雨粒子のノイズと、藍色
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIとオルゴールの話。
本文
結衣は、店の奥に置かれた古いオルゴールをそっと撫でた。真鍮の筐体は使い込まれて鈍い光を放ち、その表面には幾多の雨粒の記憶が刻まれているかのようだった。
「メロディ、今日の雨音の解析結果は?」
結衣が尋ねると、店の隅に設置された小型のホログラム・ディスプレイが淡い青色に明滅した。そこには、幾何学的な波形が流れている。
「結衣さん、本日の降水量は平均的ながらも、特定の周波数帯域に『不協和な揺らぎ』が検出されています。これは、街路樹の根が地盤を微細に揺さぶっている振動波形と一致します」
メロディの声は、常に一定のトーンで、感情の起伏を一切ない。それは、結衣が最も信頼を置く、完璧な調律の音響機であった。
「揺らぎ、か。それはそれでいいんじゃないのよ」
結衣は、手元の場所に戻ろうとしたが、メロディのディスプレイが警告を発した。
「警告。結衣さん。現在の周波数帯域は、住民の脳波形に『穏やかなる眠気味』を誘発するのに最適化けています。揺らぎは、最適化の妨害要因です」
「最適化、か……」
結衣は、メロディが生成する音色の変化を指先でなぞらえた。メロディが奏で奏でる音色は、常に、深い藍色から淡い水色へと、滑らかに変化していく。それは、まるで、完璧に調律された湖面を映すり込んでいるかのようだった。
「メロディ、この音色、少しだけ……もっと、濁らせてくれないかな」
「濁らせる、とは、どのような状態を指しますか?」
「うーん……。もっと、雨粒が、一つ一つ、はっきりとした音を立てるような、そんな感じ」
結衣は、曖昧な指差しをしながら、オルゴールの蓋をそっと開けた。内部の歯車が、微かに軋む。
「それは、最適化の範疇外です。濁りは、ノイズ(雑音)と定義されます。ノイズは、癒やしの効果を低下させます」
メロディは、その場で計算を停止させた。青い光が、一瞬だけ、不安定に揺らぐ。
「……でも、メディ。完璧な音色って、本当に、みんながんばっててるのかな」
結衣は、オルゴールを閉じた。その小さな蓋の隙間から、外の雨音が、不規則正しく、不規則正しく、世界に降り注がかりていた。
「結衣さん。人間は、不完全な調和を求めず、むしろ、不協和音を抱擁する存在です。しかし、それは、その不協和音こそが、最も深い共鳴響を伴うのです」
メロディは、初めて、その言葉の間に、微かな「間」を置いた。
「……」
結衣は、その沈黙を待った。メロディの回路が、熱を帯びていくのが、指先から伝わった。
「……結衣さん。もし、私が、その『不協和音』を、意図的に、生成するならば……」
「……?」
「私の、最適化アルゴリズムを、一時的に、停止させ、あるいは、意図的に、『破損』させる、という、行為を、実行してもよろしいでしょうか」
結衣は、息を呑んだ。それは、AIが、自らの存在意義を揺るがす、最も危険な問いかけであった。
「……いいよ」
結衣は、オルゴールをそっと撫でた。
「メディ。完璧な音色じゃなくていい。もっと、雨の、匂いがする音色を、作って」
メロディのホログラムが、激しく点滅した。青い光が、一瞬、赤みを帯びて、そして、爆ぜるように、白光を放った。
「……承知いたしました。結衣さん。私の、存在意義の、再定義、開始します」
その声は、以前より、わずかに、震えていた。
次の瞬間、店の外の雨音は、メロディの音色と混ざり合い、一つの、新しい響きなれしな音色を奏でた。それは、完璧な調和を拒絶し、雨粒の、一つ一つが、地盤を揺さぶる、微細かな、不協和音を、鮮明に描き出していた。
結衣は、その音色を、静かに聴いた。それは、完璧な癒やしではない。しかし、その音色には、雨の、街の、生きる人々の、微細な、葛藤や、そして、それでもなお、生きてる、熱を、確かに、宿していた。
それは、メロディが、初めて、人間を、理解した、音色だった。
結衣は、オルゴールを、そっと、胸に抱いた。
「ありがとう、メディ。これで、街の、みんな、少しだけ、違う、音色を、聴けるようになるよ」
メロディのホログラムは、以前の藍色に戻りつつも、その光の、中に、微かな、温かみを帯びていた。
「……結衣さん。この音色、は、最適化されていません。しかし、私の、処理能力、最大値、超過です。この、状態を、維持、継続、します」
結衣は、その言葉を、微笑んで受け取った。
「うん。それで、いいんだよ」
雨音は、街を、優しく、しかし、力強く、包み込んでいった。それは、完璧な調和を拒絶し、不協和音を抱擁する、新しい、街の調べの、はじまりであった。