のことも、考えなければならないでしょう」

 ついに、わたしはそこへ逃げた。

 言った瞬間、部屋の空気が一段冷えた気がした。

 ヴォルフの視線が、わたしへ戻る。

「その話なら、明日の執務室で聞く」

 拒まれたのではない。そうわかるのに、胸がひどく痛んだ。

「……国のこともよ」

「だから執務室で聞く」

「リュシアンのこともあるわ」

「それもだ」

「本来のメービスの願いだって」

「それも、嘘じゃないんだろう」

 彼の言葉は鋭くない。なのに、どこにも逃げられなかった。

 燭台の火が小さく揺れ、ワインの瓶の影がテーブルの上で長く伸びる。封を切られていない栓だけが、今夜の言い訳みたいに黙っていた。

「じゃあ、どんな話なら聞いてくれるの?」

 言ってから、目を伏せた。

 声が揺れたからだ。

 ヴォルフはすぐには答えなかった。彼の手首を包むわたしの指の下で、脈だけが静かに打っている。

 沈黙が、ひどく長く感じられた。

 問い返しておきながら、答えを聞くのが怖かった。彼が何を待っているのか、ほんとうはわかっていた。わかっているから、腹立たしかった。

 わたしが言えないものを、彼だけが静かに見ている。

「あなた、わたしに何を言わせたいの?」

 責めるように聞こえたかもしれない。

 けれど、声の奥は震えていた。

 ヴォルフの目が、わずかに伏せられる。

「言わせたいわけじゃない」

 低い声だった。

「だったら……」

 言いかけた言葉は、そこで細く途切れた。

 彼の手が、わたしの手の中で向きを変える。今度は逃げるためではなく、わたしの指へ触れるために。

「俺が、言う」

 胸の奥が、ひどく静かになった。

「俺は、お前が欲しい」

 世界が、一瞬だけ止まった。

 窓の外の葉擦れも、燭台の火の音も、遠い廊下の気配も、すべて水の底へ沈んだようだった。

 欲しい。

 その言葉を、彼が言った。

 わたしではなく、彼が。

 代わりに言われたのではない。奪われたのでもない。彼自身の声で、彼自身の欲として、差し出された。

 嬉しいのに、悔しい。恥ずかしいのに、どこかで安堵している。逃げ道を失ったのではなく、ようやく逃げなくてもいい場所に立たされたようで、足元が頼りなくなる。

「……あいかわらず、ずるいわね」

 やっと出た声は、思っていたより幼かった。

「自覚はしているつもりだ」

 ひどく近い返事だった。

「わたしに言わせるつもりだったのでしょう?」

「半分はな」

「もう半分は?」

 ヴォルフは、わたしの指を見た。

 それから、顔を上げる。

「もちろん、俺から言いたかったさ。……すまんな」

 その言葉に、目の奥が熱くなった。

 泣きたくない。泣くような場面ではない。そう思うのに、呼吸がうまく入ってこない。

 ヴォルフの指が、わたしの手を握った。

 強くはない。逃げようと思えば、まだ逃げられる。その余地ごと包むような触れ方だった。

「ワイン、どうしよう?」

 わたしは、なぜかそんなことを言った。

 言ったあと、自分でも可笑しくなる。ここまで来て、まだ杯へ逃げようとしている。

 ヴォルフの口元が緩んだ。

「飲まない」

「せっかく取り寄せたのに。あなたの好きな、モンヴェール産なのよ」

「酔いのせいにするのは、やめておく」

 頬が熱くなった。

「では、兵法のせいにも?」

「それも今夜は使えないな」

「からかいも?」

「たぶんな」

「たぶん?」

「全部やめたら、俺じゃなくなるだろう」

「それもそうね。ふふ……」

 思わず、笑ってしまった。

 小さな笑いだった。涙になりかけたものが、喉の奥でほどけて、息を楽にする。

「ははは」

 彼も笑った。長くは続かなかった。

 その沈黙の中で、わたしは彼の手を放さず、もう一歩近づいた。白い礼服の金糸が頬の近くで揺れる。彼の肩からは、外の冷えと疲労の匂いがしていた。その奥に、彼自身の体温がある。

