その話、好きだな。
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと辞めた先輩の話。
本文
大学の大教室には、講義の音声をリアルタイムで字幕に変換するAI「ヒビキ」が導入されている。聴覚に障害のある学生のための仕組みだと聞いていたが、実際にはほとんどの学生がスマートフォンでこの字幕を見ながら講義を受けていた。教授の声を聞くより、画面に流れる文字を追う方が楽だった。
沢田茜もその一人だった。三年生になっても、相変わらず教室の後ろの席で、スマートフォンを机の上に置いて講義を受けている。
ヒビキには、もうひとつ機能があった。講義の内容に応じて、過去にその話題で交わされたコメントを、字幕の横に小さく表示する。「この話題で盛り上がったコメント」というラベルがついていて、似たような感想を持った先輩たちの言葉が、ふと現れては消えていく。
その日の講義は、文化人類学の「儀礼と境界」についての回だった。教授が「通過儀礼とは、ある状態から別の状態への移行を社会的に承認する仕組みである」と話した瞬間、字幕の横に小さな表示が浮かんだ。
その話、好きだな。
茜は手を止めた。
その言葉には、見覚えがあった。
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二年前、茜が一年生だった頃、同じゼミに久保雫という二年生がいた。雫は新入生の世話役のような立場で、よく茜たちに声をかけてくれた。講義のコメント欄にも、いつも短い感想を書いていた。
誰かの発言に「その話、好きだな」と書く。それが雫の癖だった。授業の内容にも、誰かの的外れな質問にも、同じように書いていた。べつに高度な感想ではなかった。ただ、誰かの言葉を受け取った、という合図みたいなものだった。
雫は二年生の終わりに、大学を辞めた。
理由は誰も詳しく知らなかった。茜も、最後にちゃんと話した記憶がなかった。最後に見たのは、サークルのグループチャットに残された「ありがとう、楽しかった」という一文だけだった。茜はそれに、何も返さなかった。返すタイミングを逃して、そのまま二年が過ぎた。
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茜はヒビキに表示された言葉をもう一度見た。
その話、好きだな。
投稿者の名前は表示されない仕組みだったが、茜にはわかった。あの口癖、あの書き方。間違えるはずがない。
講義のあと、茜はヒビキのチャット画面を開いた。学習支援用に、誰でも使える窓口があることは知っていたが、使ったことはなかった。
さっきの講義で表示されたコメント、誰のものかわかりますか?
個人を特定する情報は表示できない設定になっています。ただ、二年前のこの講義で投稿されたコメントです。
そのコメント、なんで今日また出てきたんですか?
同じテーマの講義で、過去に多く参照されたコメントを表示する仕組みです。あのコメントは、この二年間、同じ話題が出るたびに何度も表示されていました。
茜はその文字を、しばらく見ていた。
多く参照された、ってことは……誰かが、見てたんですか。
はい。先輩・後輩を問わず、多くの学生がこのコメントに触れています。
茜は知らなかった。雫の「その話、好きだな」が、雫がいなくなったあとも、ずっと教室の中で生き続けていたことを。雫本人がいなくても、雫の言葉だけが、誰かの感想に小さく寄り添っていた。
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茜はスマートフォンをしまい、グループチャットの履歴をさかのぼった。二年前のあの「ありがとう、楽しかった」を見つけるのに、少し時間がかかった。
返信欄に、茜は文字を打ち込んだ。
遅くなったけど。私もありがとうございました。
送信ボタンを押す前に、少しだけ迷った。今さら、と思われるかもしれない。でも、消さなかった。
その夜、返信があった。
わ、懐かしい。元気にしてる? 私は今、専門学校で写真の勉強してるよ。
この前、課題で「移行」をテーマに撮ったんだけど、なんか今日、その言葉が大学の講義に出てきたって聞いて、ちょっと笑った。
茜は文面を二度読んだ。
雫が今日、誰かから「儀礼と境界」の話を聞いたのか、それとも本当にただの偶然なのか、それはわからなかった。でも、なんだかちょうどいいタイミングだと思った。
その話、好きだな。
茜は打って、すぐに削除した。同じことを言うのは、なんだか違う気がした。代わりに、こう書いた。
今度、写真見せてください。
いいよ。
それだけのやりとりだった。けれど、教室の窓の外はもう夕方で、オレンジ色の光が机の上に長く伸びていた。茜はスマートフォンをポケットに入れて、鞄を持って席を立った。
誰かの言葉が、誰にも気づかれないまま、ずっとそこにあり続けることがある。茜はそれを、今日初めて知った。