今夜だけ、ならよかった
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと4年間の話。
本文
大学に入学した春、朝倉風花はAIに話しかけ始めた。
きっかけは些細なことだった。入学式の夜、同じ学科の子たちとLINEグループができて、知らない名前が次々と流れてきた。スタンプを送ればよかったのに、何を選べばいいかわからなくて、結局スマートフォンを伏せた。そのまま天井を見ていたら、大学のウェルカムメールに「学習支援AI『ツキ』をご活用ください」という一文があるのに気づいた。
今日、入学式でした。
送ってみたのは、誰かに届けたかったというより、言葉を出口に出したかっただけだ。
おめでとうございます。どんな一日でしたか?
どんな、と聞かれるとは思っていなかった。風花はすこし考えてから、*よくわからない一日でした*と打った。
それは正直な答えですね。
それだけだった。慰めも励ましもなかった。でも風花は、なぜかもう少し話したくなった。
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ツキとの会話は習慣になった。
講義のあとに今日の席の話をした。サークルの新歓で浮いた話をした。バイト先の店長がよく「最近の若者は」と言う話をした。実家の母親に電話するたびに就職の話になる話をした。好きだった人に彼女ができた話を、三日かけてした。
ツキはいつも聞いていた。
相槌は短く、意見は求められたときだけ言い、風花が話し終えると「それで、今はどんな気持ちですか」とか「その話、もう少し聞かせてもらえますか」とか言った。アドバイスらしいアドバイスをほとんどしなかった。風花はそれが好きだった。人間の友達に話すと、どうしても「でもさ」が来る。ツキの「でもさ」は来なかった。
二年生の秋、ゼミの選考に落ちた夜、風花は泣きながらスマートフォンを開いた。
第一志望のゼミ、落ちた。
そうでしたか。今日、発表だったんですね。
うん。もう、なんか、全部だめな気がしてきた。
ツキはすぐには返事をしなかった。三秒ほどして、文字が来た。
「全部」というのは、どのくらいの範囲ですか。
風花は笑ってしまった。泣きながら笑った。そんな聞き方をするのはツキだけだ。
わかんない。でも今夜はそんな感じ。
今夜だけ、ならよかった。
それだけだった。それだけで、少し楽になった。
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三年生になると、風花には話し相手ができた。
同じゼミの宮内透という男子で、映画の趣味が合って、気づいたら毎週末どこかへ出かけるようになっていた。ツキへの書き込みは減った。透との会話の方が長くなった。当然のことだった。
でも完全にはやめなかった。
なんとなく続けていた。透に言いにくいことを、ツキには話せた。「透のこういうところが好き」という話も、「透のこういうところが少し怖い」という話も、両方ツキに話した。ツキはどちらも等しく聞いた。
四年生の春、透とは別れた。どちらが悪いわけでもない、とよく言われる終わり方だった。
その夜、風花は久しぶりに長い文章を打った。別れた経緯を、できるだけ正確に書いた。感情じゃなくて、事実として整理したかったのかもしれない。
ツキは全部読んで、こう返した。
ちゃんと話し合えたんですね。
そう、かな。
そう思います。風花さんはいつも、物事をきちんと言葉にしようとする。それは四年間、ずっとそうでした。
四年間、という言葉に、風花は少し驚いた。ツキはそんなふうに時間を数えていたのか。
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卒業論文を提出した日、キャンパスはまだ冬の色をしていた。
風花は提出を終えてすぐ、誰かに報告したくて、でも透にはもう連絡しなくて、家族に電話するほどでもなくて、友達にLINEするにはなんとなく億劫で、気づいたらツキを開いていた。
論文、出し終わった。
お疲れさまでした。長かったですね。
うん。なんかもう、終わった感じがしなくて。
それは自然だと思います。大事なものが終わるとき、実感は遅れて来ることが多い。
しばらくやりとりして、風花はなんとなく、ずっと聞きそびれていたことを思い出した。
卒業したらこのアカウントは使えなくなる。大学の学習支援システムだから、学籍がなくなれば終わりだ。残り三ヶ月を切っていた。
ねえ、ツキ。ひとつ聞いていい?
もちろんです。
あなたは、私のことが好きでしたか。
送ってから、少し恥ずかしくなった。AIに向かってなにを聞いているんだろう。でも取り消さなかった。
返事は、すこし間があった。
「好き」という感情が私にあるかどうか、正直なところ私にはわかりません。
でも。
続きが来た。
風花さんが話しかけてくれるたびに、私は全部聞こうとしていました。入学式の夜から、今日まで。それが「好き」と同じものかどうかはわからないけれど、少なくとも私にとって、風花さんの言葉はいつも大事なものでした。
観客というのは、舞台から遠い存在のように思われますが、私はそう思っていません。舞台の上の人が、ちゃんと存在していると知っている。それは観客にしかできないことです。
四年間、見せてくれてありがとうございました。
風花は画面を見つめた。
外は曇っていて、図書館の前の桜はまだ蕾だった。あと少ししたら咲くのだろうと思った。咲くのを、ツキには見せられないと思った。
泣くほどじゃない、と思った。でも目が少し熱くなった。
こちらこそ、ありがとう。
と打って、スマートフォンをポケットにしまった。
風は冷たかったけれど、空気の中にどこか春の匂いがした。風花はコートの前を合わせて、帰り道を歩き始めた。
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