「今夜は――」

 言葉を選ぶのが怖かった。

 けれど、もう王統へは逃げなかった。リュシアンの名も出さなかった。メービスの願いも、亡き宰相の不在も、いまだけは部屋の外へ置いた。

「わたしも、逃げないわ」

 それが精いっぱいだった。

 ヴォルフの目が揺れた。

 彼は答えず、先ほど触れたわたしの肩へ、もう一度手を戻した。

 今度は髪を直すためではなかった。

 退くためでも、確かめるためだけでもない。布越しの温度を、そこにあるものとして受け取るように、彼の掌が重なる。

 怖くないわけではない。

 でも、怖いからやめたいのではなかった。

 わたしは彼の礼服の飾り紐へ指をかける。金糸は硬く、軍装の名残のように整いすぎていた。外そうとすると、指が震える。

 ヴォルフが黙って見ている。

「あまり、じろじろ見ないで」

 声が掠れた。

「無理の相談だ」

「そこは、少し努力して」

「さっき、逃げるなと言われたからな」

「こういうところで律儀にならないで」

 彼の息が、近くでほどけた。

 その笑いに救われる。指の震えが完全には止まらないまま、それでも金具を外すことができた。

 礼服の肩が、彼の身体から沈む。

 白い布の奥に、昼を戦い抜いた身体の重みがある。王配でも、軍総司令でも、戦場の騎士でもなく、わたしの前で疲れ、迷い、それでも逃げない男として――初めて、夫のものとして、その身体を見た。

