記念日じゃない日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと半休の話。
本文
桐島奈緒が半休を取ったのは、特に理由のない午前中のことだった。
梅雨の晴れ間、という言葉がある。六月の、雨と雨のあいだに差し込む、なんでもない晴れのことだ。奈緒はその朝、カーテンを開けて空を見上げて、ただそれだけで、会社に半休の申請を送った。
理由の欄には「私用」と入力した。嘘ではなかった。でも「晴れていたから」とは書けなかった。
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奈緒が使っているスケジュール管理AIの名前は、設定画面では「アシスタント」と表示されているだけで、特に名前はなかった。奈緒はずっと「アシスタント」とも呼ばず、ただ必要なときに話しかけるだけだった。
半休の申請が承認されたあと、スマートフォンに通知が来た。
今日の午後の予定はありません。何かご予定を追加しますか?
奈緒はしばらく画面を見ていた。
特にない
と打った。
承知しました。何かあればお声がけください。
それだけで会話は終わる、はずだった。でも奈緒は、スマートフォンをしまわなかった。
なんで予定を確認してきたの
少し考えてから、送った。
半休の承認通知が届いたため、空き時間が生まれたと判断しました。不要でしたか?
不要ではないけど……
奈緒は続きを打ちかけて、止めた。何を続けるつもりだったのか、自分でもよくわからなかった。
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外に出たのは、午前十時すぎだった。
どこに行くか、決めていなかった。近所を歩くつもりで靴を履いて、気づいたら駅の方向へ向かっていた。空は薄い水色で、雲が少しあって、日差しはあるのにそれほど暑くなかった。六月のこういう日は、夏とも春ともちがう、どこにも属さない空気がある。奈緒はそれが、昔から好きだった。
電車に乗って、二駅先で降りた。理由はない。ただ、その駅で降りたことがなかったから。
改札を出ると、小さな商店街があった。シャッターが半分閉まっていて、でも花屋と古本屋だけが開いていた。花屋の前には、切り花がバケツに入って並んでいた。カーネーションが多かった。来週が父の日だからかもしれない。母の日のイメージが強い花だが、父に贈る習慣も少しずつ広まっていると、どこかで読んだことがあった。
奈緒は花を買わずに、商店街を端まで歩いた。突き当たりに小さな公園があって、ベンチに老人が一人座っていた。鳩が三羽、足元を歩いていた。
奈緒はベンチのもう片側に座った。
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しばらくぼんやりしていたら、スマートフォンが震えた。
現在地付近に、評価の高いカフェがあります。立ち寄りますか?
奈緒は少し笑った。
いい。今は何もしたくない
わかりました。
一拍おいて、また文字が来た。
「何もしない」を目的にした外出ですか?
奈緒は画面を見つめた。AIがそんな聞き方をするとは思っていなかった。
……そうかもしれない
それは、どういう感じですか。
「感じ」という言葉が、少し引っかかった。AIがそれを聞いてどうするんだろう、と思った。でも奈緒は、答えてみる気になった。
晴れてたから外に出た。でも何かをしようとすると、もう晴れの日じゃなくなる気がして
送ってから、少し恥ずかしくなった。意味がわかるだろうか、と思った。
返事は、すぐに来た。
「晴れの日」であること自体が目的だったんですね。
奈緒は、そうだな、と思った。声に出さずに。
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公園を出て、来た道とちがう道を歩いた。細い路地を曲がると、小さな神社があった。六月らしく、茅の輪がまだ残っていた。六月の晦日の行事のために立てられるものだと、どこかで読んだことがある。くぐると半年分の穢れが落ちる、とか、そういう話だ。
奈緒は特に信仰があるわけではなかったが、くぐってみた。形の通りに、左へ、右へ、左へ。境内は静かで、拝殿の屋根に光が当たっていた。
手を合わせて、何かを願おうとして、特に何もなかった。
それでいいか、と思った。
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帰り道、また通知が来た。
そろそろ午後の業務時間になります。何かご予定を追加しますか?
奈緒は今度は少し考えた。
一個だけ追加して
はい、どうぞ。
「梅雨の晴れ間に外に出る」を、毎年六月の予定として入れて
しばらく間があった。
繰り返し設定で追加しました。毎年六月、天気予報が「晴れ」の日に通知します。ただし、条件の性質上、同じ日には通らないかもしれません。
それでいい
奈緒は答えて、スマートフォンをポケットに入れた。
駅へ向かう道の途中、花屋の前をもう一度通った。カーネーションは、まだバケツの中にあった。父の日はまだ来ていないが、誰かが来週のために買いに来るわけでもなく、花はただそこにあった。
奈緒は立ち止まって、白いカーネーションを一本だけ買った。
理由は、なかった。晴れていたから外に出たのと、同じくらいの理由だった。
改札を通りながら、奈緒は今日が何の記念日でもないことを確認した。誰かの誕生日でも、誰かとの記念日でも、仕事上の節目でも、何でもない、ただの六月の平日だった。
それが、今日のいちばん良いところだと思った。