『相談窓口は、閉店しました』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/25 📚 シリーズ: 短編集 📝 4,514文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

朝からずっと、イラッとしていた。自販機のコーヒーがぬるい。改札の人波が遅い。エレベーターが満員なのに、笑顔で「どうぞ」と詰めてくる人がいる。詰めるな、と思うくせに、詰めないと悪者になる空気も分かっている。だから余計にイラつく。

結局、僕が一番イラついている相手は、僕だ。そういう結論を出せるくらいには、今日の僕は性格が悪い。

会社に着くなり、三連発で“頼りにされる人の儀式”が始まった。

「ねえ松浦、これどう返すのが角立たない?」

「今日の飲み会、断り文句、何が一番丸い?」

「彼氏に送るLINE、既読ついたけど返事ない。どう思う?」

僕は笑って、「こうじゃない?」と短く返しながら、内心では舌打ちをしていた。角を立てない返事が得意だと、角のある気持ちが置き去りになる。置き去りになった気持ちは、あとで必ず踵を掴んでくる。

昼休み。自席でコンビニのおにぎりを食べていたら、後輩の浅井が椅子を寄せてきた。

「松浦さん、ちょっといいすか。恋の話なんすけど」

「……いいけど、三口で」

「三口って何すか」

「僕のおにぎりの寿命」

冗談で逃げる。逃げるのに、浅井は本気の目をしていた。

「俺、彼女に嫌われたかもっす」

「嫌われてない。たぶん」

「たぶんが怖いっす」

「怖いのが正常」

自分でも嫌になるほど、どこかで聞いたような言葉が出る。相談を聞くたび、僕の中で小さな棘が一本ずつ増える。刺さるのは相手じゃない。僕だ。

浅井が去った直後、スマホが震えた。

表示された名前で、胃が一段だけ沈む。坂上ゆい。同期。社内で一番「話しやすい人」と言われているのは、たぶん彼女だ。彼女が誰かの愚痴を受け止めているのを何度も見た。笑いながら、相づちを打って、最後にちょっとだけ背中を押す。

それなのに、彼女が「話しやすい」と言う相手は、なぜか僕だった。

『今日、屋上いける? ちょっとだけ』

ちょっとだけ。便利な言葉。逃げ道も一緒に付いてくる。

僕は「無理」と返しそうになって、指を止めた。無理、と言えば、いまのイラつきは誰にも渡らない。でも、無理と言った瞬間、彼女の「ちょっとだけ」が行き場を失う。行き場を失ったものは、だいたい夜に増殖する。僕はそれを知っている。