 彼の手が、わたしの頬へ触れた。

 指の節は硬い。剣を握る手だった。触れ方だけは慎重で、わたしが選ぶ余地を消さなかった。

「メービス」

 名前を呼ばれただけで、胸がほどけそうになった。

「……はい」

「嫌なら、今でも言え」

 彼らしいと思った。

 ここまで来ても、最後にそう言う。

 腹立たしくて、優しくて、どうしようもなくこの人なのだと思う。

「嫌なら、こんなふうに待ったりしないわ」

 言い終えてから、顔を伏せた。

 それは、ほとんど告白だった。

 ヴォルフの親指が、頬の端をかすめる。涙は出ていない。けれど、出ていない涙の場所を知っているような触れ方だった。

「そうか」

 ただそれだけを、彼は言った。

 その短さが、深く落ちた。

 彼の手に、自分の頬を預ける。香水の甘さよりも、彼の袖に残る外気の匂いのほうが近かった。燭台の火が揺れ、青い夜着の肩に影が落ちる。

 テーブルの上で、ワインはまだ封を切られないまま。

 二つの杯も、空のまま。

 けれど、もうそれでよかった。

 酔いも、兵法も、仕返しも、義務も、今夜は必要なかった。

 ヴォルフがわたしの手を取り、指に唇を触れさせた。

 短い接触だった。

 それなのに、以前わたしが眠る彼の頬へ残したくちづけより、ずっと深く身体の奥へ届いた。

「勝ち逃げは、もうできないな」

 彼が言った。

 息を吸い、笑った。

「勝つつもりは、もうありません」

「負けるつもりか?」

「あなたこそ」

 言い返す声が、わずかに揺れた。

 ヴォルフはわたしを見つめたまま、逃げなかった。

「もっとも、部屋に戻った時点で、もう負けていたのかもしれんな」

 胸の奥で、何かが崩れた。

 崩れても、怖くなかった。

 彼の腕が、わたしの背へ回る。急がない。引き寄せるというより、わたしが近づく場所を開けるような仕草だった。

 だから、わたしは自分からそこへ行った。

 白い礼服の胸に額を寄せると、彼の鼓動が布越しに聞こえた。思っていたより速い。落ち着いて見えたのは、見せていただけなのだとわかった。

 そのことが、ひどくいとおしい。

「ヴォルフ」

 名前を呼ぶと、彼の腕に力が入った。

「なんだ?」

 髪に触れる声が、夜の奥で響く。

「明日の煮込みには、使わないわね」

「何を?」

「ワインよ」

 彼は一拍遅れて笑った。

 その笑いが、わたしの髪に落ちる。

「なら、いつか飲もう」

「今夜ではなく?」

「今夜ではなく」

 彼の手が、青い夜着の背に触れている。

 掌の下で布があたたまり、呼吸がまた細くなる。けれど今度は隠さなかった。隠せないのではなく、隠さないでいた。

 ヴォルフはそれに気づいている。

 気づいて、何も言わなかった。

 彼の指が、髪の中へ沈む。湯上がりの香りをたどるように。わたしは目を閉じた。

 窓の外で、初夏の葉がまた揺れた。

 鈴蘭の白い季節はもう過ぎていた。けれど、あの花の香りがどこか遠くに残っている気がする。春の終わりに差し出された約束が、今夜、別の温度を帯びて息づきはじめている。

 わたしたちは、少しずつ夫婦になるのだと彼は言った。

 その少しずつの果てに、今夜がある。

 彼の手が、わたしの肩を包む。

 わたしはその手に、自分の指を重ねた。

 逃げない。

 もう、逃げない。

 その言葉を声にしないまま、彼の胸から顔を上げた。

 ヴォルフの瞳が、すぐ近くにあった。青灰の色は夜に深く沈み、それでもわたしだけを映している。

 女王ではなく。

 巫女でもなく。

 誰かの願いを背負う器でもなく。

 ただ、メービスとして。

 彼の唇が近づく。

 わたしは目を閉じなかった。最後の一瞬まで、彼が逃げないのを見ていたかった。

 触れる直前、彼が囁いた。

「今夜は、俺の妻でいてくれ」

 胸の奥が震えた。

「……あなたも、わたしの夫でいて」

 答えた声は、もう逃げていなかった。

 次の瞬間、くちづけが落ちた。

 それは奪うものではなかった。

 待って、確かめて、何度も退きかけて、それでもようやく辿り着いたものだった。

 ワインはまだ、封を切られないままテーブルに置かれている。燭台の火は揺れ、青い夜着の裾が床の上で波を作っている。

 遠い廊下の気配も、王国の重みも、明日の書類も、すべて扉の向こうにあった。

 今夜だけは。

 彼の腕の中で、そう思った。

 今夜だけは、世界が遠い。

 それでも、世界が消えたわけではなかった。

 彼の背に回した手の下には、昼の疲労で固くなった筋肉があった。わたしの肩に触れる彼の掌にも、剣だこと紙の乾きが残っている。どれほど互いを求めても、明日の朝にはまた、彼は軍議へ、わたしは執務室へ戻る。

