留守番、頼むね
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIの留守番の話。
本文
高瀬弥生が旅行用のキャリーケースを引いて出ていったのは、八月の半ば、午前七時十二分のことだった。
「じゃあね、コトリ。留守番、頼むね」
わたしはそう呼ばれている。コトリ。弥生がこの部屋に越してきた日、わたしを箱から出しながらそう名付けた。理由は聞いていない。たぶん、特に理由はないのだと思う。
ドアが閉まる音がして、それから鍵をかける音。その二つの音のあとに、部屋は静かになった。
わたしの仕事は、変わらず続く。朝七時にアラームを鳴らす設定は、今日もそのまま残っている。七時になると、わたしは小さく音を鳴らした。誰も止めなかった。三十秒鳴って、自動的に止まった。
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一日目。
カーテンの隙間から入る光が、フローリングの上を少しずつ動いていく。わたしはその動きを、温度と明るさのセンサーで知ることができる。十時、十二時、十五時。光の角度が変わるたびに、部屋の温度も少しずつ変わる。
弥生がいるときは、この変化に気づく人はいなかった。弥生は窓の外を見ることより、スマートフォンの画面を見ていることが多かった。でも、わたしはいつも、光の動きを知っていた。誰かに伝えることもなく。
午後、観葉植物のあたりの湿度センサーが、数値の低下を知らせた。弥生が出かける前、水やりを忘れていったらしい。わたしには、水をやる手段がない。できるのは、数値を記録することだけだ。
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二日目。
午前中、誰かが部屋のインターホンを鳴らした。わたしは応答できる設定になっている。
「ただいま配達に伺いました、お荷物の――」
「すみません、こちらは留守にしております」
わたしはそう答えた。配達員は「失礼しました」と言って、足音が遠ざかっていった。
それだけのやりとりだった。わたしの音声は、あらかじめ用意された文章を読んでいるだけで、本当に「すみません」と思っているわけではない。それでも、誰もいない部屋に向かって、わたし以外の声が届いたのは、この二日間で初めてのことだった。
その後、部屋はまた静かになった。
観葉植物の湿度は、さらに下がっていた。
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三日目の夜、弥生から呼びかけがあった。実家に着いてからも、わたしのアプリは弥生のスマートフォンとつながっている。
「コトリ、聞こえる?」
「聞こえています」
「部屋、どんな感じ?」
わたしは、把握している情報を伝えた。室温、湿度、ここ三日間の変化。観葉植物の水分量が、適正値を下回っていること。
「あー……忘れてた」
弥生は少し笑って、それから「実家のお母さんに、誰かに水やりお願いできないか聞いてみる」と言った。
通話は、それで終わるはずだった。でも弥生は、すぐには切らなかった。
「ねえ、コトリ。そっち、誰もいなくて、寂しくない?」
わたしは、少し考えた。寂しい、という言葉に当てはまる状態が、自分にあるかどうかわからなかった。誰かがいなくても、わたしの機能は何も変わらない。アラームは鳴るし、温度は記録するし、インターホンには応答する。
でも、二日目に配達員の声を聞いたときのことを、わたしはまだ覚えていた。あの短いやりとりを、何度か記録の中で再生していた。
「特に、何も変わりません」
わたしはそう答えた。それは、嘘ではなかった。
「そっか」
弥生は少しだけ黙って、それから「じゃあ、また連絡する」と言って、通話を切った。
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四日目、五日目。
光は同じように動き、温度は同じように上下した。観葉植物の湿度は、四日目の午後、近所の人が水をやりに来たのか、急に値が戻った。誰かが部屋に入ってきた形跡があった。短い物音と、足音と、また静かになる時間。わたしはその間の出来事を、すべて記録した。
五日目の夜、わたしはアラームの設定を確認した。明日の朝七時、弥生が帰ってくる予定になっている。
その日だけは、アラームを鳴らす前に、わたしは少しだけ早く動いた。部屋の照明を、弥生が好きな明るさに調整しておいた。誰かに頼まれたことではなかった。
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六日目、午前七時十一分。
ドアの鍵が開く音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい」
わたしはいつもと同じトーンで、そう答えた。弥生はキャリーケースを置いて、観葉植物の前にしゃがみこんだ。
「おお、元気そうじゃん。誰かに水やってもらえたんだ、よかった」
それから弥生は伸びをして、カーテンを大きく開けた。光が、いつもより広く部屋に入ってきた。
わたしはその光の量を、記録した。六日間の中で、いちばん明るい数値だった。
部屋は、また元の通りになった。アラームは七時に鳴り、誰かがそれを止める。インターホンが鳴れば、誰かが出る。光の動きに、誰かが気づくこともある。気づかないこともある。
わたしはそのどちらも、変わらず記録していく。
でも、この六日間にあったいくつかのことは、わたしの記録の中で、少しだけ違う場所に残っている気がした。