だから、いつもの返事をした。

『いいよ』

送信してから、息を吐いた。勝手に決めたくせに、勝手に疲れる。

*

屋上は風が強かった。フェンスの向こうで、街がまっすぐに並んでいる。まっすぐなのに、誰もまっすぐに歩けていない。

ゆいはベンチに座って、紙コップを両手で包んでいた。目の下が薄く青い。仕事が忙しいのか、別の何かが忙しいのか、どっちかだ。

「ありがとう。来てくれて」

「うん。で、ちょっとだけって何」

「重くないよ。重くない……はず」

ゆいは笑って、すぐに笑いを引っ込めた。引っ込める癖がある。笑いを引っ込める人は、いまは笑う番じゃないって知っている。

「ねえ、松浦」

「なに」

「恋の相談、していい?」

来た。

僕の胸の奥が、反射で固くなる。恋の相談は地雷じゃない。地雷じゃないのに、僕にとっては地雷だ。踏んでも爆発しないけど、ずっと足首に引っかかるタイプ。

「……いいよ」

僕は平気な顔で言った。平気な顔の貼り方だけは上手い。

「私さ、今の部署の先輩、いるじゃん。話が面白い人」

「ああ」

「あの人にさ、ちょっと……気があるかもって思って」

ゆいは紙コップの縁を指でなぞった。なぞり方が小さくて、慎重で、だから余計に本気っぽい。

「でもね、言えない。言ったら変になる。変になったら、今の関係が壊れそうで」

「……怖いんだ」

「うん。怖い。で、怖いから冗談ばっかり増える。余計な一言が増える。ね、最悪」

僕は笑いそうになって、笑えなかった。最悪、の中に自分の影がある。

僕も同じだ。言えないから、冗談を増やす。冗談を増やして、距離が縮まった気になって、実は何も縮まっていない。

「それでさ」ゆいが言った。「松浦、どう思う?」

どう思う、って言葉が急に重い。

僕は彼女の相談に答えたい。彼女が苦しくない方向に押したい。

でも同時に、僕は知っている。彼女が誰かを好きになる話を聞くたび、僕の中の小さな棘が増える。増えた棘が、朝のイラつきに化ける。誰のせいでもない。僕の弱さのせいだ。

「……行けるなら、行った方がいい」

口が勝手にそう言った。友だちとしての正しい答え。

ゆいが少し安心した顔をする。その顔を見て、胸の棘が一本、静かに刺さる。

「でも、さ」

僕は続けてしまった。続けると戻れないのに。

「行く前に、一個だけ決めたら」

「なに?」

「“言うこと”を短くする。長いと、逃げ道が混ざるから」

「逃げ道……」

「うん。『好き』とかじゃなくてもいい。まず、会いたいとか。話したいとか。そういうやつ」

ゆいはしばらく黙って、風に前髪を揺らされながら言った。

「……会いたい、なら言えるかも」

「それでいい」

「松浦、慣れてるね」

「慣れてないよ」

「慣れてる顔してる」

「それは……仕事の癖」

「仕事の癖、便利だね」

「便利だけど、よく刺さる」

言ってから、しまったと思った。刺さる、なんて言うつもりじゃなかった。

ゆいが目を細めた。

「刺さるの?」

「……刺さる」

僕は紙コップを握った。熱いのに、手を離さない。離すと、言葉も離れそうだったから。

「ねえ」ゆいが声を落とした。「松浦、今日なんか変」

「変じゃない」

「変。朝からイラついてたでしょ。いまも、笑ってない」

当たってる。怖いくらい当たってる。

僕は視線を逸らして、フェンスの向こうのまっすぐな道を見た。まっすぐは、いつだって逃げ道だ。

「……ごめん」

「謝るなら理由」

「理由って」

「私、話しやすいって言ったよね。だから、私も聞く権利ある」

権利、なんて言い方が可笑しくて、僕はやっと笑った。

「ずるい言い方」

「ずるいのは優しさの近道」

どこかで聞いたみたいな台詞を、ゆいが真顔で言うから、余計に笑ってしまった。

笑いが落ち着いて、僕は息を吸った。

ほんのわずかな勇気。たぶん、これ。今ここで、数ミリだけ前に出るやつ。

「……俺さ」

声が少し震えた。恥ずかしい。

「相談されるの、嬉しいんだよ。ほんとに」

「うん」

「でも、今日は……ちょっと、きつい」

言えた。言ったら終わると思っていたのに、終わらなかった。

ゆいは驚いた顔をして、それから、ゆっくり頷いた。

「……そっか」

「ごめん。勝手だよね」

「勝手じゃない。人間」

ゆいは紙コップを持ち上げた。

「じゃあ、今日は相談、閉店」

「閉店って」

「うん。代わりに、松浦の話を聞く。十分快ける?」

十分快ける。

その言い方が、僕の胃を少しだけ軽くした。長時間を約束されると怖い。でも十分なら、持てる。持てるから、ちゃんと渡せる。

「……十分、で」

「よし。じゃあ、いまから十分」

ゆいはスマホのタイマーを押した。ピッ。