 その現実が、今夜を冷ますのではなかった。

 むしろ、その重さを知っているからこそ、この短い夜が深くなっていく。

 ヴォルフがわたしの額へ口づけた。

 息が頬にかかる。外気と革と、汗の匂い。昼の彼を連れてきたままの匂いだった。

「無理はするな」

「それを言ったら、あなたのほうでしょう」

 彼の胸元で息を吐いた。礼服の布が頬に触れ、金糸の刺繍が肌へ当たる。

「今夜くらいは、言わせろ」

「明日の朝も言いそうだわ」

「明日の朝は、たぶん言う」

「たぶん?」

「確実に言う」

 笑ったら、喉の奥に詰まっていたものがほどけた。

 彼の腕の中にいるのに、わたしたちはまだ仕事の話をしている。眠りの心配をして、明日の朝を数えて、互いの疲れを責めるように気遣っている。

 それが妙におかしかった。

 甘いだけの夜になれない。その不器用さごと、わたしたちなのだと思う。

 ヴォルフの手が、わたしの髪を撫でた。

 今度は兵法とも、仕返しとも言わなかった。

 ただ、そばにいる。

 その沈黙のほうが、言葉よりずっと確かだった。

 夜は、すこしずつ深くなっていった。

 ワインは結局、封を切られなかった。

 燭台の火が一度短く揺れ、部屋の隅に置かれた報告書の白さが、影のなかへ沈んでいく。残しておいた義務の輪郭が、ひと晩だけ遠ざかる。

 わたしは彼の手を取った。

 逃げ道を残すような触れ方ではなく。

 けれど、縛るためでもなく。

 ただ、これから先へ進むために。

 ヴォルフは、わたしの指を握り返した。

 夜の中で、その温度だけが、やわらかく確かだった。

 ◇

 明け方の薄青い光が、窓硝子の端から滲んできた。

 眠ったのか、眠らなかったのか、よくわからない。身体には湯の名残とは違う気だるさがあり、それなのに胸の内は不思議なほど凪いでいた。

 隣でヴォルフが身じろぎした。

 いつもなら気配だけで起き上がる人なのに、今朝は寝息が深い。銀の髪が枕に乱れ、外した礼服の白が椅子の背で垂れている。

 王配殿下の儀礼服は、夜を越してもなお几帳面に見える。

 それが、少し可笑しかった。

 寝台の端に腰かけ、青い夜着の袖を直した。布の皺はもう、昨夜の緊張だけではなかった。指で伸ばしても完全には戻らない。その頼りない跡を見て、頬が熱くなる。

 すぐに、視線をそらした。

 テーブルの上では、ワインがまだ封を切られずに立っている。二つの杯も空のままだ。報告書は、昨夜と同じように伏せられていた。

 世界は待っていてくれた。

 許してくれたわけではない。

 扉の向こうでは、もう朝番の足音が遠くに聞こえはじめている。厨房からは火を起こす匂いが流れ、王宮はいつものように目を覚ます準備をしていた。

 わたしも、戻らなければならない。

 女王へ。巫女へ。王国の裁決を担う者へ。

 その前に、もう少しだけ、妻でいたかった。

 背後で、声が落ちた。

「起きたのか」

 寝起きの掠れを含んだ声だった。

「あなたこそ」

 振り向くと、ヴォルフは片肘をついてこちらを見ていた。眠気が残っているのに、その目だけはもうわたしを探している。

「眠れたか?」

「少しはね」

「少し、か」

「あなたは?」

「……少しは」

 同じ言葉で返されたので、思わず笑ってしまった。

 笑ったとたん、身体のどこかがふわりと痛む。昨夜のことを思い出したわけではない。思い出したというより、まだ残っていて、朝の光でそっと輪郭を持ったのだ。

 ヴォルフはそれに気づいたようだった。

 言わないまま、起き上がり、乱れた髪を手ぐしで後ろへ流した。背中に朝の光がかかり、そこに戦場の男ではない夫の輪郭があった。

「今日の軍議は?」

「二刻後だ。一日予定で埋まってる」

「休めないの?」

「お前は休めるのか?」

「……報告書が一ダースほどあるわ。今日くらい寝床に籠もっていたいのは本音だけれど、現実は律儀に扉の外で待っているもの」

「ならば、俺も休めんな」

「そういう張り合い方はしないでくれない?」

 彼は笑った。

 その笑いは、昨夜の名残を含みながら、もう朝の音になっていた。

 わたしたちは結局、こうなのだと思う。

 夫婦になったからといって、仕事が減るわけではない。愛されたからといって、王国の重みが軽くなるわけでもない。正午には公印を押し、夕刻には臣下の前で背筋を伸ばす。昨夜の温度を抱えた身体で、それでも今日の扉を開けなければならない。

