名前の奥で息をする【GL要素あり】

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/24 📚 シリーズ: 短編・番外編 📝 2,646文字 ✅ 全年齢

あらすじ

短編・番外編 - 名前の奥で息をする【GL要素あり】

本文

六月の雨に濡れると、借りた名前まで重くなる気がした。

 傘を叩く雨音が、ふたりの足音を呑み込んでいた。湿った空気が首筋にまとわりつき、アスファルトは街灯の光を薄く返している。歩くたび、靴底の下で小さな水が跳ねた。

 道端の紫陽花の前で、足が止まった。

 雨を吸った花房は、手鞠みたいに丸く、重たげに首を垂れていた。青から紫へほどける色の境目が、濡れた夜の中でだけ、ほのかに明るい。

 気づけば、傘を持たないほうの手が伸びていた。

 人差し指の腹で、花弁の縁をそっとなぞる。水の膜が皮膚へ移った。触れる力をほんの少し間違えれば傷つきそうな、薄い花弁だった。

 綺麗だと思った。

 そう思っただけなら、誰にも見つからないはずだった。けれど、たぶん手つきがいけなかった。花に触れる角度。壊したくないものへ向ける目の温度。

 ――弟なら、こんなふうには触れない。

「……どうしたの?」

 彼女の声に、手首の脈が跳ねた。

 慌てて手を引く。花房から大きな雫が落ち、靴の爪先に弾けた。彼女は傘の下で、じっとこちらを見ている。責める目ではなかった。ただ、見慣れないものを見つけたときの、かすかな戸惑いだけが瞳の奥に残っていた。

 自分ではない顔をしている。

 そのことを忘れそうになっていた。

「……別に。色が、ずいぶん鮮やかだと思っただけだ」

 声を低くする。

 喉を通る音は、私のものではない。そう言い聞かせなければ、雨に濡れた花を綺麗だと思っただけのことが、喉の奥にとげのように引っかかった。

「ふうん」

 彼女は唇をとがらせた。それから、ぱっと笑った。

「じゃあさ、今度、紫陽花がたくさん咲いてるところに行ってみない?」

 指先が冷えた。

 行きたい、と思った。彼女と並んで歩きたい。花を見て、雨の匂いを吸って、くだらないことを言われて、呆れたふりをしたい。そんな役にも立たない時間を、欲しいと思ってしまった。

 彼女の声は、私ではない名前へ届いている。頷く顔も、返事をする声も、借りたものだ。その場所へ、私の欲しさを混ぜてはいけない。

 紫陽花へ視線を戻して、関心のないふりで言った。

「べつに、俺は花に興味があるわけじゃない」

「あ、そうなんだ……」

 彼女の声から、すっと色が落ちた。

 傘の縁が下がり、表情が影に隠れる。雨音だけが急に大きくなった。

「そっか。残念だな。君と一緒なら、もっと綺麗に見えると思ったんだけど」

 胸ではなく、胃のあたりが冷えた。

 距離を置くべきだ。踏み込んではいけない。そう分かっているのに、彼女が身を引く姿だけは、どうしても見ていられなかった。

「あ、いや」

 言葉が勝手に出た。

「……お前が行きたいなら、付き合ってやってもいい」

「ほんと?」

 傘が持ち上がる。

 雨雲など知らない顔で、彼女は笑っていた。さっきの翳りは欠片も残っていない。最初からこの返事を待っていたような、悪戯っぽい光が瞳の奥で跳ねている。

 しまった、と思った。

 私の脆い拒絶など、彼女には初めから見えていたのだ。

 雨音の向こうで笑う彼女は、無邪気で、ずるかった。

*

 日曜日。

 山あいの寺に着いたころ、雨は上がっていた。

 土の匂いが濃い。濡れた葉の青さが息に混じり、石畳の目地にはまだ細い水が残っている。彼女は待ちきれない様子で、私の袖を引いた。

「早く行こうよ」

「待って。足元、滑るから」

 言い終える前に、彼女はもう参道へ踏み出していた。濡れた石の上を、軽く跳ねるように進んでいく。

 その背中を見ていると、胃の底に沈んでいた泥が、少しずつ薄まっていく。

 参道は、紫陽花で埋まっていた。

 青、紫、薄紅、白に近い淡い色。雨上がりの粒をまとった花房が、両脇から迫ってくる。重たげなのに、どの花房も内側に息を含んでいるようだった。

 彼女はひとつひとつに足を止める。きれいだね、と声を上げる。こっちの色も好き、と笑いながら、濡れた髪を指で払い、水たまりを避ける歩幅が弾んでいく。

 その何気なさが、まぶしかった。

 雨を雨として受け取り、花を綺麗だと言い、靴が濡れたことさえ笑い話にする。明日の予定を、当たり前みたいに楽しみにできる。

 私には、それがうまくできない。ずっと、返すことだけを考えてきた。弟の場所を弟へ戻すこと。その先のことは、考えないようにしていた。

 池にかかる古い橋の上で、彼女が振り返った。

「ね、来てよかったでしょ?」

 水面に紫陽花の色が映っている。波紋が立つたび、青と紫がほどけていく。

「……うん」

 素直な声が漏れた。

「とても綺麗だ」

 彼女は嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見た瞬間、喉の奥が詰まった。

 可愛い、と思った。

 橋の欄干に置いた手へ、濡れた木の冷たさが移る。私はそれを握りしめた。言葉にしないために。息の奥で生まれたものへ、名前を与えないために。

 彼女がスマホを取り出した。

「ね、写真撮ろうよ」

「えっ!?」

「記念だよ、記念」

 断る前に、彼女は隣へ寄ってきた。

 右腕が肩に回る。近い。近すぎる。布越しの体温が、借り物の身体の輪郭を曖昧にした。

 弟の肩なのに。

 そこへ触れられているのは、私だと、身体のどこかが間違えて覚えてしまう。

 シャッター音が、湿った空気を切った。

 画面を覗き込むと、引きつった私の不格好な顔と、満開の笑顔でピースをする彼女が並んでいた。

「あはは、なにこの顔」

 彼女は腹を抱えて笑う。

 耳が熱い。けれど目を逸らせなかった。画面の中で、彼女は笑っている。濡れた紫陽花の青と紫が、その肩越しに淡くにじんでいた。

 そこに並んでいることだけを、宝物みたいに笑っている。

 この時間を、失くしたくない。

 そう思った瞬間、息が止まった。

 私という存在は、この世にいない。彼女が呼ぶ名前の奥で、息をしているだけの亡霊だ。この顔も、この声も、この肩も、ほんとうは私のものではない。

 彼女の目に映っているのは、最初から私ではない。

 わかっている。

 わかっているのに、肩に残った腕の重みが、私自身の記憶になろうとしていた。

 そんなことを思う資格など、私にはない。

 弟の場所にいるだけの影が、彼女の笑顔の先へ残ろうとしている。

 いないはずなのに。

 明日がほしい。

 彼女の隣で、次の朝を待ちたい。

 その願いは、祈りではなかった。もっと小さくて、もっと卑怯で、捨てなければならないものだった。

 雨上がりの木々から、雫が落ちる。

 ひとつ。もうひとつ。

 画面の中の彼女は、まだ笑っていた。そこにいることを疑いもせずに。濡れた髪を指で払って、花を見上げて、きれいだね、と言うあの何気なさが、私にはいちばん残酷だった。

 消せなかった。

 スマホの画面も。

 肩に残った重みも。

 明日がほしいと思ってしまった自分も。

ジャンル・タグ

, ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 0 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

ひさちぃ

👥 フォロワー: 1人

作者ページを見る