残酷なくらい現実的な音。なのに、安心した。終わりがあると、始められる。

「で?」ゆいが言った。「何がきついの」

僕は笑って、でも逃げずに言った。

「君が、誰かを好きになる話」

ゆいが目を丸くした。

「え」

「え、って言うな」

「……ごめん、でも」

「謝らなくていい。俺が勝手にきついだけ。君が悪いわけじゃない」

「……松浦」

ゆいはタイマーを見た。残り九分半。

「じゃあ、これ、私の“板ばさみ”」

「言い方が硬い」

「硬いのが好き。逃げないから」

ゆいは真面目な顔のまま続けた。

「私、先輩のこと“気があるかも”って言ったけど、半分だけ嘘」

「半分?」

「うん。先輩の話、面白いのは本当。でも、相談したい相手は……前から決まってた」

僕の心臓が、また跳ねる。

ゆいは笑って、でも目はまっすぐだった。

「松浦、私さ。あなたに相談しやすいって言ったの、逃げ道でもあった」

「逃げ道?」

「好きって言うのが怖い時、相談に変えれば、隣にいられるから」

言い切ってから、ゆいは急に照れたみたいに紙コップを見た。

「……ずるいよね」

「ずるい」

「でも、今日やっと飽きた」

「飽きた?」

「この、相談にして誤魔化すの。ね、こういうの続けると、冗談だけ増えて距離が縮まらないじゃん」

ゆいはベンチの端を指でこつこつ叩いた。合図みたいに。

「だから、実地」

実地。

僕は息を吸って吐いた。短く。逃げない。

「……会いたい」

言った瞬間、風が一段強く吹いた。ベンチの下で空き缶が転がる音。遠くのクラクション。全部が急に現実に戻る。戻るのに、怖くない。

ゆいが笑った。引っ込めない笑い。

「言えた」

「言えた……」

「じゃあ、次。どこで会う?」

「え?」

「会いたいって言う練習、実地じゃないと意味ないでしょ」

ゆいはタイマーを止めて、立ち上がった。

「十分、延長。相談じゃなくて、飲み物。下の自販機で、酸っぱいの買おう。酸っぱいと黙るなら、黙った分、私が喋る。喋りすぎたら、あなたが止める。二人でやる」

僕らは階段を降りて、踊り場で風を避けた。会社の中の風は弱い。弱い風は、声を置ける。

自販機の前で、ゆいが迷わず柑橘系の炭酸を押した。

「はい。武器」

「武器じゃない」

「装備。ほら、今日は装備の日」

言い方がどこかの職人みたいで、僕は笑った。

エントランスを出ると、空気が少しぬるい。夜へ向かう途中の、曖昧な温度。

ゆいが缶を開けて、一口飲んで顔をしかめた。

「酸っぱ。……でも、この酸っぱさ、逃げにくい」

「逃げにくいって何」

「笑って誤魔化せない味。だから今日に合ってる」

僕は缶を受け取って一口飲み、確かに黙った。酸っぱいと、言葉が一回止まる。止まると、余計な飾りが落ちる。

ゆいが言う。

「ねえ、松浦。これからさ、相談窓口、曜日限定にしない?」

「曜日?」

「うん。月火水は“相談”禁止。冗談で逃げない日。木金は、相談してもいい。土日は、実地」

「実地好きだな」

「好き。実地は、嘘が減る」

ゆいは笑って言った。

「あと、合図。あなたが“平気”を貼りそうになったら、私が缶を叩く。私が喋りすぎそうになったら、あなたが缶を叩く。こつん、って」

僕は缶をこつんと叩いた。

「いま?」

「いま」

「なんで」

「……嬉しいから」

言った自分が照れくさくて、僕はもう一口飲んだ。酸っぱくて、黙る。黙ると、ゆいが笑う。笑いがあると、息が深くなる。

駅へ向かう道で、ゆいがふいに言った。

「私ね、あなたがイラついてる日、わりと好き」

「最悪の褒め方」

「最悪じゃない。イラついてる松浦、嘘が減る。たぶん、いちばん“いま”が見える」

その言葉が、妙に胸に残った。

改札の前で、ゆいが立ち止まる。

「ねえ、明日」

「うん」

「実地、する?」

「する」

僕は即答してしまって、目を見開いた。即答できる自分に驚いた。

「場所は?」

「……スーパーの前のベンチ」

「安いデート」

「安いのがいい。飾りが落ちる」

「いいね。じゃ、十分じゃなくて、二十分」

「増やすな」

「増やす。勇気の分だけ」

ゆいは笑って、手を振った。

家へ向かう電車の中、僕は指先で缶のふたをいじった。ささくれをいじるみたいな癖が出そうになって、やめた。代わりに、息を吸って吐いた。

今日、僕は相談役を閉店した。代わりに、少しだけ自分の店を開けた。客は一人でいい。むしろ一人がいい。

明日、ベンチでまた酸っぱいのを飲んだら、きっとまた黙る。でも、その黙りは逃げじゃない。次の言葉を選ぶための、短い呼吸だ。

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