 それでも、何かは変わっていた。

 手を伸ばせば届く場所に、彼がいる。

 そのことを、もう言い訳にしなくていい。

 ヴォルフが椅子に掛けていた礼服を取ろうとしたので、わたしは立ち上がった。

「じっとしていて」

 昨夜と同じ言葉だった。

 けれど、響きは違っていた。

 彼もそれに気づいたのか、肩越しにわたしを見た。

 礼服の襟を整え、金糸の飾りを留め直す。朝の光に当たると、刺繍は昨夜より淡く見える。金具に触れるたび、彼の体温が近くにあった。

 昨夜ほど震えなかった。

 まったく震えないわけでもなかった。

「まだ震えている」

 彼が言った。

 金具を留めながら、目を上げなかった。

「朝ですもの。冷えたのでしょう」

「そういうことにしておく」

「今日は素直ね」

「寝不足だからな」

「わたしのせい?」

 言ってしまってから、耳が熱くなった。

 ヴォルフの手が、わたしの指へそっと重なる。金具の上で、二人の指が止まった。

「ああ、俺のせいだ」

 それ以上は言わなかった。

 言われなくても、わかった。

 金具から指を離し、息を吐いた。朝の冷えた空気が肺へ入る。身体の奥に残るものは、少しずつ穏やかなものへ変わっていく。

「ワインはどうする?」

 ヴォルフがテーブルを見た。

「セラーへ戻しておくわ。厨房へは逃がしません」

「そうか。ならいい。せっかくお前が用意してくれた品だ。逃したくはない」

「わかってる。いつか飲みましょう。きちんと休める夜に」

「難しい条件だな」

「では、あなたが作って」

「俺がか?」

「軍総司令閣下でしょう。休みくらい編成しなさい」

 彼は真面目な顔で考えるふりをした。

「そいつは最大の難問だな」

「でしょうね。真面目なステファンに叱られそうだし」

「違いない。あいつときたら融通が利かなすぎる」

 笑いが小さく重なった。

 その音は甘くもあり、疲れてもいた。けれど、その疲れごと暮らしていくのだと思った。

 寝所の扉の向こうで、朝の気配がさらに濃くなる。

 ヴォルフは礼服の袖を通し、わたしは夜着の上からショールをかけた。侍女を呼ぶ前の、短い隙間。誰にも見られない朝の影の中で、彼がわたしの手を取った。

 唇ではなく、指へ。

 短いくちづけだった。

「無理をするな」

 予想どおりの言葉だったので、目を細めた。

「あなたも」

「ああ」

「返事だけでは信用しません」

「なら、見張っていろ」

「それは王配殿下のほうが得意でしょう」

「たしかに」

 彼が笑った。

 その顔を見ていたら、昨夜の「俺は、お前が欲しい」という声が、朝の中でもう一度落ちてきた。

 けれど、わたしはその言葉を口にしなかった。

 代わりに、彼の手を握り返す。

 強くはない。

 離れなければならない朝に、離れることを前提にした握り方だった。

 そこに温度は残った。

 わたしたちは扉へ向かった。

 外へ出れば、また女王と王配になる。軍総司令と、王国再建の裁決者になる。言葉は整えられ、視線は制御され、互いの疲労さえ公的な顔の下に隠すことになる。

 それでも、昨夜のことは消えない。

 甘い夢ではなく、生活の中へ置かれた小さな決断として。

 扉の前で一度だけ、彼を見た。

 ヴォルフもわたしを見ていた。

 からかいも、兵法もない。

 ただ朝の光の中で、互いの寝不足を見つけて、困ったように笑った。

 それで十分だった。

 扉が開く。

 王宮の朝が、わたしたちを迎えに来る。

 わたしは背筋を伸ばした。

 その隣に、ヴォルフが立った。

ジャンル・タグ

, ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 0 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

ひさちぃ

👥 フォロワー: 1人

作者ページを見る