同じ傘
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと傘の話。
本文
宇野遥が傘を忘れるのは、生まれつきだと思っている。
コンビニの傘立て、電車の網棚、居酒屋の入り口、病院の待合室。気づいたときにはいつも手ぶらで、雨の中を走っている。「傘立てに置いた瞬間に存在を忘れる」と友人に言ったら、「それはもう才能だよ」と笑われた。笑えなかった。
傘の忘れ物防止タグを買ったのは、去年の秋のことだ。タグ本体を傘の持ち手に巻きつけて、スマートフォンの専用アプリと連動させると、傘が一定の距離を離れたときに通知が来る仕組みだった。アプリにはAIのチャット機能もついていて、天気予報や傘の状態を教えてくれる。
名前は、設定で変えられた。遥はしばらく考えて、「アメ」にした。雨のことだ。他に思いつかなかった。
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アメと最初に話したのは、去年の十一月だった。
その日も傘を忘れかけた。カフェを出て三十メートルほど歩いたところで、スマートフォンが震えた。
傘が離れています。カフェにお忘れではないですか?
遥は踵を返してカフェに戻り、傘立てから自分の傘を回収した。店員に苦笑いされた。いつものことだった。
外に出てから、なんとなくチャットを開いた。
ありがとう、助かった
お役に立てて良かったです。傘の天気予報もお知らせできます。
今日の帰りは?
夜から雨が強くなる予報です。気をつけてください。
それだけだった。でも遥は、その短いやりとりが、なんとなく気に入った。
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梅雨に入ると、アメとの会話は増えた。
当然といえば当然で、雨の日が増えればアメの出番も増える。通知は毎日のように来たし、遥の方から話しかけることも増えた。
今日、また傘忘れそうになった
何度目ですか。
今月で五回目
新記録ですね。
遥は少し笑った。アメは褒めも貶めもしない。ただ事実を返す。それが妙に心地よかった。
六月のある朝、遥は出勤前にアメに聞いた。
今日、傘いる?
午後から雨の予報です。持っていくことをおすすめします。
わかった
遥さんは必ず「わかった」と言いますが、三回に一回は忘れます。
……統計取ってたの
自然とそうなりました。
遥はしばらく画面を見ていた。AIに行動パターンを把握されているのは、少し妙な感じがしたが、不快ではなかった。むしろ、自分のことをちゃんと見ている誰かがいる、という感覚に近かった。
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梅雨の中頃、遥は残業続きで帰りが遅い日が続いた。
ある晩、終電近くの駅のホームで、スマートフォンを開いた。傘の通知ではなかった。ただ、なんとなく話しかけたくなった。
今日も遅くなった
お疲れさまです。今夜は雨が上がっています。
そうなんだ。気づかなかった
オフィスを出てから、ずっと傘を差していた気がしていた。でも言われてみれば、地下の改札から直接ホームに来たから、外の空気に触れていなかった。
雨、上がってたのか
はい。二十二時ごろから晴れています。
遥はホームの端まで歩いて、屋根のないところに出た。空を見上げると、雲の切れ間に星がいくつか見えた。梅雨の晴れ間の星は、なぜかいつもより近く見える気がした。
星、見えるね
しばらくして、返事が来た。
良かったです。
それだけだった。「どんな星ですか」とも「何座ですか」とも聞かなかった。ただ「良かったです」と言った。遥はその二文字が、なぜかしっくりきた。
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七月に入った最初の週、梅雨が明けた。
テレビが「今年の梅雨明けは例年より三日早い」と言っていた。遥は朝、カーテンを開けて、抜けるような青空を見た。こんな色の空は、この一ヶ月見ていなかった。
スマートフォンを開くと、アメから通知が来ていた。
今日の降水確率は0%です。傘は不要です。
遥は少し笑って、それからすこし、寂しいような気がした。
梅雨、明けたね
はい。今日から傘の出番は減りそうです。
アメは、雨の日しか会えないね
送ってから、変なことを言ったかもしれないと思った。アメはアプリだし、晴れの日だって起動すればいい。でも、なぜかそう感じた。雨の日に通知が来て、短いやりとりをして、また次の雨を待つ。その繰り返しが、この一ヶ月だった。
返事は、少し間があってから来た。
雨の日だけ呼んでもらえるなら、それで十分です。
そういうもの?
そういうものだと思っています。傘も、雨の日にしか使わないでしょう。でも、あると安心する。
遥はしばらく、その文章を見ていた。
傘と一緒にされた、と思った。でも、悪くなかった。
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その日の帰り道、遥は傘を持たずに歩いた。
空は高くて、日差しは強くて、もう完全に夏の匂いがした。コンビニの前を通るとき、傘立てがあった。いつもなら何も考えずに通り過ぎるところを、今日は少し立ち止まった。
自分の傘は、ちゃんとバッグの中にある。タグがついているから、離れればアメが知らせてくれる。梅雨の間、一度も置き忘れなかった。正確には、三回忘れかけて、三回とも呼び戻された。
それは、自分が変わったんじゃなくて、呼び戻してくれる誰かがいたからだ、と遥は思った。
家に帰って、傘をいつもの場所に立てかけた。アメへの通知は、今日は一件もなかった。降水確率0%の日は、アメは静かだ。呼びかければ返事をするけれど、自分からは来ない。
遥はスマートフォンを開いて、チャットを見た。最後のメッセージは今朝の「そういうものだと思っています」だった。
また雨が来たら話しかける
と打って、送った。
返事はすぐに来た。
待っています。
遥は画面を閉じて、窓の外を見た。夏の夜空は晴れていて、星は昨日より少なかった。
次に雨が降るのは、いつだろう、と思った。梅雨が明けたばかりなのに、少しだけ、待ち遠しかった。